終の章 《獣の国》2
「ーーー玄兄ちゃん、遅くない?本当に一人で大丈夫なの?」
「あいつは俺より強い、だから大丈夫だ」
もうすぐ太陽は西の山に沈もうとしていた。小さな少年は心配そうな眼差しをずっと村の出口へ、随分前にそこから飛び出していった男の心配をしてくれている。彼の心配はまったくしていないというわけではないが、どうせ五体満足で帰ってくるだろう。数千年も連れ添っているのでよほどのことがなければ彼が死なないことくらい分かっている。
「お前も、そろそろ家に帰った方がいい。母と父が心配するぞ」
「・・・俺も、玄兄ちゃんが帰ってくるまで待つ」
焚火に枝を放り込みながら少年は首を横に振る。村人たちの手当は既に終えて、その多くは安静の為に自らの家に帰って行った。残ったのは動ける村の若者と村長、そして焔と正吾だけ。玄が強襲をかけた以上、ただ一人の逃亡者も出さずに彼は文字通り奴らを殲滅するはず。だからこの監視もあまり意味はないわけだが・・・彼らはどちらかというとよそ者である自身たちの警戒をしているのかもしれない。明らかにこの国の人間ではないと分かる出で立ちや力を見れば警戒するのも必然で。しかし焔としては慣れたことなのであまり気にはしていなかった。
「焔様、失礼いたします」
ぼんやりと狩人たちを眺めていると視界の端からこちらへ歩み寄ってくる影が二つ。村長と若い女性だった。彼女の手には果物の乗った盆。リンゴと思われるそれはしかし一般的なそれと比べるとやや小さくまだ熟していないようにも見える。
「様はよしてくれ、そんな大層な存在じゃない」
「何をおっしゃいますか!我らを救っていただいた恩人に敬意を尽くすのは当然の道理・・・こんなものしかございませんが、どうぞ召し上がってください」
そうして村長は娘だと紹介した彼女を前に出させて、娘も膝を着いて丁寧に献上してくれる。細い腕だった、若々しいというよりも栄養が足りなくて肉付きが悪いように見える。村人たちの手当をしていて感じたことでもあるが、彼らは全体的にやせ細っているのだ。獲物が減っていると言っていた正吾の言葉が蘇る。
「・・・受け取れない。これは貴重な食糧だろう?俺ではなく、身重や子どもに食べさせるべきだ」
「しかしそれは・・・」
「心配ない。それに・・・奴が獲物を持ち帰ってきた」
ざわめく狩人たちの気配、そして村の外からこちらへ向かって全速力で向かってくる愛おしい魂の気配。振り返るのとその魂が村へ入って来たのはほぼ同時、嘶きを上げる銀の龍とその背に跨る対。そして彼の握る縄には今朝方仕留めた大猪がくくられていた。
「ただいま!捕まっていた者たちを送っていたら遅くなってしまったが・・・夕飯は終わってしまったか?」
「おかえり。いいやまだだ、ちょうどその獲物の事を話そうと思っていたところだ」
「玄兄ちゃん!!」
立ち上がって彼の側に向かうよりも早く、喜びに飛び跳ねる正吾が騎獣から降り立った彼に抱き着いた。見たところ怪我もなく、疲弊した素振りも一切ない。やはり彼が相手では盗賊どもも手も足も出なかったのだろう。玄は一頻り正吾の頭を撫でると驚き固まる村長たちを見つけて歩み寄った。
「村長殿、これでしばらくは盗賊の被害は減るだろう。それとあのイノシシは今朝方我が妻が仕留めた獲物だ、村人の腹を満たすくらいにはなると思うが・・・」
「あ・・・あんな大きな獲物を・・・たった一人で・・・?」
「これと引き換えに、今晩の宿をお借りしたい。正吾の話では村の外れに空き家があるそうだな?」
晩飯どころか向こう一週間の食糧にはなりそうな獲物を前に村長は可哀そうなほど震えている。彼らがここ最近どれだけの食糧で持ちこたえていたのか分からないが・・・若い狩人の何人かは思わずと言った様子で唾を飲み込んでいる。よほど飢えていたのだろう、やはり猶更あの果物は受け取れない。しかしながら、これでは向こうもわりに合わないと思うかもしれない。
「・・・変更だ。その獲物と、先ほど頂いた果物と引き換えに・・・その空き家をそっくりそのまま貰おうか」
「ん?」
そう提案を持ち掛ければ村長の表情がいくらか和らいだように見えた。一宿一飯の恩では多すぎる、ならば家の所有権なら釣り合うだろう。彼は表情こそ和らいだものの、しかしまだ困惑気にこちらと玄とを交互に見つめている。
「あのような襤褸家はとてもとても・・・それに貴公らは、旅をしているのではないですか?」
「安住の地を探している。ここは居心地がよさそうだ、それに襤褸家の方が都合がいい」
作り直し甲斐がある。そう言って笑えば村長はみるみる目を見開いて、やがて感謝と共に拳礼していた。盗賊を一網打尽にできる存在が住んでくれるとなれば安心できるだろう。彼らの信頼はこれから勝ち取っていくしかないが、今日のことでそこそこ好感度は上がるはずだ。
そうして玄は近くにいた狩人にイノシシを託し、そうして娘の手にしていた果物をそっと押し返している。必要ない、そういって笑った男は視線を少しだけ下げて告げた。
「君が食べるといい。お腹の子の為にも栄養を付けるべきだ」
「・・・子ども・・・?え・・・?」
彼女は驚いたように目を見開いて反射的にお腹に触れている。あの反応はどうやら知らなかったらしい、村長もぎょっとして娘を凝視している。焔は気づいていたが、妊婦にしてはやせていたのはそれが理由か。
「ほ、本当ですか・・・?」
「あぁ、元気な男の子を生むといい」
彼女は感極まったのか涙まで流していた。子宝と言うのはどの世界でも尊いもの、村長も新しい孫ができたことこを心から喜んでいた。
そうして村人たちが続々と広場に集まって、久方ぶりに見たのだろう大きな獲物に歓声が上がる。焔はそれを見届けて、そうして村長に小さく声を掛ける。
「俺たちはこれで、納屋にいる盗賊どもを片付けてくる」
「それは若いものに!貴公らも是非獲物を、」
「旅の備蓄がまだ残っていてな。腐らせても困る、それに家の様子も先に見ておきたい」
早口にそう告げて引き留められる前にその場から離れた。察しの良い玄は既にアルジェントの手綱を引いていて、正吾に教えてもらった空き家へと続く道を気持ち速足で進む。背後からそっと寄り添ってくる彼は、しかしどこか張りつめた空気をしていた。
「・・・盗賊を全員、お前が潰したアジトに放ってこい。お前が帰ってくるまでくらいなら・・・寝台は整えられるだろうよ」
立ち止まって振り返れば、間髪入れずに抱き着いてくる彼の吐息が首筋にかかる。逃がさないと言わんばかりに腕を回す彼は、しかしその言葉にそれ以上先に進むのを止めてくれた。ここからでは顔は見えない、けれど吐息も鼓動も熱いほど。先ほどまでは聖人君主たる律した姿を見せていた男が、己を相手に獣の如き本性を剥きだすその様は何度見ても優越感を抱かずにはいられなかった。
「・・・煽るな」
「夫を妻が煽って何が悪い?」
「・・・覚えてろ」
唸るような声を上げた彼は些か乱暴な調子で腕を離すとアルジェントに跨った。頼もしい騎獣は一声嘶くと踵を返し、その姿はあっという間に夕闇の合間に消えて行った。最後の最後まで彼の顔が見れなかったことは非常に残念ではあった。
「・・・さて、今日は月明かりはどうだろうか」
見上げた空に雲はない。今宵は満月、ならば彼の顔が良く見えるだろう。あれが興奮し我を忘れるほど乱れた姿はただ愛おしい、こちらを見据える双眸の色の違うそれを眺めるのも、その中に燃える焔を見るのも。ただ己だけを求めてくれているのだと思うと歓喜さえしていた。
ここは居心地が良い、それはただの直感だった。この土地は落ち着くものを感じる、理由はないけれど・・・住んでみたいと思ったのはここが初めてだった。男の妻であっても受け入れてくれる、彼らの生き方にまた従いたいと感じた。だからここではできる限りのことをしよう。思い浮かぶのは、穏やかに笑って見送ってくれた主神の姿。
「・・・我が女神、ここが安住の地になりそうだ」
もう少し落ち着いたら彼女に手紙を。そんなことを考えながら見上げた空に一番星が輝いた。
~~~~~~~~~~
また村が襲われた。息も切れ切れに飛び込んできた伝令の言葉に直ちに支度を整えて都を出立したのは昨日だった。部隊を引き連れて馬を走らせ、件の村にたどり着いたのは知らせを受けてから三日も経った後。別の地方で集落が襲われて、その処理を終えて都に戻った直後の知らせであったから準備は万全とは言い難い。しかし国の民を見捨てることはあっはならないという王の言葉に非を唱える兵士はいなかった。
「戻って来たと?全員がか?」
しかしそうして村についてみれば、なんと攫われた番全員が無事に戻ってきたというのだ。多少怪我を負った者はいたものの死者はいない。出迎えてくれた村長は、今でも信じられないと言いたげに顛末を語ってくれた。
「三日前、村が襲われて二日が経った時でした・・・銀の魔獣の背に跨った黒い剣士様が、攫われた番たちを連れてきてくれたのです・・・」
この国の人間ではない、異邦人の出で立ちをしたその男は拉致された村人たちをここまで送って来たというのだ。その剣士は単独で盗賊のアジトを襲い、たった一人で奴らを捻じ伏せて捕まっていた村人たちを救出したと。
「その者は今どこに?」
「申し訳ありません・・・引き留めようとしたのですが、妻を待たせていると・・・今はどこにいるのか、私どもにも分かりません・・・」
彼は村人たちを送り届けてそのまま帰ってしまったというのだ。名前もどこから来たのかも分からず、分かっているのは銀の魔獣を使役しとてつもない強さを秘めているということ。
これは非常に難しい状況になったと、沈念は深く思案する。村が救われたのは嬉しい誤算だ、しかし肝心の剣士の所在が分からない。彼は本当に味方か、この国に来た目的も、その強さも計り知れない。この国にとって有益となる人物であるならまだいい・・・もし、盗賊たちのような悪行を働くとしたら?盗賊でさえ四苦八苦している己らに、魔獣を従えるような者をどうにかできる方法など。
宿にと宛がわれた部屋の中は既に薄暗く、東の山から登り始めた月と机に灯した蝋燭の灯りだけが頼りだった。必要最低限の家財だけが揃えられた物寂しい部屋の中、男の様相は誰がどう見ても疲れ切っているように見えただろう。川のせせらぎのように流麗な面立ちは度重なる出陣にやつれ、柳眉を崩す眉間の皺は若々しさを損なわせまるでノミで刻み込んだかのようだった。すらりとした長身を包む鎧は汚れが目立ち、手入れの暇さえないとばかりに使いこまれた古さとはまた違う損傷が見て取れた。思考に耽るあまりに鈍痛を訴え始めた眉間を揉み込んだ手は戦士と呼ぶには細く、しかし文官と呼ぶには剣士さながらのタコが目立つ。
蝋燭の火が風にあおられ揺れていた。微かに男の視線を掠めたそれに、かぶさるように視界に新たな色が入り込む。灯の光を反射する、木漏れ日の色をした真白の髪の主を確認する間もなく声が掛けられた。
「
ドツボに嵌った思考を遮ってくれたのは奥の声だった。はっとして顔を上げれば、見上げた先に微笑む彼の姿がある。同じ年頃の若い男はしかしその全身は白亜を纏っていた。腰まで届く髪も、緩やかな神官服に包まれた体も、若草の瞳を縁取るまつ毛も眉毛も。木漏れ日の白光を称えた彼の、常は穏やかに細まるその眼差しはしかし陰りと憂いを帯びている。
「・・・すまない。少し、考えごとをしていた」
「黒の剣士かい?異玖邦人だそうだね」
「あぁ・・・これから、この国の脅威にならねばいいが・・・」
緩やかに笑う彼は、大丈夫だと言って手を伸ばしてくる。そう言えば鎧を外していなかった、奥の手にされるがままにぼんやりと彼の頭を眺めて、微かに低い位置にある白い頭に無意識に手を伸ばしていた。
「・・・擽ったいよ」
「・・・すまない。最近・・・触れていないから」
沈念は一部隊の隊長で、彼は数少ない都の医者だ。今は盗賊の再来という不祥事が続いているおかげで彼と城で会う機会が増えている。しかしここ最近は忙し過ぎて家に帰ることが少なくなっていた。困ったように笑う彼の、こちらを見上げる瞳に混ざる寂しさと、求めるような熱色。最後にお互いに触れあったのはいつだろうか、つい考えてしまって嘆息する。部下は気を使ったのかなんなのか、己らをこの部屋に一緒にしてくれた。しかし今は私情に耽ってはいけない、それは彼も分かっている。
「・・・すまない、
「・・・分かってるよ。私は大丈夫、貴方は貴方の為すべきことを」
先に寝る。そう告げた彼の手をつかみ取りたい衝動を必死に抑えた。為すべきことを、それはこの国を守る兵士としての務めだ。問題は山積している、盗賊の襲来はもちろん金砂や蒼海との貿易問題。その上でさらに謎の異邦人・・・たった十年でこの国は随分と変わってしまったものだと、憂いと悲しみが胸を満たす。
「・・・異邦人か」
外の世界というものをまだ見たことがない。外には神が集う未知の世界が広がっているというのは師匠の言葉、永遠を生きる種族や強大な魔法を扱う種族、そこには様々な文化や風習があり、多種多少な種族が生きていると。まだ幼き頃に聞いた時はただ興味だけが湧いたというのに・・・同じ異邦人である盗賊には、ただ嫌悪と恐怖しかない。奴らは強欲で傲慢で、その上命を軽視し殺しさえ厭わない。獣人の狩人は命を重んずる、命を狩るとは生きること。故に糧を得る以外での殺生は厭われるべきこと。であるのに奴らは無抵抗の人間にも刃を向け・・・子どもが宿る者の腹を斬り裂いて赤子を喰らう輩もいるとか。
それを聞いた時はただ驚き、同時に憎悪さえ湧いたのだ。外から来た輩は皆けだものだ、命を軽んずる野蛮人。村人を救ったという黒の剣士も信用ならない、だからこそこの目で直接見て確かめなければならない。開け放たれた窓の外に目を向ければ、微かに欠けた次が西の山に沈もうとしているのが見えた。
~~~~~~~~~
この村に来たときから、微かな違和感を感じていた。何かが足りないと、漠然としたそれが判明したのは焔との一夜を明かした次の日の朝。かつて医者が住んでいたという襤褸家は調度品や家具こそなかったものの、雨風を凌ぐ屋根や壁はそこそこしっかりしていた。しかし・・・普通の家なら当たり前にあるはずのものがなかったのだ。そしてそれが違和感の正体に繋がっていた。それに気づいた時はまさかと思ったが、それを指摘したときの心底不思議そうに首を傾げた正吾を目にして納得もした。
「まさか野菜を知らないとはなぁ・・・」
「奴らの主食は肉だ。後は小腹を満たすのに果物を数種・・・獣の先祖を持った種族は大抵そんなものだろう」
「いやしかしだなぁ、まさか料理という言葉を知らないとは思わないぞ」
そんな言葉を交わしながら手製の鍬を振り上げて土を耕すことかれこれ一時間、昨日は小麦畑を作る為に家の前を耕して、そちらの方は今しがた焔が種を植えている。そして己は、その隣にとうもろこし畑を作ることにしたのだ。
この村に畑がない。他の国なら当たり前にあるそれがここには影も形もなかったのだ。貰った家には囲炉裏はあれど台所がなく、昨日立ち寄った正吾の家にもそれらしい設備は一切ない。ここの住人たちは朝は森で取れた木の実や果物をそのまま食し、昼飯はなく夜は狩人たちが仕留めた獲物を村人全員で分け合う。これはこの村に限った話ではなく、翠森はもとい三獣連合全体での獣人族の一般的な生活習慣だと教えてくれたのは、かつて都に住んでいたという正吾の母。
「肉は焼くか煮る、余った分は干して非常食。調味料すらしない・・・というか、その存在がない」
「食事は楽しむものではなく、生きる糧を得る行為。料理は手間がかかるからな、獣人のスタイルには合わないんだ」
珍しいことかと言われれば、世界的に見れば別段珍しいことではない。辺境の国や原始的な場所では獲った獲物を口へ産地直送なんて当たり前だったし、郷に入れば郷に従えとばかりに同じことをしてきた。しかし悲しいかな、人間だったときの習慣や実家での暮らし方は抜けるものではなく・・・そうしてこちらの技術をつかって少しでも過ごしやすいようにと改革と革新とを繰り返してきた。
「小麦ととうもろこしと、ジャガイモと稲と・・・トウキビもいけるか?」
「水田系は後だな。米は早急に手に入れたいところではあるが・・・暫くはパンで手を打とう」
郷に入れば、しかしその郷を変えるのもまた必定だ。ここで暮らすと決めたからには少しでも安定した生活をしたいし、なんなら受け入れてくれた村人にも農業技術を提供したい。かつて
「ししょー!!玄兄ちゃーん!!」
ふとその時、遠くから己らを呼ぶ少年の声が。振り返れば小道の向こうに正吾の姿。彼の背負う籠から覗く果物の数々はこの森で採れるものらしい。ここは植生がとても豊かで、地方によっては採取ができない果物さえも普通に採れる。
「一人か?」
「そーだよ。一杯採ってきたんだ、兄ちゃんたちにも分けようと思って!」
籠の中身には様々な種類の果物が一杯に詰まっていた。ここでは皆が仕事を持っていて、子どもや奥たちは山へ果物を採りに、夫たちは狩りにでるのが習慣だと。そして狩りで一番の獲物を獲った一家は向こう三日の狩りをしなくても良い決まり。故にこうして野良仕事をしているわけだが、畑どころか野菜という存在さえ知らない正吾は家の前に広がる畑を見つめてはてと首を傾げている。
「これがはたけ?」
「ここで食べ物を育てるんだ」
「ふーん・・・草が食べられるの?」
野菜は何かと問われた時に、草の一種だと話したら正吾は顔を顰めていた。あれは山羊が食べるものだと零した彼は野菜のことをあまり信用してはいないようだ。子どもというのは野菜を好まない傾向がある、しかし本当に美味しい野菜というのは肉や魚にも劣らぬ食材になるのだ。
「とびきり美味い草だぞ?そのまま食べるのは難しいが・・・出来上がったら食わせてやるさ」
「異邦人は草を食べるのか・・・でも、ちょっと気になるから、出来たら教えてくれよな!」
草は草でも山羊が食べるようなものではないが、彼は出来上がる作物を見て驚くだろう。その様子を思わず想像してついと笑みを零せば、小麦の種まきを終えた焔もこちらへ歩み寄ってきた。
「また沢山採ったな。ジャムにしてもよさそうだ」
「猶更パンがいるな」
その為には小麦と、ジャムづくりに砂糖は欲しいところ。しかし水田はそう簡単に整備できるものではないので野菜作りが軌道に乗り始めたら考えよう。そんなことを考えていると、下から正吾のどこか控えめに焔を呼ぶ声が聞こえてきた。
「あの・・・師匠は・・・医者で魔法使いなんだよね・・・?」
「まぁ、そうだな。医者と言っても必要最低限程度の知識しかないぞ」
先ほどの溌剌とした様子とは打って変わって少年の視線は迷うように忙しなく動いている。この国には魔法を扱える者は少なく、村長の話では都にいる医者の数人が扱う程度だそうだ。獣人族にとって医者と魔法使いはイコール的な存在らしく、どこに行っても重宝されるだろうとも。
「・・・あのさ、師匠に見て欲しいものがあるんだ」
「別に構わんが・・・何をだ?」
来て欲しいと告げた少年に従って焔共々村に向かった。居住としてもらった家は村の中心から林を隔てた場所にあり、かつて医者が住んでいたこの場所はしかし神聖な場所であるからおいそれと近づいて行けないとなっていたらしい。ここでは魔法使いは神の御業を行使する聖人らしい。しかし焔は一切そんなことを気にしないので、初日に村人たちにも遠慮はしないで欲しいと告げていた。しかしここに来て三日、こうして来てくれるのは正吾くらいしかいない。
「この村の《結界石》、広場にあったんだけど・・・覚えてる?」
「広場・・・あぁ、あの祠か」
林を進みながら正吾が話してくれたのはこの村の守護を担う《結界石》の存在。それは文字通り結界を展開する魔道具であり、その結界が魔獣の侵入を防ぎ村人たちを守っている。高天の円丘地域にも似たようなものはあるが、しかし今はそれに問題が起きているというのだ。
「あの盗賊が、結界石を壊しちゃったんだ・・・」
「・・・それは初耳だぞ」
あれから三日経っているというのに村の守護を担う結界石が破壊されていたなんて初めて知った。水生村は魔獣の生息する地域にもほど近く、今の今まで襲来が無かったのは奇跡かもしれない。まだ己らを信用していないのか、それとも気が引けていたのかは定かではないが。
「都の医者様なら治せるかもしれないって、今朝方狩人の何人かが出ようとしたんだ。けど魔獣に邪魔されてすぐに帰ってきた・・・怪我人はいなかったけど、このままじゃ村が襲われる・・・」
「・・・良く言ってくれたな正吾、ありがとう」
ここに住むと決めたからにはできうる限りのことを。だというのに救えたかもしれない命を見殺しにしたくはなかった。まだ被害が出ていないなら早く対処を。林を抜けて集落が見えた所で少年に村長を呼んでくるようにお願いし、焔と共に一昨日の広場を目指す。こちらの姿を認めた村人の多くは驚いた様子で、広場にはこれから狩りに出ようとしたらしい狩人たちが訝し気な様子で凝視してくる。その中には正吾の父である東水の姿もあり、彼は焔との一件もありこちらに歩み寄ってきてくれた。彼は爽やかな印象の青年だった。無邪気な正吾の父たる彼は異邦人である己らにも屈託なく接してくれる。一本に結いあげた焦げ茶色の髪、程よく日に焼けや健康的な肌色に、切れ長の大きな瞳、やや低い鼻立ちは浮かべる笑みとの相乗効果で愛嬌さえ感じ、この村の中ではやや小柄な部類ながら狩の腕は一番だと聞く。
「どうされた?」
「結界石のことを聞いた。何故言わなかった」
焔の鋭い眼差しに東水はバツが悪そうに視線を外していた。曰く、昨日今日来たばかりの異邦人を信じ切れない村人が多いとのこと。さらに相手が魔法使いともなれば警戒も強く、狩人は特にそれが顕著だというのだ。
「すまない・・・救われておきながら失礼だとは分かっている。貴公らがあの盗賊どもとは違う存在だということも」
「まったく・・・まぁいい、信頼とは時間をかけて得るもの。今からその第一歩と行こうか」
仕方がないと嘆息した焔はそうして結界石へ歩み寄る。広場から少し外れた場所、小さな祠が建てられたのだろうそこはしかし無惨に破壊されていた。崩れた祠の残骸をどかしてみると粉々に砕けた結界石が。これはどうやったところで修復は不可能だろう。
「酷いな、やつらも分かって破壊したのか」
「罰当たりな奴らめ、祠には土地神が宿るというのに」
残骸を見ればこの祠がかなり古いものだと分かる。結界石の多くはかつて神々がその土地を守護せんと自らの一部を依り代に作った物がほとんどだ。それは例え何千年の時が経とうと色あせることなくその地を守り続けてくれる。神の慈悲と寵愛が一心に詰まったそれを破壊するなど、もしこれが我らが主神の作った結界石であったなら即座に天罰が降っていだろう。
「ここまで破壊されては、魔法使いでもどうにもできないのでは?」
「なければ作ればいいだけの話だ。ついでに性能も上げる」
彼は結界石の残骸を診ただけでかつての結界の性能を見抜いたようだ。そうして彼が早速とばかりに要求したのはアルジェントの鱗。
「角じゃなくていいのか?」
「この森一帯の生き物がいなくなるぞ」
「それはまずいな」
あれは古き龍の一種、それを依り代にするなら結界石の代わりには十分になるだろう。指笛を鳴らせば遠くから騎獣の嘶き声が聞こえ、数秒後には目の前に頼もしい銀の龍が降り立つ。見慣れた姿である彼の存在にしかし狩人たちは途端に殺気立ち中には弓を構える者も。それを止めてくれたのは東水と丁度現れた村長たちだ。
「よさんか!我らが恩人に刃を向けるなど!」
「魔獣を使役するような輩を信用なんてできません!!異邦人なんてどいつもこいつも・・・!!」
彼らの目に宿るのは憎悪と恐怖。彼らは村を襲われ、大事な人を傷つけられた。安住の地としていた場所を蹂躙されて憤らないわけがない。村人たちがこちらとの接触を避けているのはそれが大きな要因だろう。信頼を得るのには時間がかかる、誰も彼もが正吾のように素直なわけではない。何度も経験し、見て来たその眼はしかし何度体験しても痛むものを感じた。
「・・・これが終わったら、すぐにでも家に帰る。必要とされない限りはあそこからは出ない。結界を張り直すだけだ、ここには身重もいる」
矢を向けられているというのに焔の声は穏やかだった。彼は狩人たちの痛みを理解して、故に穏やかに接している。それこそ彼が矢を放っても微動だにしないかもしれない。さすがにその時は割って入るが、彼が動かない以上は動かないつもりだった。
「・・・引け、お前たち。彼らに恩があることを忘れてはならない・・・命を重んずる我らが、命を救ってくれた者を害してはならない」
東水の静かな声に狩人たちの気配が揺らいだように感じた。東水は村一番の実力者らしい、その彼の言葉には狩人たちも従わざる負えない。そして獣人族は皆命を尊び、故に命を狩る行為は生きる糧を得ることと、命を守ること以外では絶対に行使しない。まして私怨での殺しは禁忌とすらしている。気高い生き方だと思った、外を知らぬが故の高潔さを玄は一等愛おしいとさえ感じていた。
「・・・・・・俺たちは、まだ信用しないぞ」
「それでいい、いざという時は俺の頭を撃ち抜くつもりで見張っていればいいさ」
出来たらの話だがな。なんて不敵に笑う彼の言葉に狩人の青年は頬を引きつらせていた。人を煽る癖は数千年経っても治せない、玄はもう随分前に諦めた。
そうして焔はアルジェントから鱗を拝借すると祠跡へ、すると村長は慌てたようにあるものを焔に差し出した。彼が持ってきたのは真新しい木箱。結界石を納めてたものを同じものらしい。
「そろそろ交換の時期でしたから、もし必要であれば使ってくだされ」
「丁度良いな。助かった」
結界石を納めている箱は周期で交換していたらしい。本来は都の魔法使い、《医術者》が行うそれらしいが今回は有難く使わせてもらうことにする。焔は親指の腹を噛み千切ると箱の側面、四面全てに術式を描いていった。高天の円丘系の術式だった、しかし血を使うという行為に村人の多くは驚いたような声を上げている。
「魔法って・・・あんな風に使うの・・・?」
「焔は色々な世界の魔法を知っているんだ。これはかなり強力だぞ?」
そうして術式を描き終えると箱の中に鱗を納め、蓋を締めるとそのまま祠があった場所に置いた。本当はちゃんとした祠を作りそこに奉納してから発動させたいのではあるだろうが。今は魔獣の危険を失くすことが最優先だ。
「《科戸の風の 天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧 夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く》」
凛と紡がれる口上に辺りの空気が変わったのが分かった。吹く風は朝風のように冷たく、夕風のように清く澄み渡っている。箱に描かれた術式が淡い光を帯びてそこから溢れる風が徐々に強く広がっていく。
「《禊祓い 清め給へ》」
打ち鳴らした柏手は高く響き渡り、溢れた光が村全体を覆っていく。どよめきと歓声が沸き起こり、半透明の光の膜は村を囲み周囲の森へ燐光を散らした。ひと際大きな風が吹くと光はだんだんと収束し、最後には箱は元の姿へ戻り展開された結界も見えなくなった。
「ここに新しい祠を建ててくれ。箱は動かしても構わないが蓋は開けないように、開けてしまった時はまた張りなおすからすぐに知らせてほしい。祠を建てた後は普段と同じように手入れしてくれればそれで大丈夫だ」
てきぱきと指示を出す焔の言葉に村長は頷きながらも心ここに在らずと言った様子だった。もしかしたら結界を張る作業を工程を見るのは初めてかもしれない。聞けばやはり初めてだと言っていた。
「これで魔獣は村には近づかない。それと祠を破壊しようとした輩を結界の外に追い出すこともできる。あとは・・・村の周囲の森に入っても魔獣たちはそこには入ってこないはずだ」
果物を採りに行く程度なら大丈夫だろう。そう零した焔の言葉に村人たちは驚いた様子だった。今まで展開されていた結界はせいぜい魔獣の侵入を防ぐ程度、しかし焔が張りなおしたそれは村の周囲に魔獣が近づかないようにするタイプのものだ。これで果物を採りに行くときの安全性も確保できる。
「じゃあ俺たちはこれで」
「ちょ・・・ちょっと待ってくだされ!!」
そうして約束通り帰ろうとしたら村長に止められた。何かを振り返れば、その背後には目を白黒させる狩人たちの姿もある。どうしたのかと問いかけたら、そのまま帰すわけにはいかないと言われてしまった。
「ここまでして頂いたというのにはいそうですかと帰せるわけないしょう!」
「しかしだなぁ・・・」
「そうだ狩りに行ってはいかがでしょう!?そこで是非狩人たちと交流を!!」
お互いに話をするべきだ。そう力説する村長の言葉は一理ある、先ほど剣呑な視線を送ってきた狩人たちもその眼差しはどこか必死で。さしもの彼らも恩を仇でとは思わないのだろう。彼らは善悪を匂いで定める、元より害そうと考えてはいないのでその辺りは信じてくれているのだ。確かにお互いに話し合う時間というのは必要だ。
「お前が行くといい。俺はまだ種まきが、」
「貴方が来ないと意味がない・・・話を聞かせて欲しい」
そそくさと去ろうとした焔を止めたのは先ほど弓を構えたあの青年だった。彼の腕をつかみ取る彼の眼差しはどこか申し訳なさそうな色味もあって、謝りたいと告げる彼の言葉に焔は困ったような表情をしている。彼もまさか結界一つでここまで変わると思わなかったのだろう。この様子を見るに根は素直に違いなかった。
そこまで必死にされるとさしもの焔も邪険にはできなかったようだ。微かに笑みを浮かべた口元は受け入れ始めてもらえたことを喜んでいるようにも。
「・・・まぁ、出るか」
「俺は弓はからっきしだぞ・・・」
「素手で熊を倒すような男に武器なんぞいらん」
苦笑を漏らした彼はそうして弓を取りにいくと言っていた。素手で熊、なんて言って遠くを見つめる東水の微妙な表情は見なかったことにしよう。あの時は本当に大変だった、ドラゴン族の試練だと言われて丸腰で魔獣の森に放り込まれたのだ。
「まぁ・・・荷物運びくらいはするか」
「兄ちゃんすっげぇんだな!素手で熊を倒せるんだ!!」
からころ笑う正吾に今度熊を狩ってくれとせがまれて、声を聞きつけた村の子どもたちも群がってきた。どこか懐かしいような光景は何度見ても穏やかな心地にしてくれる。人の輪の中は暖かい、手放し難く、守りたいと思える場所。それはずっとずっと昔の、かつて生きた世界の面影を彷彿とさせる。この光景があの時を、辛くとも愛おしい日々を思い出させてくれた。
「兄ちゃん兄ちゃん!!熊ってどのくらい大きかったの?どうやって倒したの?」
「分かった分かった、そんなにせがむな・・・正吾」
飛び跳ね笑う少年の、輝くような眼差しがとある少年の面影と重なって見えた。ついその名を呼ぼうとして咄嗟に誤魔化したが。あの日々は思い出、だからこそ今を生きられる。かつての名を、人であったときの名を呼んでくれる少年の声が脳裏に蘇った。
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