第3話
どれくらいの時間が過ぎただろう。ふ、と千恵の意識が明瞭になった。覚醒したのではない。明晰夢というものか。
千恵はベッドに伏臥している。両の腕を突っ張って半身を起こす。目の前には自分の後頭部が見える。千恵はびっくりして飛び起きた。
自分がベッドに俯せになっている。
「ちょ、ちょっと!」
自分で自分を見下ろす形になる。
「何よコレッ」
相当狼狽している。夢か。それともこれこそが、話に聞く「幽体離脱」なのか。
無意識に、額に手を当てる。昨夜の老紳士から譲り受けた環が、指尖に触れた。微かに熱を帯びているようである。
暫く茫然と佇んだ挙句、自分の身体が異様に軽いことに気がついた。千恵は、その場で軽く跳躍してみた。重力の束縛が何割か弛んでいるような感覚だ。
戸惑いを振り切って、千恵は開き直った。あれこれ考えてばかりというのは、性に合わない。行動優先が信条である。千恵はもう一度、自分の後ろ姿を確認すると、自室のドアを開けて外に出た。両親はまだ、帰宅していない。いつもの運動靴を履き玄関から出た千恵を、黄昏が静かに包み込んだ。
どこかで犬が吠えている。点滅を繰り返している街灯の下を通り抜けた。家々の窓からは灯りが洩れている。人通りは滅法少ない。心細さに千恵は顫えた。軽い眩暈を覚える。頭の環が、一閃の光を放つ。
次の瞬間、千恵は屋内に鳶脚に座っていた。見覚えのある部屋である。天井にあるいくつかの蛍光灯のうち、ひとつだけがスポットライトのように点り、その真下に居る人影を照らしている。千恵は目を凝らした。
人影は、次郎だった。そして学校の図書室の床にへたり込んでいる自分に気づく。次郎は依然、この図書室で書物を繙いているのだ。
「次郎にい」
思わず呼びかけた千恵に、次郎は大いに慌てた。書見台から振り返ると、
「千恵、いつの間にお前」
引き攣った声を出した。
改めて次郎を見つめる千恵の脳裏に、複雑な想いが去来する。自分は本当は、次郎にとってどんな存在なのか。幼い頃から特別な意識を抱いていることさえ気づかずにいた彼に対し、千恵の胸の奥底に秘められたものが一気に涌出するかのようである。身体の深奥から、とめどなく熱い涙が迸り、頬を伝うのを禁じ得なかった。
「ど、どうした」
次郎も頭を掻きながら戸惑う。ゆっくり千恵に近づくと、屈んでいる千恵の前に立て膝をついた。
「こんな時間に。部活も停止のはずだ。何か用事でもあったのか」
千恵はかぶりを振る。
「おかしいんだ。色んなことが次々と」
次郎に凭れかかると、嗚咽した。次郎は当惑しながらも、細かく顫える千恵の肩を徐に両手で掴んだ。もはや、何事か訊ねられる状況ではなかった。
「ごめん。暫くこのままでいさせて」
「千恵」
次郎は千恵を見つめた。千恵も次郎を見上げる。見つめ合う双方に言葉は要らない。心と心が共鳴している。心臓の鼓動が高鳴るのに絆され、次郎は唇を顫わせた。
千恵も察するかのように瞼を閉じた。身体が熱い。意識が朦朧とする。再び千恵のヘアバンドが眩い光を放った。光はふたりを包み込む。
次の瞬間、薄暗い図書室には、誰の姿もなかった。ただ天井の一角の蛍光灯が、書見台とその上の書物を照らしていた。
どこか光の中を潜り抜けている感覚がある。深い眠りに一気に引き込まれるようでもある。千恵と次郎の身体は軽やかに宙を逍遙し、やがて何かの磁場に捕捉されるように、どこまでも下降していく。
「大丈夫か、千恵坊」
先に意識を取り戻したのは次郎だった。身体を起こすと、隣に横たわる千恵の肩口に手を当てて、頻りに揺さぶる。
千恵は目を瞬かせながら、静かに半身を起こした。
「んんー、頭痛ぁい」
ぼんやりと辺りを見回す。太陽が中空にあり、草が素足を擽ぐる。
見慣れない景色だった。突然日面に晒されて、ふたりは呆気に取られていた。
右腕を陽に翳して、次郎は呟いた。
「どこなんだ、ここは」
わかんない、と千恵は返した。少し離れたところには林があり、鳥居が立っていた。雀の囀りが喧しい。
「土埃が酷い。木蔭に向かおう」
ふたりは少しふらつきながら鳥居の下まで歩み、柱の下に腰を下ろした。鎮守の森といった体だ。こんな場所は千恵の知る限り、地元には、ない。四方は山に囲まれている。見慣れた街では無論ない。
「どうやら、色々と訊かなきゃならないことがあるようだ」
次郎は千恵を見据えた。千恵は額の環を触りながら、
「この環っかが、もしかすると何か知ってるのかも」
「どういうことだ」
千恵は、昨夜の出来事を次郎に語った。老紳士と出逢い、眠りと引き換えに、常ならぬ体験を約束させられたことである。次郎は怪訝な顔をして、しげしげとヘアバンドを眺める。
「眠る代わりに、か。なんか、胡散臭いな」
次郎は何か思案しているようだった。
「その爺さんとやらと、連絡取る方法はないのかい」
千恵は考えてみたが、そういう手立ては見つからない。そう吐露すると、溜め息を吐いた。次郎は腕を拱いて、
「埒が開かんな。ここんところの世の中のありさまと、リンクしているものだろうか」
「まさか」
千恵は否定した。
「分からないぞ。どちらも夢や睡眠という、共通した現象が俎上に上がっている。何か、臭い」
次郎は推察した。とにかく、と前置きして、
「いま俺たちがいるのは、何処なのか。それを確かめるのが先だ」
「見慣れない風景だけど・・・心当たりあるの、次郎にい?」
ない、ときっぱり断言する次郎。鴉が鳥居の千木に停まって二度三度、厭らしい鳴き声を立てた。次郎はやおら立ち上がると、社の方へ歩を進める。小さな社に手を遣ると、無言で屋根を二、三度撫で回す。
「何してるの、次郎にい」
「トタンじゃない。木の皮で葺いてある」
不思議そうに裏手に回ってみる次郎。
「こりゃあ・・・」
次郎の顔から血の気が引いた。千恵の目からも、それは明らかだった。
「ど、どうしたのよ。何か見つけたの?」
「千恵坊、この社、そう古くは見えねえよな」
「そのお社?分かんないけど、築数年くらいってとこ?割りかし新しく見える」
「寛正二年建立とある」
「何回も建て直してんじゃないの。第一、カンセイっていつよ。江戸時代?」
「や、なんか腑に落ちなくてな」
次郎は矢庭に深呼吸をした。
「嗅いだことのない空気だと思わないか。なあ」
「犬か、アンタは。私ゃ、そんなにワイルドじゃあありません」
次郎は社の閂を外そうとした。
「ちょっ、次郎にい、バチあたりな」
千恵が諫めようとしたその時、長い籤のようなものが千恵の横を掠め、次郎の手元に直撃した。
「うわっ、なんだ」
咄嗟に引っ込めた為に無事であったが、さもなくば次郎の手は射抜かれていた。矢だ。
「矢?」
ふたりは矢の飛んできた方向を一斉に振り返った。そして、目を疑った。
いつの間に現れたのか、歴史大河ドラマでしか見ないような出で立ちの青年が、馬上で弓を下ろしかけていた。
狩衣というのだろうか、草色の衣服を身に装い、頭には烏帽子らしいものを被っている。時代錯誤なこと甚だしい。
「時代劇の撮影でも」
ぎょっとして口走る千恵の前に、立ちはだかる次郎。千恵を顧みると、無言で頭を振って制す。
「黙ってろ、千恵坊」
狩衣の青年は、轡を外して静かに馬から降りた。次郎と体格的にそう変わりない。
「曲者ども。社殿荒らしか」
青年が口にした。通る声であった。
「妙な出で立ちよの。何者じゃ、貴公ら」
ふたりは面食らった。青年は訝しげに次郎らを睨め回し、
「言葉が通じぬのか。何処より参った」
威圧感溢れる口調で続ける。
「あんたこそ、どこの誰だょ」
次郎はどうにかやっと、それだけを喋った。青年は身じろぎもせず、
「私を存ぜぬか。細川九郎と申す」
堂々と名乗りを挙げた。次郎と千恵はぽかんとした顔で、その彫りの浅い瓜実顔を凝視した。拍子抜けしたように青年は、
「在の者どもめ。さては河原者か何かか。まあよい」
「俺は次郎。こいつは千恵だ。九郎と言ったな。さて、ここはどこだ。俺たちは迷いびとなのだ。教えて欲しい」
「船岡山の麓だ」
教えてもらったにせよ相変わらず、ふたりはぴんと来ていない。
「どこにある山だい」
「京の外れだ。なんだ、何も存ぜぬのか」
「京って、京都か、おい」
厭な想像は更に膨らむ。
「で、今年は何年だ」
次郎の問いに、九郎は厳かに答える。
「文明も十と四つ年を数えるな」
「文明って・・・室町時代かよ!」
「次郎にい、なに独りで合点してんのょ。説明してよ」
千恵が次郎の袂に縋る。次郎も頭を抱えながら、
「ここは、室町時代の京都らしいぞ」
「はあ?」
素っ頓狂な叫びを上げる千恵。
「何を狼狽えておる。いま一度問う。貴公ら、何者か。腹蔵なく申せ」
「さっきから、なんなのあなた。上から目線もいいとこょ」
「この期に及んで、隠し立てするか」
九郎は腰の刀に手を掛けた。次郎は慌てて、
「ちょっと待ってくれ。俺たちも気が動転してるんだ。どうやら、後の世から時を遡って来てしまったらしい。こんなこと言って、果たして信じてもらえるか」
逆らわない方が無難と判断し、正直に申し開く。
「面妖なり」
九郎は重々しく言う。
「謀りを申すでない」
「ウソじゃないってば。私たちも何が何だか」
「易々と信じられることではなかろうぞ」
「信じるかどうかはそちらの勝手だ。俺たちのことは、放っておいてくれないか」
ふうむ、と九郎は吐息し、そして値踏みをするかのように次郎そして千恵を睨め、
「未来よりさ迷い来たると申すならば、これからいかなる世になるか存じおろう」
「応仁の乱・・・というのは後世の謂だが、この乱で弱体化した幕府は風前の灯火。群雄割拠の世が幕を開ける」
「天子さまは、いかがおなりあそばす」
「天子って?」
千恵が割って入る。
「天皇のことだろうな。ずっと後のことだが、その権威は再び復活するぜ」
「後醍醐の帝が如くにか」
「建武親政なんかより、ずっと磐石な世になるさ」
次郎の言葉に、九郎は腕組みして唸り、
「天狗は、前後百歳を悟るというが、よもや貴公らは・・・」
暫く思案を巡らせている様子だった。
次郎と千恵は、背中に汗を浮かべていた。判決を待つ被告人のような心持ちだ。九郎の口角が上がった。
「じき陽も落ちる。どうかな。わが居にて、ともに膳を囲まぬか」
慮外の誘いに、ふたりは唖然とした。太陽はだいぶ傾いている。これから夜となった時、拠り所をどうするか。身寄りのない地で、これは一大事だった。この九郎の提案は、ふたりにとってまさしく渡りに船と言えまいか。
「い、いいのかい、本当に」
おずおずと申し出る次郎に、九郎は莞爾として、
「いや、なかなかに見どころのある方々らしい。こは面白し」
満足そうに請け合った。
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