第5話

「誰」

 千恵は自分の口に手を当てて、後ずさった。人影は、声を発した。

「こは、如何に。そなたには私が見えるのか」

 千恵は上目遣いで、恐る恐る頷いた。

「ほほう。見知らぬ顔じゃが、何故この館に居る」

「私はこの家の・・・九郎に誘われて」

 唇を顫わせて、千恵は弁解を図る。

「九郎にか」

 対峙する壮年の男は、ゆっくりと千恵を見回しながら、

「吾子の酔狂も極まれりと見える。で、そなた何者じゃ。私の姿を看破るとは、常人ではないと見受けるが。さては妖の類」

 千恵は即座に手を振って否定した。

「図らずも、この時代に迷い込んだ者です。あなたはどなたですか。この夜中に庭にいらっしゃるということは、このお屋敷の方ですか」

「私は九郎の父じゃ。さきの右京大夫・勝元と申す。それにしても、この何に迷い込んだ、と」

「時代です。でも確か・・・九郎は、父親は亡くなったと言ってましたけど」

「そういうことになっておるじゃろうな、表向きは」

「表向き・・・」

「応仁元年に始まりし戦は、畠山、斯波、将軍家、そして山名の舅と私と、悉くおのが継嗣のことに端を発するものであった。その乱れる様、麻の如し。東西両軍の枢軸たる私と宗全が身を引かねば、収拾のつかぬ事態とあいなった。かと申して、戦を易々と投げ棄てるのでは、これまで闘うてきた数多の兵に示しがつかぬ。よって、われらふたりは、この世から消え去ることで、乱の収束を図ったのじゃ」

 勝元は遠くを見るような目つきをした。

「山名の舅殿は、切腹をもってその最期を遂げた。まだ若かった私は、世人の目を欺いて阿弥の号を名乗り、逼塞の身となっての。いまは焼けてしまった菩提寺の龍安寺の庭に、細川京兆家の粋を極めた枯山水を造ろうかと思うておる」

「そのことを九郎は?」

「知らぬじゃろうな。私は死んだものと思うておろう。摩利支天の法術に、かの楠公も用いたと伝わる『隠形の術』なるものがあっての。真言を唱えて身を隠すことが出来るのじゃ。この法術の威徳により私は、人びとの目から姿を眩ますことにした。四十四で死んだことにしての」

「身内まで騙してるんですか」

 勝元は、かぶりを振りつつ、

「致し方ない。九郎のためにも、これが良策と思うておる。吾子が管領職を奉じ終えるまで、陰ながら見守る所存じゃ」

 千恵は、半分納得がいかない様子だ。

「それにしても何故、九郎に魔法を身につけさせようとなさったんですか。この侍の世の中に、その力は必要なのですか」

「実を申せば、あやつにもその訳を詳しく話したことはあらなんだが。この世の者にあらずとあらば、そなたに本当のことを聞かせておくのも、悪くはないのか」

 勝元は懐手をつくり、視線を千恵から外した。

「私たちは都を戦火に陥れた張本人。十年余の戦により、都の荒廃はご覧の通りじゃ。桓武帝の御代より、この都が四神相応の地として栄えて参ったことはご存知じゃろう。繁栄の影には、先人たちの血の滲むような苦しみがあった。跋扈する魑魅魍魎どもからこの地を奪回すべく、社が建ち、僧や方士らが立ち回り、人々はよく禁忌を守った。そのように長きに渡り死守されてきた都の安寧が、ここに至って敢えなく反古にされてしまった」

 千恵は、黙って勝元を見つめる。

「異界に通じる封印が、解かれてしまったのじゃ」

 勝元は重ねて言った。千恵は生唾を呑み込んだ。ほろ酔いも既に醒めている。

「京に布かれた結界が壊されんとしているのを察知した私は、九郎にそれに拮抗する力を持たしめるべく、術を修めるよう仕向けた。私は既に妻帯の身。女人禁制の法術は、求めても得られんのでな」

「九郎に託した訳ですね」

「元来九郎は、愛宕の勝軍地蔵に参拝して授かりし男子。術を会得する資質は十分のはず。これは、奴の宿命じゃ」

 京兆としての勝元なりの、二代に亘っての責任の取り方である。

「無論私自身も、こうして都の新たなる結界布陣に腐心しておる。枯山水造営云々も、そのひとつの形じゃ」

「そうだったんですか」

 千恵もやっと腑に落ちた感があった。

「吾子もいまは、一揆の調停に明け暮れておるようじゃが、ひたひたと異変が迫りくるのを感じておろう。いざという時に奴の身を守るのは、もはや武術のみでは心許ない。そういうことじゃ」

 勝元は、月を仰いだ。

「私は常に、九郎とともにある。時を彷徨うというそなたも縁あるならば、どうか我が息子に力を貸してやって欲しい。さらばじゃ」

「千恵殿」

 勝元の最後の挨拶に、九郎の呼び声が重なった。

「何をされておいでか」

 千恵と向かい合う九郎が、縁側で月明かりに照らされている。

「ちょっと、風にあたってたの」

 千恵は言った。

「さようか。ところで、客人にこう申すのも済まぬが、明日は些か早く起きて頂きたい」

「明日、何かあるの?」

「次郎殿としてな、付き合うて欲しい場所があるのだ。そう遠くはないのだが」

「いいよ。私たちには、何の予定もあるわけじゃないし」

「済まぬ。しかし、そこもとらが共に居れば、大層心強い」

「了解、了解。次郎にいが起きたら、伝えとく」

 九郎は会釈して、廊下の奥へと消えていった。

 九郎にせよ、さきの勝元にせよ、京の都を守るという家格に生まれた、彼らなりの使命感があるに違いない。さまざまな局面を慮り、ときに繊細に、ときに大胆に、手を打ち駒を進める。さぞ息苦しい人生だろう。争いを押し進め、一方では地域の安寧を思う。一見矛盾した行いにも見えるが、実は表裏一体のことなのだろう。

 千恵はひとつ伸びをした。

「私も、休むか」

 足の裏をはたいて庭から部屋に上がると、夜具に身体を忍ばせる。次郎の微かな鼾が聞こえる。目眩く現実の帳を無理矢理閉じるように、眼を瞑るといつしか千恵は意識を失った。


 眠りの中での眠りは、存外浅いものらしい。間もなく千恵は、味噌汁か何かの匂いで目が覚めた。

「あ、次郎にい、おはよ」

 先に起きて夜具の上に胡座をかいている次郎が、うん、とかああ、とか呻いた。

「九郎がね、私たちに付き合って欲しい場所があるって言ってた」

「んん、それは構わんが」

「二日酔い?」

「まあな。昨夜は久しぶりに、しこたま呑んだ。それはそうと」

 次郎は居住まいを正すと、

「俺はいま、生身の身体なのだな。千恵坊はその、幽体離脱か、そういう境遇らしい話だが」

「そうなの?次郎にいは、それじゃ・・・」

「俺に限って言えば、仮に傷つけば血を流すし、ことによっては、命も落としうるということだ」

 千恵の顔は蒼ざめた。

「応仁・文明の乱の直後だ。日本史上有数の殺気立った時代に身をおいて、無事に帰れる保証はない」

 次郎の言葉に、千恵は唇を噛み締める。

「厄介なことになったもんだ」

 次郎は舌打ちをした。

「千恵坊、お前だけでも無事に元の世の中へ帰れ」

「な、ナニ言ってんのょ。帰りたくても、帰り方が判らないわよ。それに次郎にい置いて行くなんて」

「いざと言うときの話だ。俺だって、易々とこんな所でくたばらねえよ。おっと、朝飯のようだ」

 廊下を進む足音。ごめん仕る、と声がして、膳がふたつ運ばれてきた。

「とにかく、食っとけ。これから何が起こるか分からねえ」

 囁くように言うと、次郎は汁椀を掴んだ。

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