第2話

「おはよ」

「おー、千恵、おはよ」

 翌朝の教室。机に頬杖つく五十鈴に声をかけた千恵の頭には、夜半の環が填まっている。

「なにー、ヘアバン?」

 五十鈴は物珍しそうに、千恵の額に手を遣る。

「今どきねぇ。しかしそのセンス、買った」

「反応、薄。何ょ、眠たそうな顔して。隈出来てんよ、ここんとこ」

 千恵は自分の涙袋を、指でなぞる。

「若き女子高生の悩みというヤツだわ」

 五十鈴は戯けるように、言った。

「一丁前に。なんだ、悩みとは。お弁当の御菜か、それともまた、恋か」

 千恵も応酬する。五十鈴は机上に突っ伏すと、やれやれという仕草をする。

「や、実はマジでちょっと眠れないんだわ、このところ」

 夢見が悪い、と五十鈴は言うのだった。

「何よ、夢くらい」

 千恵が半ば呆れるように言うと、五十鈴は逆に質してきた。

「あんた大丈夫なの?」

「私?なんで私。まあ、ふだん眠くないとは言わないけど」

「ほのちんもリツも、やっちゃんも言ってた。眠ると、何かどやされるようにすぐ目が覚めるって」

 千恵は思わず教室内を見渡した。朝のホームルームまでに間があるからか、登校人数はまだまばらだが、皆居眠りしているか、生気のない顔を見せている。入室した時にふと感じた違和感を思い出した。一様に気怠げな空気が、教室を支配している。

「なんだ、これは」

 今更ながら、さすがに千恵も口にした。異様な光景ではあった。いつもならもっと活気づいた教室のはずである。新たに教室に入ってくる同級生も、欠伸をする様やふらふらとした足取りを見せる。互いにする挨拶も、おう、とかうん、とかいうごく淡白なものだ。

 教室中が、何か流行り病に侵されたかのようだ。

「保健室行こ、保健室」

 千恵は空恐ろしくなって、慌てて五十鈴の白い手を引いた。五十鈴も抵抗することなく従う。廊下ですれ違う生徒は皆、目に光りが灯っていない。重そうな瞼をしばたたき、口元も緩く足もおぼつかない。漸く辿り着いた保健室には、すでに長蛇の列が出来ていた。

「どういうことよ、ねえ、五十鈴」

「解らない。何か、感染る病気かな、これ」

 五十鈴の顔も、心なしか蒼い。踵を返したふたりは、校内を彷徨った。生徒ばかりでなく、教諭たちもまた体調不良の様子であった。挨拶すると、多くがいかにも不機嫌そうな応答である。

 朝から図書室が開いている。ふたりは戸の隙間から中を覗いた。ふたりとも、いつもなら素通りするところだ。読書ということに縁が薄い千恵だが、それはふだん、それなりに忙しいからであり、機会があったなら存分に書物を手にしたい気持ちはあるのだ。

 照明も点けぬ薄暗い図書室の中では、学校司書が、書物のページに視線を落としていた。

「お早う、次郎にい」

 千恵は気安く学校司書の若い男に声をかけた。学校司書である次郎とは、家が近く小さい頃から交流があった。交流と言っても、幼い頃は自分たちのままごと遊びや鬼ごっこに、無理やり自分より年嵩の次郎を引き摺り込んだりして、散々振り回したクチだ。

「お早うさん」

 やはり、欠伸を噛み殺している。

「なになに、何読んでんの」

 千恵の穿鑿に、静かに唸りながら次郎は本を閉じた。白目がやや、血走っている。

「んなことは、いいんだ。それよりも大丈夫かよ、お前たち」

「大丈夫じゃないわよ。何よ、この状況」

「だから。気候のせいか、ひょっとして何かの感染症の蔓延なのか」

 学校クラスター発生ということを想定してか、暗い面持ちの次郎だ。

「いずれ、異常だ。この事態」

 次郎先生、と中年の教諭が職員室があるほうから呼んでいる。

「臨時職員会議です」

 どうやら学校の教諭職員も、校内の異変に気づいたらしい。次郎も返事をして、千恵と五十鈴を往なした。

「だとよ。教室に戻ってな、お前たち」

 職員室に向かう次郎を見送り、仕方なくまた学級に戻ろうとしたふたりだった。

 窓の外から矢庭に衝突音が響く。生徒たちの悲鳴や怒号がそれに重なる。咄嗟に目を遣ると大型トレーラーが校門にぶつかり、くの字に折れている。

「ちょっと、どうなってんのょ」

 千恵は怒鳴った。五十鈴も目を見張る代わりに拳で擦りながら、現実と対峙している。しばらくするとパトカーのサイレンが響き、ポリスが集まって来た。

 校内放送が鳴る。生徒は落ち着いて教室で待機せよとの触れである。

「何がなんだか・・・」

 五十鈴は千恵のワイシャツの袖を掴んだ。激しく動揺している。ただでさえ、睡眠不足で気分が昂ぶっているのだ。千恵は落ち着くよう促しながら、自らも五十鈴を護るように縋った。

 倦怠、昂揚、不安や恐怖の入り乱れる教室で、普段の精神状態を保っていられる生徒はいなかった。校門に衝突したトレーラーは、居眠り運転だったらしい。朝のテレビニュースで不穏な事故報道を厭というほど見せつけられた生徒たちもいた。日本国内外問わず、世界的にこの境遇が訪れたことを、千恵は呑気にもこんにち只今知り得た。

 やがて担任教諭が、教育委員会からの通達だとかで、管内学務機関の一斉休校を告げた。普通ならただしたり顔を浮かべるはずの生徒たちも、実際憔悴しきっている様子だ。

「家に帰って、どうしろってのよね。心細いだけだょ」

 救急車やパトカーのサイレンが止まない。どこかで煙が上がっているのが見える。いい加減眩暈がしてくる。

 下校前、ふたりは図書室に再び立ち寄った。図書室の主、次郎は相変わらず分厚い書物のページを繰っている。

「次郎先生、帰らないんですか」

「五十鈴、俺たち職員は学校待機なんだよ。眠たそうだな、お前も。早く帰って、休め」

「こんな時に何調べてんのよ、次郎にい」

「千恵も、早く帰れ。や、嗜眠症の機序とか一応見てんだけども、症状が伝染するって話はねえな、やっぱり。まあ、学校図書館のキャパ超えだが」

「市民ショウ?」

「ナルコレプシーってのがあるらしいが、どうやら根本的にそれとは違うようだ。養教の先生からレファがあってよ」

 司書への調査要請である。

「これはただ皆んなして、眠たいのが連鎖してるんじゃない。何かが人類の睡眠を妨害してるとしか思えない。それが新しい細菌やら化学物質やらなのか。それとも」

「睡眠を妨害するウィルス?」

「例えばの話だ。それとも何かの祟りとか」

「祟りに一票」

「阿呆。世界中に所構わず祟るモノがあるってか」

「何よ、自分で言っておいて。でも本当に、この学校内だけじゃなく、地球上に蔓延しちゃってるの?この訳の分からない空気」

「テレビ観てないのかよ。ここ二、三日、世の中しっちゃかめっちゃかだぞ」

「どういうこと」

「平和だなぁ、千恵坊は。事故や事件だけじゃない。医療機関は不定愁訴患者の山。経済流通も滞りがち。学者さん方は原因究明に大童だ。疑心暗鬼による国際緊張も高まりつつある」

 次郎はプライベートで、千恵を坊や扱いする。千恵は、このところゲームに勤しみこそすれ、世間情勢から隔絶されていた自分を愧じた。

「帰った帰った。ご家族の心配もしてあげるんだぞ。きっと同じように苦しんでらっしゃるはずだ」

「私、そんなに参ってないけどな」

「どこまで鈍感なんだ、お前。とにかくまた連絡が行くまで、登校は不要だ。大事にしろよ」

 次郎に鈍感と小突かれ、千恵は憤懣やる方ない。しかし全体、不思議であった。自分には何か未知の免疫のようなものがあるのか。

 五十鈴と別れ帰宅した千恵は、久しぶりにテレビを点けた。両親は共働きのため、宵の口までは独りだ。すこぶる心細い。

 次郎の言った通りだった。テレビの報道は目まぐるしく場所と時とを移す。メディア関係者も多くが心身の限界に迫っていると見え、中継やライブ放送は控えめだ。世の中を映す鑑も、次第に軋みが見え始めている。メディアを必要以上に頼みにしていた人類の営みが、浮き彫りになるようだ。

 自室のテレビを視聴するうち漸う頭の中が混乱してきて、千恵は電源を切った。ベッドに身を投げ出す。

 次郎に鈍感と罵られたことが、胸にまだ蟠っていた。次郎とは歳が六つ離れている。小学校に入学したての千恵は、当時最高学年だった次郎に何くれと世話を焼かせていた。登下校は勿論一緒だったし、休み時間も頻繁に遊び合い、剰え帰宅後まで、次郎は共働きの両親の代わりに面倒をみてくれたものだ。やんちゃで活発な千恵に、おっとりとして基本インドア派の次郎。対称的なふたりだったが、昔から仲は良かった。ひとりっ子の千恵にとって、次郎は頼り甲斐のある兄のような存在だ。次郎が朝な夕なに新聞配達をする姿を尊敬の眼差しで見ていたし、日々部活動に勤しんでいるところも目にしていた。次郎は地方の大学を卒業し、司書の資格を活かして今年から母校に勤めている。学校司書として同じ学校に通うようになった次郎を、千恵は眩しそうな目で見守っていた。

 次郎のことを夢想して、言い知れぬ安堵感に包まれた千恵は、いつしか眠りに落ちていった。

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