幻月

深皐豊

第1話

 上弦の月が、街明かりで柔らかにグラデーションがなされた宵の空に冴えている。雲ひとつ漂わない夜空には、本来ならば星が無数に鏤められ、賑やかに瞬いているはずである。しかし不夜城の様相を呈したこの一地方都市においては、目視できる星は限られている。南のほうの宙に横たわるのは、かのヘラクレスが屠ったというヒュドラの昇華した姿ででもあろうか。

 穏やかな春が終わりを告げようとしていた。世人の目を和ませた桜の木々も、いまとなってはすっかり葉ばかりの姿となった。和紙を千切ったように物憂げな朧月も、この頃はすでに珍かである。

 街の外れにある小高い公園から見晴らすに、住宅地の家々の窓から洩れる灯りも、先ほどからすればだいぶ、少なくなったようだ。日付が変わろうとしている。公園の中程にある丘。その中腹の草の上に腰を下ろした千恵は、幼かった時分は、こんなにも夜の上空はぼんやりしていただろうか、と思った。当時は星というアクセントが、現在の数十倍は影を落としていた気がする。幼心に神々しいと感じた夜は、いまは明日を迎えるまでの長い澱みのようだ。

 無聊を持てあまし、ただ瞼が重くなるのを待っていた千恵だった。しかしながら先ほどから一向に、その気配は訪れない。むしろ、いやが上にも精神が研ぎ澄まされてくるようだ。抗うように千恵は、腕を枕にしてごろりと仰向けに寝転んだ。乾いた短い草が、肌の露出した部分を静かに刺激する。

 その日の学校での記憶を反芻して、千恵は苦笑を漏らした。

 高校生活も二年目だ。公立校の学業生活に倦み始めたか、この頃授業中とみに眠い。本日に至っては、昼食後の授業内容は殆ど覚えていない。もはや何の科目であったかすら、曖昧だ。教諭がそれなりに真剣に講釈しているにも関わらず、寝穢く居眠りを極め込んでいた。教諭側も気づかぬ筈はなく、きっと歯痒い想いだったに違いない。なまじ仏心を掛けられた形となり、目覚めてしばし、少なからずきまり悪い気持ちになったのを千恵は覚えている。

 今宵の宵っ張りは昼間の居眠りのせいらしい、と今更ながらに気がついたのは、我ながら間抜けなことである。

 宿題に煮詰まった千恵は、自宅をそろりと抜け出して近くのコンビニでジャスミンティーを買った。その足で、この公園へと立ち寄ったわけだ。公園にはちょっとした遊歩道が整備されていて、見晴らしが良い。明るいうちならば友人たちと足繁く通う場ではあるが、このような夜中に独りで、というシチュエーションは初めてであった。冒険と称すれば大袈裟だが、年頃の女子の背伸びのひとつではあろう。もう何年かすれば、女だてらに夜通し飲み歩く場面もないとは限らない。

 仰ぐ空と自分とを比べ合わせるなら、その存在がいかに瑣末であるかが身に染みる。他愛のない感慨に耽ってみたり、等閑に振る舞ってみたり、操られるが如くに何者かに踊らされたり。思春期の少年少女の大多数が抱く自己存在への疑問を、御多分に洩れることなく千恵も、そこはかとなく感じている。

 溜め息と同時に、どこかで星が流れた。


 千恵はやおら上体を起こし、羽織っていた薄手のコートの襟を立てた。夏が近いといえども深夜である。忍び寄る夜気が、千恵の交感神経を刺激したのは確かだ。いや、千恵が寒けを覚えたのは、そのせいばかりではなかった。何者かの気配を感じ取ったのだ。

 総身の毛を太らせた千恵は、ペットボトルを掴んだ。容器の中身が、ちゃぷんと音を立てた。こんな真夜中に誰が。まさか変質者ではあるまい・・・密かな夜遊びをしている自分のことは棚に上げて、千恵は警戒した。容器を持つ手が、微かに顫える。剣道部員の面目にかけて、と言いたいところだが、竹刀とペットボトルでは渡りに差がありすぎる。

「何をしておいでか」

 千恵が姿を捉える前に、柔和な声が耳に届いた。振り返ると、丘の頂から影が伸びていた。月光を浴びて、シルエットがかたどられる。声の主は、割合に小柄であった。そしてその物腰からは、好戦的な雰囲気は微塵も感じられない。

 千恵は、やや緊張を解いた。見透かすように、声は畳みかけた。

「いま時分に、何を」

 おっとりとした口調から察するに、相当年配の男性のようである。杖を手にしているのが見て取れる。山高帽子を被り、サングラスをかけているのが確認できた。

 老紳士は、動けない千恵と対峙して、草の上に腰を下ろした。視覚障がい者か、と千恵は判断した。老紳士の顎には、白い髭がたくわえられていた。

「この夜更けに・・・逢引きかね」

「違っ・・・」

 千恵は憮然とした。老紳士は可笑そうに躯を揺すった。

「ほう、独りでのう。気丈じゃの」

 千恵は完全に警戒を解いた。構えていたペットボトルを下ろすと、ぺたりとその場に座った。しかしその顔は、眉根を寄せ、上目遣いで老紳士を見据えていた。

 老紳士は何度か頷いて、

「まあ、そんな顔をなさらずに。この爺は、見ての通り、悪漢ではござらん」

 見えて、いるのか。

「おじいさんこそ、何してるのょ」

「眠れぬ年寄りの夜の散歩じゃ」

 笑いながら老紳士は、で、あんたは、と訊いた。

「私も、眠れなくて」

 正直に千恵は答えた。

「成る程の。今夜こうして眠れない同士が出逢えたのも、縁じゃ」

 老紳士は居住いを正した。

「お嬢さん、普段はよく眠られるほうなのかな」

「普通・・・じゃ、ないかしら」

「ふむ。では、眠ることについて、どういった見識を持っておられるかの」

 一陣の風が吹いて、千恵の短い髪の間を潜り抜ける。星が囁く。

「ほっほっほ。いきなりこう申したとて、お困りになりましょうの」

 笑って老紳士は続ける。

「人間にとって睡眠は不可欠。眠っておる間に、身体のメンテナンスが行われると申しても過言ではない。ところが、その為に割く時間とエネルギーといえば、どれくらいかご存知か」

 千恵は押し黙った。一日七時間ほどの睡眠時間が、個人にとって最適だとか。少なくても、また多過ぎても身体に障りがあるらしいことは、聞き及んでいた。

「人生百年というが、実に四半世紀近く、人間は積極的な活動を制限されるに至る」

 老紳士の言葉に、千恵は相槌を打った。

「よく考えてみれば、勿体ないとは思えてきませんかの」

 千恵は怪訝な顔を拵えた。

「何が言いたいんですか」

「お嬢さんはいま、一等能力をその身に宿すお年頃じゃ。あなたは何かこう、現在の生活に物足りなさを感じてはおらんかな」

 千恵は言葉に詰まる。勉学から充足感を得ることも少なく、部活動ではスキルアップに伸び悩み、家庭内にも膠着した空気が流れ、マンネリ化したルーティンの日々と言えば、そうかも知れない。自分の青春は、人生はこんなものなのか。もっとキラキラした、胸躍る世界が、すぐ隣にあるのではなかろうか。

 沈黙する千恵に、容赦なく老紳士は続ける。

「どうやら、思い当たることがおありかの」

 老紳士は背広の懐に手を差し入れると、何か取り出した。環状のものだった。

「これを用いての、あなたの若き可能性を最大限に活かして進ぜよう」

 千恵は思わず後ずさった。老紳士は、

「恐れることはない。この環はの、あなたが睡眠状態になると、あなたの意識を一時的に肉体から解放する作用を持つ」

「はぁ?」

「正夢とか予知夢というのを聞いたことがおありじゃろう。夢と思しき中で、未来を垣間見る」

 老紳士は声のトーンを変えた。

「そうした体験を、もっと能動的に、意識的に出来るように仕向けるのが、この環じゃ」

「好きな夢が見られるってこと?」

「そう捉えて頂いて結構。夢を見ることで充足感が得られることを請けあおう」

 老紳士は、環を千恵に手渡した。約二十センチ径で、よく見ると一部切れている。月の光を受けて怪しく光を帯びている。

「揶揄うつもり?」

「まあ、いきなり信じて頂けるとも思わぬが」

「変な宗教とか、おまじないじゃないでしょうね。身体に害はないの?」

「無論じゃ。頭に被っておくだけでよろしい」

 千恵は環を両手で弄んでみた。弾力性があり、容易く撓む。

「カチューシャみたいね。ホントに害はないのね?」

「さよう。どうか幾日か、お嬢さんにこれを預かって頂きたいのじゃ」

「預かる・・・なんでまた、私に」

「月に誘われて、独り家を出るような風流人かつ剛の者なら、と思うての。また、お逢いすることがある筈じゃ」

 老紳士は懐中時計をちらりと見ると、翻って再び丘の頂の方へと歩き出した。千恵がふと手元の環に一瞥をくれた間に、老紳士の姿はかき消すように見えなくなっていた。

 昂揚していた気持ちもいつしか収まり、現実に戻った途端、千恵は抗いがたい睡魔に襲われた。

「眠っ」

 独り言ちて小さな欠伸をひとつ。ふらふらとした足取りで丘を降りると、千恵は寝静まった住宅地を抜けて、家へと向かった。

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