29話


「なにも知らない方がずっと怖い」


宇久森を信用してみたかった。

無垢な少女のように彼を恩人と呼び慕って、全幅の信頼を寄せたまま回復を待つ。

そんな夢物語を味わってみたかった。


「ですがお身体が」

「ニュースで見たの。動機が分かったって、妹さんのことで刺したって。ねえ、なんでわたしよりも先に世間が知ってるの?」

「それは」

「お医者さまなんだよね。なのに、どうして証拠品が家のソファーの下にあったの?」

「那緒さん」

「答えて」


だけど温泉みたいに疑惑は毎日溢れて、息を吸うように那緒わたしは人間を疑ってしまう。性分なのだ、きっと。

生活環境だけではない。心配性で、不安定で、元来疑り深く出来ている。信用することに関して才能がゼロに等しいくせに、夢見がちで相手に求めすぎていた。

夢を見たいのなら自分が信じなくてはいけない。知っている。臆病な心ではなくて疑心に濡れた身体が求めたのなら尚更に、手を伸ばすべきだ。それはきっと那緒わたしが求めたモノに近しいはずだから。


「信用させたいなら、応えてよ」


でも現実は甘くないことを知っているから、歩み寄るきっかけを頂戴。信用させて、見切りをつけさせないで、先生以外を信じてみたいの。これを最後の問答にするから、ちゃんと応えて。


「全部よ。最初から最後まで包み隠さずに」


真っ直ぐに宇久森を見た。

見開かれた黒曜石に那緒が映る。ごくりと喉仏が動いて、開いた口がまたゆっくりと閉じていった。視線は日記に落ちていく。うろうろと那緒の膝と日記の間で視線を彷徨わせてから、宇久森は蚊の鳴くような声で答えた。


「………あなたがそれを望むのなら」


その言葉をきっかけに、ポツリポツリと語り出した。重い腰を上げるような億劫さをひしひしと感じる。


「日記にある通り童裊の妹は入院していました。病名は”腐食症”。簡単にいうと内臓の一部が徐々に腐る病です」


宇久森の話はこうだった。

”腐食症”は原因不明の病だが、開発中の薬で活動を抑え込めることが分かった。だが薬は未完成。副作用も曖昧な薬の投与に賛同してくれる患者はいなかった。

研究員たちは焦った。

”腐食症”は稀な病で患者は少ない。このまま断られ続ければ認可される以前に、世に新薬の名前が出る機会すらないだろう。

薬が世に出ない。

それは研究員たちにとって耐え難いものだった。


「そこに童裊の妹が現れます。後ろ盾も金も持たない身内は兄だけの存在.....。治験に回すには都合のいい患者でした」


研究者は出世を切望していた担当医と手を組み同意書を偽造、意識のない患者に薬を投与した。

薬の効果は絶大だった。

内臓を腐食させていた原因は、投与から数時間後には跡形もなく死滅した。研究員たちは成功を喜んだ。己の判断は間違っていなかった。多少強引なやり方になったが、これで多くの患者が助かるのだと期待に胸を膨らませた。

が、薬の代償はあまりに大きかった。


「投与から数日後、患者の容態は急変しました。呼吸困難から始まり痙攣と吐血を経て心停止。看護師の話では手足の先が壊死していたそうです」


腐食症は細胞が腐る病だ。

当然薬で取り除くのは細菌ではなく細胞となる。発症部位はランダムで数も多いため直接腐食部位に投与できない。そのため医者は点滴で投与することで、体内の腐食部位に働きかけた。

だが、それが間違いだった。

数時間で身体中の腐食を取り除ける薬はあまりに強力だった。薬は元気な細胞もろとも細胞を破壊し、手の施しようが無いまま童裊の妹は帰らぬ人となった。


「妹の死の真相を調べるうちに、新薬と裏で手を回していた人間に行き着いたそうです。殺人だと知った時点で復讐を決意し、世間から忘れられないようマスコミが飛び付きやすい方法で報復した」


日記の文が頭を過ぎる。



『医者の婚約者を宗教団体に入れた。

病院長の娘のAVを結婚披露宴で流した。

国会議員のひとり息子を薬漬けにしてから、マスコミに情報を流した。

ナースには敵が多かったから、学生時代の悪行の数々の情報を同僚に握らせた。

あとは社長だけだ。


苦しめ苦しめ、楽になんてさせない。

妹の分まで苦しんで生き続けろ。』



関係者が最も大切にしているもの生殺しにすることで、生涯苦しめる方法を童裊は選んだ。

マスコミにリークしたのも本人だろう。彼が起こした事件は、どれもニュースで大きく取り上げられたものばかりだった。

デジタルタトゥー。いちど流れてしまえば、世間を焚き付けることで風化させることなく永遠に苦しませることができる。 

己が捕まることすらその一部だったと考えれば、白昼堂々と那緒を刺したのも頷けた。

童裊は復讐さえ果たせれば後はどうでもよかったのだ。だから那緒を刺した笑ったのだ。血を浴びながらあんなに幸せそうに、最後のひとりであるーーー


( あれ?)


日記には『あとは社長だけだ。』とあった。つまり最後は社長に復讐をして終いにするつもりだったはずだ。ならどうして、医者の片想い相手である那緒が最後に選ばれた。


ーー社長とはいったい誰のことだ。


那緒に社長の知り合いはいない。

取引先の社長に会うのも事件当日が初めてで、深い仲と誤解されるとは思えない。

宇久森の相手として狙われたとしてもおかしい。那緒が彼を認識したのは事件があってからで、親しい間柄どころか挨拶もしたことがなかった。


( ストーカー行為を逢引きと勘違いした?いや、それはない。だってわたしが宇久森さんと面と向かって会話したのは、ここに来てからだ。どう考えたって恋人とは思えない )


社長に関してはそれすらない。火のない所に噂は立たないというが、今回に関しては燃えるための材料すら無い。はずだ。社長の愛人に顔が似ていた可能性も捨てきれないが、愛人になれる女性が家賃3万の外観お化け屋敷に住んでいるとは思わないだろう。偏見かもしれないが、別の男の金で買ったマンションに住んでいそうだ。

那緒が標的になった理由はなんだ。

そもそも、どうして自分だけ刺された。


「なにか、質問はありますか?」

「はい、先生」

「はい、那緒さん」

「童裊は、なんでわたしを刺したの?」

「えっと?」

「この日記が本物なら、童裊が最後に狙ったのは社長に関係する人間のはず。わたしの交友関係にそんな役職の人間はいないのに狙われた。それはなぜ?理由がるはずでしょ」


当初は医療関係者の無差別殺人と思われていたが、日記の内容などから事前にターゲットを決めたうえで復讐に望んでいることが分かった。那緒を狙った理由があるはずだ。人違いではないのであれば、確実に。


「奥さんか愛人かは分からないけど、誰かと勘違いして刺されたとしたら.......納得できないけど理解はする。でも、それ以外に理由があるのか知りたい」

「なぜ?」

「なんでって、知りたいでしょ」


人間は理不尽に不況を買う生き物だが、今回に関しては無いと断言できた。童裊の妹が薬を投与された時期、那緒は就職活動真っ只中の学生だった。宇久森によって交友関係が制限されていたことで、何処かの社長と恋仲だったなんてこともない。白中の白。漂白剤もびっくりなほど真っ白なのだ。

なのに狙われた。理由有りきで。怖すぎるだろう。無差別殺人と言われた方がまだ納得がいく。理由を知りたくなるのは当然だ。


「動機が分かったなら、わたしが刺された理由だって聴けたはずだよね。どうして?」

「それは」

「それは?」

「............しゃ、社長です」

「社長のせいってこと?」

「そうではなくて........」


また歯切れが悪くなった。

いったいなにを隠しているのか、詰め寄ると宇久森は口をきゅっと結んでから那緒を見た。

言いたくないと言外に訴えられたが、ここまで来てそれを許す那緒ではない。首を振る。宇久森の眉がハの字になった。視線を下げて、もごもごと口を動かしてから掠れた声で「白状します」と呟いた。


「...........最初に謝っておきます」


申し訳ありません。

数度深呼吸をしてから頭を下げた宇久森に、那緒は気を引き締めた。この先を聴くのが一気に不安になって、服の裾を握った。


「実はその、えっとですね」

「うん」

「........社長でして」

「社長がなに?もう少し大きな声で」

「僕が社長でして」

「は?」


なに?ボクガシャチョウデシテ?何語?


「医療免許も持っていますが、普段は社長をしていまして........あの、写真があるじゃないですか」

「写真って盗撮の?」

「周りから回収した枚数と家にある枚数が合わなくてですね。一枚足りないんです」

「うん」

「童裊も一枚所持していたとお伝えしましたよね。あの、あれが....えっと」

「うん」

「僕が回収したやつだったようで、落とした写真を尾行していた童裊が拾ったと。日頃から写真を持ち歩くような相手は恋人に違いないと勘違いしたみたいで」

「ちょ、ちょっとまってくれる?整理するから待って、えっと……なんだ?」

「はい」


混乱する頭を整理しようと試みるも、情報が多すぎて処理が追いつかない。宇久森は医者だけど医者ではなくて.......なにがなんだ分からない。

頭を抱える那緒を他所にふらっとキッチンに立って、宇久森は水を一杯持ってきた。差し出されたコップに口をつける。喉を潤すと、ちょっとだけ冷静になれた気がした。ありがとう、とコップを返す。


「えーと、まず宇久森さんは医者じゃ?」

「ないです。免許はありますが医薬品メイカーの社長をしています」

「学生時代に回収していた写真を....持ってたの?それを童裊が拾ったの?」

「はい」

「処分したって……」

「他の写真と紛れていたようでして」

「落としちゃった」

「はい」

「落としちゃったか........」


死にそうな那緒の声が静まりかえった部屋に広がった。思考することを脳が拒否している。理解したくないと現実逃避を始めた脳細胞を掻き集めて必死に働かせるが、単語を飲み込むので精一杯だった。

落としちゃったってなんだよ。


「それで?」

「................」

「落として、拾って、それで?」

「................」

「それだけじゃないよね。写真一枚だけじゃなんの写真か分からないもんね」

「..........僕が那緒さんのお宅を頻繁に訪問していたことも、裏付ける要因になったと聞きました」

「へぇー」


ひくりと頬が引き攣る。

火が無いどころか那緒はキャンプファイヤーの前にいたらしい。高速で薪を焼べる宇久森に気付くことなく、のんびりとキャンプを楽しんでいたようだ。

乾いた笑いが漏れる。

誰だ社長の愛人が外観お化け屋敷の家に住んでるはずがないって言ったやつ。わたしだ。愛人じゃないけど。

両手で顔を覆った。

そうだよなぁ。普段から特定の相手の写真を持ち歩き、頻繁にその相手の家を訪ねているとなれば思い浮かぶのは特別な相手だろう。宇久森の場合はそれが恋人ではなくストーキング相手だったわけだが、童裊が誤解しても仕方がないと那緒は思った。

つまり、あれだ。


「わたしが刺されたのは宇久森さんのせいってこと」

「............」

「そうだよね」

「........おっしゃる通りです」


噛み砕いて噛み砕いて、やっとこさ理解した真相は思った以上に単純で馬鹿みたいなものだった。

ひくひくと口元が震える。

動機は至ってシンプルだとどこかの名探偵が言っていたが、まったくその通りだった。


「へぇ...........そうなんだ」


ふつふつと感情が湧き上がってくる。恐怖や不安で蓋をされていた感情が、鍋の内側でぐらぐらと急速に煮えていく。


「宇久森さんが原因だったんだぁ」


それはやがて蓋もろとも鍋を溶かして、

爆発した。


「………マッチポンポンプじゃない!」

「故意ではありません!故意ではありません!決して仕込みでは無いので」

「じゃあどうして話さなかったのよ!」

「落とした写真で狙われたなんてお話すれば、自作自演だと疑われかねないじゃないですか」

「自覚、あるじゃない!!」


手近にあったティッシュの箱を投げつける。受け止める宇久森にさらに苛立った。クッションを引っ掴んで投擲。避けられる。ムカつく。ぬいぐるみに膝掛け。手近にある物を掴んでは宇久森に投げつけるが、当たることなく床を転がっていく。ムカつく、ムカつく。


( こんな時くらい当たっておきなさいよ!!)


怒りはさらに濃度を増す。

原因が目の前にいたなんて誰が思う。慎重に動いていた己が馬鹿みたいではないか。


「職業まで偽って、この.........ややこしいことしやがって!混乱するだろ!」

「あ、乱暴な言葉遣いはいけませんよ」

「うるさい、馬鹿!!」


ぐしゃぐしゃと手で髪をかき混ぜる。

数々の愚行と愚考を思い出して眉間に皺が寄った。


「つまり罪滅ぼしで家に軟禁したってことでしょ!?ありえない!」

「ち、違います!いえ、それもありますが、僕が那緒さんを保護したのは罪滅ぼしなんて安い感情ではありません!愛ゆえ、愛ゆえです!」

「なお悪いわ!」


ストーキング相手が事件に巻き込まれたから、これ幸いと相手を騙して家に軟禁した。

彼はそう言っているのだ。

いろいろ隠したりするせいで勘繰ってしまったが、ようはただの誘拐だった。

過剰なまでの心配性な己を恨む。

こんなことなら、深く考え込まずに好きに過ごせば良かったと唸った。人間の鼓動の数は決まっているのに、無駄に心拍数を増やしてしまった。早死にしたら宇久森のせいだ、と理不尽な怒りを内心でぶつける。


「あ“あ“あ“ー!」


喉奥から吐いたこともない野太い溜息を吐き出した。力を抜いて倒れ込む。後ろにいたソファーの柔らかさが後頭部を包み込む。

久方ぶりに怒ったせいか、それとも心労からだろうか。どっと疲れた。気が抜けたせいか一気に身体が重だるくなる。

片手で顔を覆った。

話すのも億劫になっていたが、いま聴いておかなければ有耶無耶になる気がして那緒は口を開いた。


「あと、あれ.......複数犯って話は?」

「単独犯だったそうです」

「嘘じゃない?」

「犯人が嘘をついていなければ」

「まぁ、そうね」


逮捕されたとはいえ復讐を終えた犯人が、いまさら嘘をつくメリットはないだろう。

晴れて那緒は自由の身というわけである。やったね、と両手を広げる。口には出さなかった。那緒がここに留まる理由が消えたことを宇久森が一番理解しているはずだ。刺激するようなことは避けておきたい。


( 信用とか以前の話だったわ。そうだよ、どんなに待遇良くても軟禁されてるんだよ。信用とかしちゃいけなかったわ )


欠伸をひとつ。目を擦る。

本来ならさっさとこの家からおさらばするべきだが、心労うぐもりのせいか瞼が重い。言葉で縛れなくなったとはいえ過保護な宇久森が物理的に枷を増やすとも思えないし、このまま睡魔に身を任せても問題ないだろう。

また欠伸をひとつ。


「宇久森さんの相手してたら疲れちゃった。余罪は後から聴くね」

「辛辣ですね」

「喜ぶな」


足元に転がっていたクッションで宇久森を殴った。痛いです、なんて明るい声が聞こえたが無視して那緒は目を閉じる。

睡魔はもうすぐそこまで迫ってきていた。


「お休みなさい」


“起きたときには全部終わっていますからね。“


宇久森の口元がうごいた。

微睡む意識の中でそれだけしか分からなかった。




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