28話
「なるほど、それが原因でしたか」
静かな声が冷たく部屋に響く。
怯えて無意識に腕に力が入る。日記を抱え込むように見えたのか、鋭い視線がそれを射抜いた。だが、彼の顔に浮かぶのは笑顔。作り物めいた完璧な微笑みが恐怖を助長させる。
くしゃりと日記が歪んだ。
頭は真っ白だ。
「かいしゃ、は、」
「行っていませんよ」
「なんで」
「「少し出てくる」と言っただけですが」
「うそ……」
思い出してみればそうだ。
宇久森は会社に行くとは言っていなかった。失敗した、失敗した。どうして会社に行くなどと思い込んだのか。部下が近場まで書類を届けにきただけかもしれないのに。
緊張で口が乾く。
「これは、」
「ずっと、考えていたんです」
どうにかこの状況を切り抜けなくてはいけない。頭にはそれだけがあった。言い訳も浮かんではいないのに、口から飛び出した言葉は宇久森に遮られる。
「なぜ無理に歩行練習をするのか、なぜ無意味に台所への侵入を繰り返すのか、なぜ薬を拒否するのか。それもこっそりと、僕に隠れてする理由をずっと」
「それ、は」
「ですが、ようやく確信が持てました。
「あっ、」
後退りも出来ないままに、ゆったりと近寄る彼を眺めていることしかできなかった。
逃げられないように拘束する気か。
身体が強張る。だが那緒の考えとは裏腹に宇久森は目前で膝を折って、こちらを見たまま日記について淡々と話し始める。
「証拠として保存していましたが、さっさと燃やしておくべきでした。こんな薄っぺらい紙屑などなくとも、あの男の罪は確定している」
「証拠って」
「那緒さんを刺した不届き者の私物です」
「童裊の、」
やはり遊び道具などではなかった。犯人の、童裊の私物。それをなぜ警察ではなく宇久森が持っている。彼は己の職業を医者だと言った。それなのになぜ。
ぐるぐると頭が回る。
日記の中にも医者は登場していた。
婚約者を宗教団体に入れられた医者が。
宇久森がその医者ならば婚約者はどうした。放っているのか。やはりストーカーは演技で、写真やマネキンこそが小道具なのか。それとも医者は複数いて内のひとりが宇久森なのか。
ぐちゃぐちゃと頭が回る。
もし日記が本物なら那緒が刺された原因はなんだ。書かれていなかったじゃないか。
「…………はっ」
手が震えていた。
途端に宇久森が得体の知れないものに思えた。彼は誰だ。
また己の勘違いではないかと冷静な声がする。だがそれならば動機の説明がつかない。
那緒より先にマスコミが知っているのは、意図的に彼が那緒に伏せていた以外に考えられない。
分からない。どうして。
「…はぁ……ひゅっ…..はっ」
頭だけでなく視界までもがぐるぐると回っている。気持ちが悪い。耐え切れず目を閉じるが、血走った瞳がフラッシュバックして慌てて目を開く。
気が狂ったような笑い声がして耳を押さえた。日記が腕からこぼれ落ちる。上手く息が吸えない。怖い、怖い怖い。
なにが本当で、
なにが嘘なのか。
那緒にはなにも分からなかった。
「那緒さ……っ、那緒さん!?」
那緒の身体がぐらりと傾く。
咄嗟に宇久森がその身体を受け止めた。荒い呼吸を正すように背中を摩られ、囲むように抱きしめられる。
「大丈夫ですよ、大丈夫」
肩が震えた。逃れようと身じろいだが力が入らずに、むしろもっと引き寄せられる。宇久森の胸に擦り寄るような体勢。押し付けられた片耳が心音を拾った。
悍ましい笑い声に鼓動が混ざる。
それは小さくて、でもじわじわと染み込むように広がって雑音を消していった。
トクン、トクン。
笑い声が遠くへ。
トクン、トクン。
呼吸が軽くなっていく。
「怖かったですよね、軽率でした。怒っているわけではないんです」
荒い呼吸が背中を撫でられる度に速度を落としていった。宇久森の心音と同じ速さで鼓動は動き始めて、恐怖から強張っていた身体からも自然と力が抜けていく。童裊の声が柔らかい声色に塗り替えられる頃には、那緒の容態は随分と落ち着いていた。
「ただ日記を大事にされていたのを見て、少し、そのカッとなって………な、那緒さん!?」
「なに」
「なにではありません!どこか痛みますか?ああ、やっぱり怖かったですよね!すみませんすみません!」
宇久森の慌てぶりに那緒は首を傾げた。
その拍子に頬を伝うものに気が付いて、指でそれを拭った。指が濡れている。瞬きをしてまたひとつボロリと雫が足を濡らした。
雨、ではない。ではこれはーーー
「なみだ?」
ーーそこで初めて那緒は自分が泣いていることに気が付いた。ボロボロと溢れて止まらない。
宇久森がギョッしていた原因はこれか。
那緒は唖然とした。
泣くつもりなんてなかったのだ。全然、まったくこれっぽっちだって。だがキャパシティを超えた情報が、感情が、ハラハラと涙となって溢れていくのを止めることが出来ない。
悲しいのではない。怖いわけでもない。柔らかく温かな涙は安堵からきたものだ。
信じられなかった。
宇久森で安心するなんて。
「あ、あ、あぅ、痛み止めは切れる時間ではないし……頭痛ですか?腹痛ですか?それとも足でしょうか。驚かせてしまった時に挫いては……いませんね。ならやはり怖がらせたのが原因で…………すみませんすみませんすみません無神経でした」
「………っ」
喉が痛い。視界は最悪。鼻を啜った。
まだ信じられないし、癪だった。だが事実は消えない。怯えていたのが嘘みたいに呼吸は落ち着いていたし、幻聴だっていつの間にか治っていた。
でも認めたくなかった。
( こいつもきっと嘘つきだ。嘘つき、嘘つき。あの熱弁もきっと嘘で、ストーカーも写真もきっと嘘で嘘つきで…… )
どれだけ綺麗に見えたって、結局は宇久森も欲に濡れた人間だ。騙されたに違いない、と思うのに身体は正直に好意を現す。
言い聞かせても、手の震えは止まっていたし、目を閉じても瞼の裏に童裊の姿はない。
これが答えだった。
「この話はまた今度にしましょう。いまはお休みになった方が」
「いい」
「ですが」
「話して」
肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
頭に浮かんだストックホルム症候群なんて言葉をバットでぶん殴って、涙をティッシュで乱暴に拭う。
かもしれない。その可能性の方が高いと自分でも理解していた。それでも。
「なにも知らない方がずっと怖い」
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