35話



同意が無いまま未認可の薬を投与する。

いわゆる違法治験を繰り返している集団があり、それを組織と呼んでいるらしい。

彼らは表に出てこない。

実行犯はいつも金目当ての医者や看護師ばかりで、逮捕してもめぼしい情報を持っていなかった。


トカゲの尻尾切り。

大元は逮捕されずに、被害者だけが増えていった。実態を把握するためにスパイを送り込みたいが、警察の人間は警戒されて近付けない。そこで警察は、製薬会社社長の宇久森に潜入捜査を依頼した。


「組織の中にこいつの熱心なファンがいてな。しつこく勧誘されている所にお偉いさんたちは目をつけたわけだが、こいつは協力を断った」


当然だ。まるでメリットが無い。


「だが予想外の出来事が起こった。童裊がなぜか無辜の一般人を往来で刺した」

「わたし?」

「そう宇久森真の唯一の陶酔相手である金花那緒が、こいつの会社の前でな」


幸いにも童裊はすぐに捕まった。

復讐を終えた彼はすぐに動機を吐いた。

曰く、妹の復讐のためな社長の大切な恋人を殺そうとした。


「俺と宇久森と童裊ですぐに場を設けた。結果、童裊は組織側の人間から「薬を開発しているのは宇久森の会社」だとガセ情報を握らされていたことが分かった」


宇久森に罪を着せ会社を傾ける。それを救う代わりに組織側に引き込む算段だった。

誤算だったのは、宇久森がすでに警察側から潜入の依頼を受けていたこと。

田中という警察側のパイプを持っていたこと。それともうひとつ。

金花那緒が宇久森にとっての逆鱗であったこと。

激昂した宇久森は那緒の身の安全を条件に警察と手を組んだ。そして組織へと潜入し、那緒を身寄つごうのいいりのない重病人ひけんたいとして自宅に保護した。


「潜入は怖いくらいに順調に進んだ。証拠品である薬と実験記録を手に入れて、施設も特定した。あとは現場に踏み込むだけだってタイミングで、宇久森の家に組織の人間が侵入してな。まったく焦ったぜ」


警察側にも組織側の密偵がいたらしい。

捜査状況を流されていたが、幸いなことにリークされた情報は“宇久森宅に家宅捜索に入る“という誤情報だった。

だが組織は焦った。

宇久森宅には被験体(仮)がいる。発見されれば病院に回されることは確実で、そうなれば薬の成分が検出されてしまう。

警察の追及を恐れた組織は、宇久森に許可なく自宅に侵入して那緒を攫った。


「あとはお姫さんの見たまんまだ。薄暗い部屋でドラッグ紛いの薬を飲まされて、不躾に身体の中を観察されて、いらなくなったらポイだ。まったく反吐が出る」


胸糞の悪い事実をコーヒーの苦味で流し込んでから、吐き捨てるように田中が言った。

その顔は研究所の酷さを物語っていた。

正直なところ那緒は研究所をよく知らない。逃げることに必死だったうえに、薄暗く足元さえ見るのが難しいくらい視界は悪かった。

那緒が知っているのは甲高い機械音と、下卑た声で笑う研究者たちの声だけだ。


「組織はどうなったの?」

「解体した」


間髪入れずに田中が答える。

冷たい声だった。苛立ちから握っていた缶コーヒーが嫌な音を立てて形を変える。

音に驚いてビクリと肩を那緒が鳴らす。

すぐに気が付くと田中の鋭い目つきが和らいで、柔らかな声で「問題ない」と言う。


「これに関わってた政治家、会社、警察職員、研究者に医者……まあいろいろいるが今は豚箱に詰め込んであるから安心しな」

「政治家まで?」

「言い訳は一切聞かないってのが、お偉いさんの判断でな。世論が童裊に傾いたってのもあるが、一番は身内が薬を盛られそうになったらしくてな。怒髪天を衝いたらしい」


現金な連中だと罵るその声は明るい。

例え彼らの都合だとしても、身分に関係なく捕縛できたのは嬉しいようだ。悪どい顔をしてはいるが、言葉の端々に隠しきれない善性が滲み出ている。


「まだ残ってるだろうが、これから芋づる式に釣り上げる予定だ」

「そっか、良かった」

「説明は以上だ。なんか質問あるか?」

「あーと」


那緒の視線が彷徨う。

いちど下に視線を送って宇久森に動きが無いことを視認してから、ひとつだけと呟いた。

懇切丁寧な説明のおかげでこれと言った疑問はないが、これだけは気になった。

田中の足元で小さく蹲るそれを指差して、こてりと那緒は首を傾げる。


「なんで宇久森さんは膝を抱えてるの?」

「ほら、言われてんぞ」


田中が膝で軽く突くと、ほとんど同時に膝を叩き返した宇久森。できた腕の隙間から覗いた瞳と目があったが、気まずそうに視線が逸らされる。悪戯がバレた子どものような仕草。

はてと那緒の首がさらに傾いた。

今日はまだ那緒を崇拝する悪癖も言動も無いはずだが、さて彼はなぜ体育座りをしているのだろう。


「おい、宇久森」

「宇久森さん」

「…………」

「いつまでそうしてるつもりだ?」

「おーい、面会時間終わっちゃうよ」

「…………っ」


覗き込むような視線に耐えきれなくなったのか、もぞもぞと宇久森が足を崩した。ようやく覗いた顔は、どこか拗ねたようにむっつりとしていた。

田中と顔を見合わせる。

お互いに首を捻っていると、薄い唇が小さく開いた。


「家に入れる気なんて無かったんです」


なんの話だ。

再び田中を見るとぽりぽりとチョコレートを齧っていた。黙って見届けろということだろうか。


「痛い思いをして欲しくなかった。怖い思いはもう沢山だろうから、あとは幸せだけを知って欲しかったんです。でも上手くいかなくて………」


すいませんでした。

突然の謝罪に虚をつかれる。

おそらく組織に誘拐された件について言っているのだろうが、これについて宇久森を責める気はない。助けてもらったし、誘拐は彼の計画でもないからだ。

大本は日頃の行いが招いたことだとしても、匿ってくれた日々と組織から連れ出してくれた事実は変わらない。感謝こそすれ恨む気持ちなど無い。


( でも、伝わってないんだろうなぁ )


宇久森のつむじを眺めながら思う。

彼は誰よりも那緒を知っているからこそ、疑り深い性格をよく理解している。今回も信じてはもらえない。いや、今回こそはもうなにを言っても誤解は解けないと思っているのだろう。実害があったのだから。

だがそれは、今までの那緒ならの話だ。

散々疑った。散々問答して疑念を抱いて、その度に律儀に宇久森は那緒に向き合ってくれた。


その時間は決して無駄じゃなかった。

その時間があったから、信用できたのだ。


( 変なところで自信がないんだよな )


えい、と宇久森のつむじを押す。

ビクリと肩を揺らした彼に笑った。

今度は那緒わたしから歩み寄る番だ。


「最後にさ、助けに来てくれたじゃん」


悲鳴にも似た声を思い出す。

裏切ったはずの低い声がして、一筋の光が霞んだ視界いっぱいに広がったあの時を。

心臓を包むように胸の前で両手を組む。


「あの時ね、もうダメだと思ったの。肩は痛いし吐き気は凄くて、注射にも手が届かなくて…死んじゃうんだって怖くなった」


痛くて、痛くてたまらなかった。

身体も心もボロボロで、世界中の人間に死ねと言われているような気すらした。誰も彼も薬のことばかり。那緒の存在を人間とカウントしないあの場所は、施設にいた頃を彷彿とさせて恐ろしかった。

そんな場所に那緒ひとり。

生存のために振り絞った勇気すら容易くねじ伏せられ、微かに見えた注射器きぼうにすら手は届かない。恐怖が身体を支配して、いつ殺されるか分からない状況に絶望した。


「声が聞こえたときは嬉しかったの。助かったって、初めて他人を信じて良かったって心の底から思えた」


そんなときに名前を呼ばれた。

必死な声。荒い呼吸。叫ぶみたいな悲鳴。その全てが那緒わたしに向いていた。生きることを願われていると感じることができた。

手は握られていたのだと理解した。


「ありがとう、宇久森さん」


それから、疑ってごめんなさい。

口角が上がる。目尻が下がって、初めて自然な笑みで那緒は宇久森に笑いかけた。

胸がいっぱいでいまにも泣き出してしまいそうだけど、それでもお礼だけは笑顔で言いたかった。


ありがとう。ありがとう信じさせてくれて。

ありがとう。最後まで見捨てないでくれて。

ありがとう。わたしを見つけ出してくれて。


「あなたに会えて良かった」


心の底から、そう思えた。



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