27話



「宇久森さん、わたし暇なんだよね」

「辞世の句はそちらでよろしいですか」

「軽率に殺そうとするじゃん」


詐欺師の手口で強引に恋人の座についた男の言葉とは思えない発言に、那緒は己の身体を抱き締めた。やはり身体だけが目当てだったのね、と宇久森を睨みつける。わずかに頬を上気させた彼は、ふるりと首を振って唸る。


「ぜ、ぜんぶほしいです」

「死因さえも自分が作りたいってやつ?束縛が強過ぎるから遠慮したいんだけど」

「そうですね」

「まじかよ」

「できれば老死するまで仲睦まじく過ごしたいと考えていましたが、那緒さんが死に急ぐのでしたらやむ終えません」


恍惚とした笑みで那緒の頬に触れる姿は、まるで絵画のように美しい。毒性がまるで顔面に現れないところとか、本当に憎らしいほど綺麗だ。


「すぐに後を追いますから安心してください。結婚は人生の墓場。なら、墓場で一緒になればそれはもう結婚したと言っても過言ではありません」

「過言だね。過言でしかないよ」


重婚どころの話じゃない。同じ墓に入ることが結婚になるのなら、両親とも結婚したことになる。そんな昼ドラも真っ青なドロドロの家族は御免だ。


「あれは自由が奪われたって意味だから「あなたを殺してわたしも死ぬ」って意味じゃない」


家庭を顧みない輩の心無い言葉は確かに相手を傷付けるが、殺意高めのヤンデレ系発言では決してない。

この手の話は男性の方が話題になると聞いているが、お坊ちゃんだから疎いのだろうか。こてりと宇久森が首を傾げていた。


「自由を奪われる?なぜ?」

「ひとりの時は自由にやりたい時にやりたい事が出来ていたけど、ふたりになるとそうもいかないでしょ?子どもができればなおさらね。理想と現実のギャップにストレスが溜まるってことだよ」

「理解できませんね。愛妻と愛子がいてストレスになるなんて」


天国じゃないですか、と宇久森。

愛妻家ですね、と那緒は内心で返す。

確かに詐欺紛いの方法で恋人の座に収まるだけでなく、ナチュラルに監禁するような彼にこういった思考は存在しないだろう。


「帰ってきてすぐお風呂に入りたいけど、相手が入ってたとかさ」

「お風呂場の前で待機しますね」

「そうなん……ん?え、んん?なんで」

「那緒さんのリラックスしてる声を聴くためですね」

「特殊っ。特殊過ぎるし、わたしで例えるの止めて欲しい。いや、まて、やってないよな?いまそんなことしてないよな?」

「…………してないです」

「一回はやってるな?」

「シャワーの音しか聴こえませんでした」

「待機した時点でアウトなんだわ」


庶民思想一年生のお坊ちゃんにも分かりやすいように日常の一コマに例えたのに、逆に変態思想を見せつけてくるなと彼の膝を叩く。

やるなよ、と念を押すように宇久森を見る。身長のせいか下から睨め付けるような形になった。


「宇久森さんは稀有ドがつく存在マゾヒストだから理解できないかもしれないけど、一般的にはある程度自由が無いと疲れちゃうんだよ。愛情も時間が経てば冷めるの」

「深まる、ではなくて?」

「そう、同居して嫌な所に目がいく」

「それだけ気を許しているということでは?」


そんなことで愛が冷めるなんて、本当に理解し難い。宇久森は再度首を傾げてみせた。

彼の目に日常の隙は欠点とは映らないらしい。オナラをした彼女を、あり得ないと笑いながらフッたと話していた同僚に聴かせてやりたい含蓄のある言葉だ。


「好きなら、愛しているのなら、爪の先から髪の毛の一本たるまで好ましいと思うのが当然でしょうに」

「重たっ……」

「普通ですよ」

「普通って概念が歪む」

「普通です。だから那緒さんが目覚めるまで僕はお世話できたんです。その対象が他人であったなら、僕は触りもしません」

「極端なんだよなぁ」

「そうでしょうか?」

「うん」

「愛しているなら、なにかしてあげたいと考えるのは普通だと思いますけどね」

「限度があるかな」


宇久森のことだ。たとえ那緒が植物状態になろうと四肢を失おうとも、嬉々として世話をすることだろう。愛しているから、と。

無理だな、と那緒は思う。

わたしは相手をどれだけ愛していたとしても、諸手を挙げることなど出来ない。

金銭・精神・肉体。

さまざまな要因で己の理と天秤にかけてしまうだろう。世話を引き受けたとして、同じように相手を愛せる自信は無かった。


「それくらい大切なんです。毎分毎秒、壊してしまわないか思い悩むほどに」


那緒が薄情なのか。

それとも宇久森が異常なのか。

正解は分からない。ただ慈しむように細められた瞳を普通だとはどうにも思えなかった。


「朝は顔を見て、声を聴いて、指に触れます。夜は心音を、呼吸を、体温を確かめます。そうしないと安心できないものですよ。人間はあんがい脆い生き物ですから、だから」


言葉と共に自分の部位に指を這わせていく。

顔、喉、指、胸は二回撫でて最後に手首を撫でた。クスリッと笑う声にハッとなる。

白い肌を流れていく長指を、自然と目で追っていた。魅入られていた。

意識した瞬間に顔がーーー


「だからキッチンに入るなんて、ましてや包丁を握るなんて許されない行為なんですよ」

「話が戻ってきた」

「どこにも行ってませんよ。最初から最後までこの話です」


ーー歪んだ。

そりゃあもう歪んだ。眉間に皺が寄るなんて可愛いものではない。目も口も歪んだ。

那緒は面食いだ。面食いな部類だと承知しているが、どうにもその己の良さを理解したうえで十二分に発揮してくる宇久森にトキメクことができない。顔はいいのに。

那緒は思う。宇久森の顔は好きだが、生理的に宇久森の存在が嫌いなのだろうと。彼がにこにこと上機嫌なことも気に食わない。あと、話を流せない心の狭いところも。


「包丁、持っていましたね?」

「うん」

「入るだけでなくて包丁まで持って、いったいなにを?」

「暇で」

「暇で?」

「軽く料理でもしようかなーって」

「へぇ、料理を」


スッと視線がキッチンに向かう。

半分に切られまな板の上に放置された林檎を、親の仇のような目で睨みつける。

刃物だけでなく食材にまで敵意を向けるんじゃないよ。心の中で思う。


「娯楽が、ゲームでは物足りないと?」

「いや、むしろ十分過ぎるからスマホから手を離してくれる?通販サイト開かないで」

「ではなぜ」

「いや、慣れてなくて」

「ゲームにですか?」

「うん」


施設に家庭用ゲーム機はあるにはあった。

ファで始まってンで終わる古い方のゲーム機が。だがそういった娯楽は優先的に下の子が使っていたし、古株の那緒は施設の手伝いと学業で忙しく触る機会すらほとんど無かった。チビたちに誘われてたまにやるゲームも、人生のゲームやドンでジャラなどのボードゲームくらい。

無縁だったのだ、家庭用ゲーム機と。

そんな子がある日突然最新型のゲーム機を渡されて、一日中暇を潰せるだろうか。


否だ。

接続できたことすら奇跡に近い。

だというに、遊べなど難しいにも程がある。

今のゲームの大半は3Dカメラ。ゲーム慣れしていない人間はぐるぐると回っているうちに画面に酔う。酔った。酔わずともどこを向いているのかさえ理解するのは至難の業だ。

それを続けられると思うか。


否、否だ。

5分と保たない。

そう、5分と保たなかった。

那緒はゲームを開始してから5分経たずして、画面に酔い、電源を落としていた。

現代っ子。物心つく前からパソコンが家にあり、大学に入学する頃にはスマートフォンを手にしていた宇久森にはそれが分からない。

まさか、まさか、これで10分も時間を潰せない人間がいるなど想像すらしていなかった。

いくら那緒を観察しようと、いくら那緒について調べたとしても、育った環境で身についた“普通”を推し量ることは難しい。

ゆえに、那緒の言葉は甘えと映った。

不器用ながらに己に甘えているのだと。


「ヒュオッ.......」

「ひゅおー?」

「そ、そそそそれは僕に早く帰ってきて欲しいというアピールで」

「ぜんぜん違う」

「ああ!照れなくてもいいんですよ!ええ、ええ、そんなツンツンなところも大好きです」


1ミリも照れてなどいない。

那緒はグッと言葉を飲み込んだ。

これを機会に家事に手を出したいが、怒っている人間相手に交渉するなど愚策である。今は早々にこの場から退散した方がいい。勘違いして話が有耶無耶になるならそれで構わなかった。


「それで、なぜ急に料理を?」


有耶無耶にならなかった。

それどころか時間が戻った。時を戻そうというギャグネタがあるが、実際に目の前で起こると恐怖でしかない。


「いや、だから暇で」

「それは聴きました。ですが、本当にそれだけですか?」

「.......どういう意味?」

「なにか、隠していませんか?」

「飴しか持ってない」

「物理的な話ではなく、もっと精神的な話です」

「成り代わりを疑われている……?」

「そうではなくーー



テロテロテロテロ



耳に慣れた音が言葉を遮った。

紛れるように舌を鳴らす音がして、宇久森が音源であるスマートフォンを取り出した。コミカルな音とは裏腹に液晶画面に落とす視線は鋭い。



ーーーすこし出てきます。話は終わっていませんから、覚悟してくださいね」



声こそ柔らかいが、顔を上げないあたり相当ご立腹のようだ。玄関からから聞こえた「今から向かう」という声は氷のように冷たくて、那緒は腕を擦った。

電話口の方、ご愁傷様です。

閉まった扉に向かって手を合わせた。

今から出勤お疲れ様です。

それにしても、


「隠してることってなんだ?」


今回は疾しいことなど那緒には無い。

画面酔いという理由でコントローラーを置いたことは恥ずかしいが、それを誤魔化すために家事に走りはしない。

那緒が台所に立った理由は、ただの暇潰し。それ以上でも以下でもない。

研ぎ石を発見したので山姥ごっこ(研ぎ石で包丁を研ぎながら不気味な高笑いをする)はやってみたかったが、それとて暇潰しでしかない。

彼はいったいなにを疑っているのか。

疑り深くていけないな、と首を振る。


「神経質だと疲れちゃうよ」


やれやれ、と肩を上げる。

神経質になった原因も、疑り深く注意を払うようになった原因も、すべて那緒だというのに本人にはまるで自覚がなかった。

酷いヤツである。


「テレビでも見ようかな」


だから、これはちょっとした罰なのだ。ヒトの気も知らずに呑気にバラエティ番組にうつつを抜かそうとした罰。



『金花那緒さんが刺された事件に進展です。

被害者はいずれも童裊容疑者の親族が入院していた病院関係者であることが判明しました』



液晶画面の向こうで冷たい声がする。

電源を入れ終えたリモコンがギッと悲鳴をあげた。

キャスターの隣に男の若い頃の写真。

続いて、逮捕された時の映像だろうか。不揃いに切られた白髪混じりの髪を振り乱し笑う男が、警察に取り押さえられていた。不衛生に伸ばされた髭が口の周りを覆って骨格が掴みづらいが、見慣れた背景があの男であることを理解させた。


あれは童裊だ。


わたしを刺した男。


高笑いする声がフラッシュバックする。痛まないはずの腰が熱くて、咄嗟にそこを手で押さえた。男がパトカーに押し込まれ、映像が切り替わる。


「……ひゅ……はぁ、ひゅっ」


呼吸がうまく出来ない。心臓の鼓動が速すぎて、呼吸が乱れて息苦しい。強く胸を押さえた。あまりに強く脈打つから、飛び出してしまいそうに思えたのだ。



『取調べの際「妹は殺された。治験にサインなどしていない。無断で妹は実験台モルモットにされたんだ」と話しており、警察側は当時治療に関わった医師などに話を聞くとしています』



耳どおりの良い声が通り過ぎていく。

淡々と読み上げられる原稿の内容は、まるで頭に入ってはこない。死亡、容疑者、動機は。ぶつぶつと単語ごとに音を拾っても、それが言葉として飲み込めないでいた。

ただゆらゆらと揺れる視界で『動機は医療ミスによる恨みか』という言葉だけを見た。

どうにか咀嚼して、飲み込んで、思い出したのは日記のこと。妹の病気を綴ったあの日記。TRGの延長のような物だと思っていたあれが一気に現実味を帯びる。


「はぁ……んっ」


胸を押さえたまま那緒はソファの下に手を突っ込んだ。箱を手に取ると乱暴に蓋を開けて、日記を引っ掴む。ベラベラとページを捲り、入院した経緯や薬を飲んでからの症状に目を通す。


「..............無い」


幸い、どれも那緒には当てはまらなかった。

宇久森に咎められてから薬は飲み続けているが、体調は崩れるどころかむしろ良くなっている。だが不安は消えない。

ぱらぱらとページを捲る。

妹以外の被験者の話は無い。

やはり遊びの延長線か。

断言は出来なかった。動機と日記に見つかった接点を無視出来なくなっていた。

嫌な想像が頭を過ぎる。

呼吸が乱れる。

筆跡が違うのは童裊が書いたからで、宇久森は関係者だから日記を所持していたのではないか。


違う。

童裊の姿を見たから動揺しているだけだ。冷静ではない。きっと誤解に違いない。さまざまな疑念を掛けてきたが、どれも勘違いだった。

己に言い聞かせていく。

思考がまとまらない。

ああ、だが、それならばどうしてーー



「一番に話してくれないの.....?」



ーーー那緒よりも先にマスコミが動機を知っていたのはなぜなのか。


答えが出る暇はなかった。





ドサッ


なにかが落ちる音に飛び上がる。

勢いよく振り返ると、ビジネスバッグが落ちていた。その隣に灰色のスラックスに包まれた長い足。それは今日宇久森が着ていたもので。


「なるほど、それが原因でしたか」


ああ、終わった。

那緒はごくりと唾を飲み込んだ。




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