31話 (嘔吐表現あるので注意)
水音で目を覚ました。
うっすらと開いた瞼に気づいた者はない。
どこかに寝かされているのか、真上には配管が剥き出しになった古びた天井が見えた。
( 知らない天井だ )
眼球だけを動かし辺りの様子を探る。
コツコツと靴底が床を鳴らす音が多い。
そのくせ、全体的に薄暗くて人と影の区別が上手くつかない。ぽつぽつと等間隔に置かれたテーブルライトの明かりだけがやけにギラギラと輝いて、さらに視界を悪くしていた。
諦めて瞼を閉じる。
目ではなく耳でと思ったが、音が反響してこちらも上手く聞き取ることができない。ただ複数の人間が忙しなく動いている気配だけは感じとることができた。
ピッ、ピッ、と音がする。
音に混じって傲慢そうな男の声がした。複数の靴音と共にこちらに近付いてくる。会話は聞き取れた。だが、頭がやけにぼんやりとして内容が咀嚼できない。
「.......!」
「だからーーー!」
「はい」
傲慢そうな声の人間にひとりふたりと伺いを立てては、またひとりふたりとその場を去っていく。世間話には思えない。上司と部下だろうか。
「やはり、薬を投与した痕跡は見当たりませんね」
「完全に消滅したとは?」
「考えにくいです。成功失敗に関わらず痕跡は残るはずですから」
「では宇久森くんは薬を投与していないと?」
「そういうことに……なりますね」
見知った名前に那緒は意識を傾ける。男たちは会話に夢中でそれに気がつく様子はない。
カルテ片手に首を傾げている。
「彼がそんなことをするかね?」
「ですが、検査結果は嘘を付きませんし」
「だがなぁ……」
若手の男はカルテに嘘はないと話すが、初老の男は訝しむように眉を寄せて、しきりに髭をなぞっていた。
「身辺調査に穴はなかったのだろうな?」
「はい。そこは信頼できる者に依頼したので問題ありません」
「ではなぜ痕跡が見つからない」
「恐れながら、絆されたのではないかと」
「この女にか?はっ、馬鹿馬鹿しい!これはただの身代わりだろう!」
「ですが、」
「実験体の世話をするうちに愛が芽生えたと、きみはそう言いたいのかね?」
「.......はい」
「馬鹿馬鹿しい!ロマンス小説の読みすぎだ!そんなことが現実に起こると本気で思っているなら、今すぐにここを出て行け。我々と
「………ッ」
ガンッと鋭い音がしてベットが揺れる。
どうやら初老の男がベッドを蹴ったらしい。衝撃と同時に肘の裏側に鋭い痛みが走り那緒は息を詰めた。
「止めてください!点滴が」
若い男が非難するように声を上げる。
慌てて那緒から初老の男を引き剥がすと、痛みの走る腕を手に取り点滴の針を抜いた。ズキズキとした痛みは残ったが、刺すような痛みは消えていく。
「これはマウスだ!それ以下でもそれ以上でもない!彼はネズミに発情するような低俗な人間ではないよ。きみと違って、もっと崇高で偉大な方だ」
「なんてことを……」
「庇うつもりかね?この計画に乗った時点できみもその一員だというのに」
「………だとしても、わたしは彼女をマウスとは思っていません。彼女は尊い犠牲者です。軽率に扱うべきではない」
「はっ、偽善者め」
吐き捨てるように初老の男は言う。
上司とはいえ目的か、あるいは所属している組織が違うのだろう。若い男の言葉を馬鹿にしているのがありありと伝わってきた。
「お前らの頭のおかしな思想はどうでもいい。とにかく、女の身体を徹底的に調べろ」
「すでに結果は」
「どうせ廃棄予定のマウスだ。多少手荒くしても構わんから抗体があるか調べておけ」
「ですから、そういうことは」
「ああ、尊い犠牲者の身体をどうか無駄にしないように有効活用してくれと言えばいいのかな?」
「このっ!」
「心配するな。きみたちはただ調べてくれさえすればいい。後片付けは頼んであるからせいぜい頑張ってくれたまえ」
「……っ!」
初老の男はゲラゲラと笑いながら去っていく。取り残された若い男は那緒に憐れみを込めた視線を送っていたが、やがて大きく息を吐くと思い足取りでどこかへと消えていった。
話が見えない。
ただ殺されることだけは理解していた。
眠ってからの記憶がない。移動した覚えもなければ、点滴を打たれてマウス扱いされる謂れもない。眠っている間に誰かに運ばれたとしか考えられなかった。
相手は十中八九、宇久森で間違いない。
( 頭が痛い…)
もう何キロも走ったみたいに身体が重怠い。頭がズキズキと痛む。睡眠薬でも盛られたのかもしれない。
( マウスって言ってた。早めに脱出しないと )
思うのに、身体は重い。
いつもは無視できる言葉で胸が痛む。注射の針程度の痛みが鈍器で殴られたみたいに感じた。跳ね除けるだけの力が今の那緒には無い。
痛いのは身体ではなかった。心の方だ。
宇久森の裏切りは那緒の心にのしかかっていた。上手く動けないほどに重く重く重く。
信じようとした矢先だった。
あと本当に指先が触れる瞬間だった。
那緒から伸ばした手は結局取られないままに、見知らぬ他人の手を握らされていた。その衝撃は那緒から動く気力を奪っていた。
痛い、痛い痛い、痛い痛い痛い。
あの言葉もあの体温もあの目ですら嘘で塗り固められた偽物だったなんて。
( やっぱり、信用しちゃいけないんだな )
耳がタコになるほど先生は言った。
“完全に心を許してはいけないよ。どんな肩書きでも他人は結局は他人でしかない。助けてなんてくれないんだから“
だから信用してはいけないのだと、口が酸っぱくなるほど言われた。初めてそれに背こうとして得た結果がこれだ。惨めなものだ、と那緒は笑った。
( 嘘って甘かったのね )
反対に真実は苦くて、
「......あなたの命は無駄にしない」
現実は非情で痛い。
若い男が戻ってきた。
手には注射器が数本入った銀の器を持っている。後ろには研究員らしき者が、それぞれに機械を持ちながら那緒に近づいてきていた。表情は三者三様。楽しげにしている者もいて、那緒は吐き気を催した。
( 逃げなくちゃ、ここから。じゃないと殺される )
泣き言を言っている暇はない。
苦しくても待ってはくれない。
時間は刻々と動いて、現状をさらに残酷なものへと変えていく。ここで動かなければ、研究員たちは那緒を殺すだろう。彼らにとって那緒は取るにたらない実験動物と変わらないのだ。ワケの分からない薬を投与されて殺されてしまう。童裊の妹と同じように。
唇の端を噛む。
血の味が口内に広がって、胸の痛みが減った。
(……冗談じゃない。絶対に死んだりしない。逃げなくちゃ、早くここから逃げるの。悲しむのはその後! )
那緒は咄嗟に垂れ下がっていた点滴の針を掴むと、こちらに背を向けていた若い男にそれを振りかぶった。
「ーーーーイ“ッ!?」
背中、右肩の辺りに針が刺さる。
のけぞった若い男の肩を思い切り突き飛ばして、ベットから素早く降りると那緒は駆け出した。
「なっ!?」
「に、逃げたぞ!追え!」
走る走る。
薄暗い室内を那緒は走った。
手当たり次第に物を床に落としては、一心不乱に緑の灯りが見える方へと足を動かした。
あの緑色の光は誘導灯の光だ。暗くて出口は分からないが、誘導灯だけはなんとか視認することが出来た。あの下には扉があるはずだ。扉を開ければ外に出られる。
「待て!」
「捕まえろ!」
前から後ろから怒声が追いかけてくる。
左右からは、那緒を捕らえようと手が伸びてきた。
捕まってたまるか。
咄嗟に机に並べられている注射器をトレーごと床に落とした。ガシャンと音がして注射器が転がる。
誰かが踏んで悲鳴を上げた。
縄を持った女を避けるために点滴の棒を引っ掴んで投げた。ぶつかってひっくり返る。その横を那緒は走った。走って、走って。目の前でこちらに手を伸ばす男を蹴飛ばして、割れる音に背を向けてがむしゃらに走った。
「はぁ、はぁ」
行止まり。足元を誘導灯が照らしている。
顔を上げれば扉は目の前にあって、彼らよりも先に辿り着けたことに安堵する。あとはこの扉を開けるだけ。そうすれば外に出られる。
古びた扉に手をかける。
ノブを回して、扉を押した。
ガッ。
「えっ」
開かない。開かない、開かない開かない。
「………ど、して」
ノブは回るが、ガッと音がするだけで開いてはくれなかった。手前に引いても結果は変わらない。
ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ。
開かない。鍵が掛かっている。
「やだ、嫌だ、開いてよお願いだから」
ノブを回しても鍵は外れない。ガチャガチャという音が虚しく響くだけだった。壊す勢いでノブを叩いた。開かない。扉は開かない。怒号はすぐそこまで迫っていた。
「あいて、開いてよ!」
叫んでも叩いても扉は開いてはくれない。
恐怖を誤魔化すために開いてと呟きながらノブを回し続ける。だが扉は那緒を招き入れてはくれなかった。代わりにその手を掴んだのは、無常にも追ってきた人間たちだった。
認識した瞬間、恐怖が爆発する。
「………は、離して!」
「おい、暴れるな!」
「嫌だ、離して!!ここから出して!」
「誰か縄もって来い!」
「いやぁあ!!」
逃れようと身を捩るが動けない。おかしな方向で腕を掴まれているせいか、身動ぐ度に腕が痛んだ。
痛い。腕が折れてしまいそうだ。
「はな、せ!」
「.......っ!こいつ」
掴まれていない方の腕を思い切り振る。拳が奇跡的に男の頬を捉えたが、それは男の怒りを買っただけだった。
「大人しくしろって言ってんだろ!」
足をかけられ身体が床に倒される。締め上げるように腕を後ろに引かれた。激痛に呻く。痛い。でも逃げなくちゃ。殺される前にここから出るのだ。
ぐらぐらと揺れる視界で注射器を見つけた。那緒からそう遠くない位置に転がっているそれで刺せば、少しは時間が稼げるはずだ。
那緒は手を伸ばした。
生き残るために限界まで手を伸ばした。
あと3センチ、
あと1センチ、
あと、あと少しーーーーー
ゴキンッ
「あっ......あ“っ?ぃいぁあぃっづ!?」
ーー注射器に手は届かなかった。
押さえつけられた肩から鈍い音がして視界がぶれる。ガクンと視界が揺れるが、なにが起きたか那緒には分からなかった。ただ強烈な吐き気が込み上げる。痛みは、後から這い上がってきた。
「お”ぇ」
痛い、痛い痛い、痛い痛い痛い。
背中を刺された時がフィードバックする。
耐え切れなくなった胃から胃酸が逆流し、口の端から垂れて床に広がった。
「ゲホッ、あっ、ひぃい」
痛い痛い、痛い。
歯を食いしばった。痛みで飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止める。気絶するな。逃げなくちゃ。死にたくない。
「たく、手間かけさせんなよな」
那緒は注射器に手を伸ばし続けた。
それを抵抗と見たのだろう。男は舌を鳴らすと、懐からナイフを取り出した。苛立たしげに那緒の背中を踏みつけて、ナイフを振り上げる。刃先は心臓に向いている。
「従順なマウス以外はいらねぇんだとよ」
躊躇うことなく男は心臓に向かって一直線に腕を振り下ろした。
注射器に手は届かなかった。
「那緒さん!」
ただ彼女を呼ぶ声だけは届いた。
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