3-10.幸せを願って~柊side~
──また数カ月経ったある日…
街を歩いていると、女子高生の集団とすれ違った。ふわっと懐かしい香りが俺の嗅覚を刺激する。
「亜妃……?」
それは紛れもなく、あの香水の香りだった。
俺はカバンの中からまだ一度も取り出したことのなかった香水のボトルを手に取ると、シュッとひと吹きした。
匂いの記憶というのは、恐ろしいほど心と身体に深く染み付いているものだ。
香りを嗅いだ瞬間、亜妃と過ごした時間が俺の頭の中を駆け巡った。
たまらなく懐かしくなった。
どうしても亜妃に会いたくなった。
もう今更だとずっと諦めて過ごしていたにも関わらず、なぜ急にこんなにも会いたくなったのか……
自分でも不思議だったけど、その香水の香りは俺の行動力までをも強く刺激していた。
──その日、真知子さんは夜勤だったので、俺は夜行バスで亜妃に会いに行くことに決めた。
話せなくても良い。ただ顔が見たい。
その時の俺は、自分の身体と引き換えに真知子さんに生活を支えてもらっている──俗に言う“ヒモ”のような状態だった。
そんな自分が情けなくて恥ずかしくて……綺麗で純粋な亜妃にはもう合わせる顔がないと思いながらも、会いたい衝動を抑えることはできなかった。
元気な姿を見られたらそれだけで良い。
その一心で、俺はバスに揺られた。
──思い出の詰まった住宅街に足を踏み入れる。
昔の家の前に着くと、変わらず向かい側には亜妃の家があった。
そこに立つだけで込み上げるものがあったけど、泣いたら止まらなくなると分かっていたから、湧いてくる感情にはあまり浸らないようにした。
もし今日一日待っても会えなかったら帰ろう。
そう心に決めて、俺は家の鍵を開けた。
玄関を入ると……あの朝の出来事が鮮明に浮かんできた。
ママの突き放すような言葉を聞いた亜妃のあの驚きと悲しみの混ざった表情を思い出し、胸が苦しくなった。
家具も家電も業者に回収してもらっていたため、家の中は何もなくガランとしている。
俺は、自分の部屋へと上がった。
……亜妃との思い出が詰まったこの部屋。
固く閉ざされていた雨戸を開け外を見ると、向かいには変わらず亜妃の部屋があった。カーテンが開いていて中の様子が見える。あの頃と変わらぬ生活感が窺えた。
よかった……まだここに住んでるんだ。
それが分かり、ほっとする。
ここから顔を見ながらよく電話したなぁ……。
思い出は次から次へと記憶から飛び出してきた。
初めてあいつとsexした日……
緊張して震えてた俺に「大丈夫」と言ってくれた。
あったかくて可愛くて幸せすぎてたまらなかった。
「──ダメだ…っ…、」
鮮明に思い出される記憶の数々。
込み上げてくる涙には逆らえず……結局誰もいない何もない部屋で、俺は独り、静かに泣いた。
──日が暮れてきた頃…
窓の外から聞き覚えのある透き通った笑い声が聞こえてきて。ドクドク…と俺の心臓は一気にスピードを上げた。
外から見えないようにそっと声のする方を覗くと、昔と変わらずキラキラ笑う亜妃の姿が見えた。
白く透き通る肌に濃いめの赤いリップを塗り、胸の辺りまである髪を緩く巻いて、ロング丈の黒いワンピースを着ていた。
亜妃は歳を重ねて大人の色気も出てきていて、息を呑むほどますます綺麗になっていた。
そして……楽しそうな亜妃の視線の先には……
高校時代、彼女に好意を寄せていた──天王寺の姿があった。
並んで歩く二人を見た俺の心は、複雑な感情が渦巻いてごちゃごちゃになった。
やっぱり亜妃はもう、他の男と……。
その事実を認めたくない自分がいた。
亜妃はもう次に進んでいる。俺の気持ちだけがあの頃のままなんだと、無性に寂しくて、虚しかった。
でも……亜妃は変わらず元気でいてくれた。昔と何も変わらず、笑顔で過ごせてるんだ。
その事実は心から嬉しかった。
このどちらの気持ちも両者譲り合うことなく、俺の心の中で絡まり合ってぐちゃぐちゃしていた。
とにかく、亜妃の側にはもう…天王寺がいる。
今更俺が姿を現すべきではないと思った。
それに……こんなヒモみたいな生活をしてる俺なんかよりも、天王寺の方が亜妃にはふさわしいと思った。
俺はそのまま静かに、部屋の窓から隠れるように、ずっと二人を見ていた。
亜妃を見ていると……
可愛いな、綺麗だな、話したい、触れたい、抱き締めたい、キスしたい、大好きだよ、愛してるよ……、………、
想いが溢れ出して止まらなかった。
「女々しいな……俺…っ…」
何年経っても変わらず亜妃だけを想い続けている自分が、無性にダサくて嫌になった。
でも俺は、そのとき察した。
亜妃への気持ちはこれから一生変わることはないと。
そして、俺は決めた。
もう亜妃の側にいることはできないけど……。
これからの人生、彼女の幸せを願い続けて生きていこうと。
自殺や犯罪……もしも風の噂で耳に入った時に、亜妃が悲しむようなことだけは、絶対にしない。
そう心に誓い、俺はその日の夜静かに名古屋へと帰った──
──その日以降、俺はあの香水を日常的にまた付けるようになった。
その香りに包まれていると、亜妃のあのキラキラした笑顔を思い出して、生きていくエネルギーが湧いてくるような……
そんな気がした…──
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