3-4.複雑な思い
───ある日の朝
パジャマの上にカーディガンを羽織り、いつものようにゴミを出しに行くと……
「……亜妃ちゃん?」
振り向くと、2軒隣の家の中川さんのおばちゃんが、悲愴感を漂わせて立っていた。中川さんは、お母さんが仲良くしてたご近所さん。
「おうち……大丈夫?何か手伝えることがあったらいつでも言って?」
私を見る目からは『可哀想』という文字が透けて見える。
「……ありがとうございます」
一言そう告げると、中川さんは安心したように顔の緊張を緩め、続けた。
「まさか亜矢子さんがね……。そんな不品行な人だったなんて…信じられないわ……」
───“不品行な人”。
お母さんへの否定的なその響きに、胸がギュッと締め付けられて……苦しくなる。
「平岡さんの奥さんもね……可哀想に。向かいの家に不倫相手が住んでたなんて……。そりゃここに残りたくなんかないわよねぇ……」
最後に見たママの冷たいあの表情が、フラッシュバックしてくる。
中川さんに限らず、この住宅街では『平岡さんと成瀬さんが駆け落ちした』という話題で持ちきりだった。
当然二人は非難の対象であり、ご近所さん達は娘の私に対しても容赦なく、お母さんの悪口を言ってきた。
『最低の母親』と『可哀想』を会う人会う人に言われ、皆こぞって私とお父さんの心配をしてくれる。
誰もが正しいことを言っている。
お母さんは人の道に外れたことをしたのだから。
けれども私は……お母さんの悪口を聞くのが、辛くてたまらなかった。
大好きだった母のことを悪く言われる度に、苦しくて悲しくて居た堪れなかった。
もう誰にも会わずに一生閉じこもっていたいと……毎日思った。
家族よりも恋愛に走り、家族を置いて出て行ってしまったお母さん。
でも不思議と私の心の中では……憎しみよりも、寂しさが勝っていた。そして心のどこかに『仕方ない』という気持ちも僅かながら存在していた。
好きな人と一緒にいる道を選んだ。
たとえ……家族を捨ててでも。
その母の選択はとても受け入れ難いものだったし、どうしようもなく怒りが込み上げてくる日も、もちろん何度もあった。
でも……それほどまでに相手を求めてしまう気持ちは、決して理解できないものではなかった。
それは紛れもなく、柊の存在があったから。
全てを手放してでも一緒にいたい。そう思ってしまう気持ちを想像することは、私にとって決して難しくはなかった。
あのお母さんが家族を捨てるなんて……
真っ当な方法では、一緒になれないからだよね。
それほどまでに、愛し合ってしまったんだよね。
おそらく娘の私にしか分からないであろう感情が、確かにここにはあった。だからこそご近所さん達の励ましの声は、私の心の傷をより一層深くした。
“お母さんを悪く言わないで……”
口には出せないけど、胸の中ではいつもそう嘆いていた。
幸いうちの住宅街には同じ高校の生徒が他に誰もいなかったので、高校では変な噂をされることも特になかった。
いつしか私は一人で家に帰ることが嫌になり、帰りすらも天王寺くんの部活が終わるまで待って、夜遅くに一緒に帰ってくるようになった。
──柊がいなくなって1年が経つ頃…
学校内では私と天王寺くんが付き合っているという噂が流れていた。
でも実際にはそんなことはなく、ただただ友達として、天王寺くんは私のそばにいてくれた。
彼が以前私に好意を向けてくれていたことは知っていたけど、今どんな気持ちでそばにいてくれるのかは分からなかった。
もはや彼を気遣う余裕など、どこにもなくて。
女友達から疎外された私にとって、何も詮索せず一緒にいてくれる天王寺くんに甘えるしか、毎日を乗り切る術がなかった。
これまでの人生……ずっと柊がいてくれた“私の隣”という立ち位置に、今は天王寺くんがいる。
その事実は……心強いことではあったけれど。
でも、まるで柊の存在が消えてしまったような…
柊が最初からいなかったかのような…
そんな錯覚に陥り、ときどきその虚しさが私の胸を苦しいほどに締め付けた。
どんなに時間が過ぎても、私の柊への気持ちが変わることなどなかった。
どの道も、どの場所も、どの景色も、すべてに柊との思い出が溢れていた。
一番つらいのは……自分の家の中だった。
幾度となく顔を見ながら電話をした窓のカーテンは、1年経っても開けることができなくて。
何度も身体を重ねたベッドの上も。
恥ずかしがりながら一緒に入ったお風呂も。
そのどれもに、柊との幸せだった時間が色濃く染み付いていた。
来る日も来る日も、私はふとした瞬間に、柊を思い出していた。
……そうして更に時は過ぎて。
私は無事に……高校を卒業した──
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