21話


「はい、完全に塞がったようですね」


後ろから宇久森の嬉しそうな声が聞こえる。

包帯もガーゼも取り払われたそこには、縦に5センチほどの傷跡がある。宇久森は傷口の周りを慈しむように何度も手を這わせていたが、那緒が身を捩るとスッと手が離れる。


「まだ無理は禁物ですからね。外側が塞がっているとはいえ内側は未だに修復途中ですから、走るなどの運動は控えて下さい」

「うん」


日記あれを見てから生活に大きな変化はない。下手に動いて見たことを悟られることを危惧し、今までと変わらない態度を取り続けることを那緒は選んだ。

とはいえ、あんな物を見た後だ。

大なり小なり挙動不審になる事もあったが、これについては無問題だった。


「那緒さぁん」

「うげっ……なに」

「その顔いいですねぇ。下っ腹がぞくぞくします」


こうなって知ったのだが、那緒の宇久森への認識は怖い < 変態 らしく、顔を見ると怯えるよりも先に眉間に皺が寄った。

会話は最初から不信感が滲み出ていたし、食べ物の匂いを嗅ぐなどの動作は( 貧乏児生活で身に付いた )本来の行動と変わらなかったため疑われることはなかった。

ただ1つを除いて。


「それでは、歩行練習に移りましょうか。まずは現時点でどこまで動けるのかを確かめていきますので、無理はなさらないように」

「普通に歩ける」

「前までは、でしょう」


バツが悪そうにそっぽを向く那緒。

差し出された手を跳ね除けるわけにもいかず、しぶしぶとその手を取る。

宇久森の動作に逆らうことなくベッドからゆっくりと立ち上がる。引かれるままに足を踏み出す、と鋭い痛み。耐えるように唇を噛み締めるが、喉奥から反射的に苦痛が漏れた。無意識に握られた手に力がこもる。

不躾な視線が那緒を見下ろしていたが、取り繕うどころか悪態をつく余裕さえいまは無い。


痛い、痛い。


前傾姿勢のまま動けずに呻く。痛みで視界が歪む。頭にあるのは酷い後悔と、本当に背中に包丁が刺さったのだいう実感だった。


「那緒さん」

「.......っ」

「座れますか?」

「..........むり」

「そうですよね」


声に泣きが入る。

身体を支えきれなくなった足が震えて、ゆっくりとベットに逆戻りした。柔らかい感触が臀部に伝わる。杖代わりに掴んでいた宇久森の手を強く握って痛みに耐える。じっとりとした汗が背中に広がっていく。

また、宇久森がじっとこちらを見ている。

黒い双方は震える那緒を下から上まで舐めるように観察すると、やがて楽しそうに三日月を描く。

不謹慎な奴だ。

那緒が見ていれば痛みに呻きながらも噛み付いただろうが、不幸なことに彼女は痛みを和らげることに苦心し下を向いている。


「薬の効きが悪いのでしょうか」


真剣な声色に那緒はただ首を傾げた。

痛みで声を出すのが億劫なだけが理由ではない。那緒は己が痛みに苦しむ羽目になった原因を誰よりも知っていた。

単純な話だ。

彼女は薬を服用していない。


( 薬なんて飲んでいなんだから、痛いのなんて当たり前なのよ )


原因は言わずもがな、あの日記である。

人身売買、臓器売買、ホスト....etc。宇久森に対して数々の疑いをかけた那緒だが、ソファーの下から都合よく見つかった日記が本物だとは思っていない。

最初こそ「妹の復讐を目論んで....?!」と戦々恐々としたものだが、チェストに置かれたメモを見てすぐに誤解は解けた。


(あ、字が違う)


冷静に考えて見れば部屋から日記が見つかるなど、サイコロを振ってSAN値を削る系のゲームか細菌でカユ……ウマ……になるRPGの世界ぐらいだ。そんな都合よくリビングから発掘されたりはしない。脱走を試みた那緒の心を折るために宇久森が用意したトラップだと考えた方が、日記の内容よりもよほど現実味があった。


(学生時代に使った遊び道具だと思うけど)


とはいえ、とはいえなのである。

前にするとどうにも手は動かないもので、那緒は昨日から薬を飲んでいなかった。

何度も言うが、あの日記が本物だと本気で思ってはいない。


だが、もし、もしもということもある。

万が一、億が一、本物だったとすれば、那緒が薬品で殺される確率は大いにあった。復讐に走る人間は同じ手口で犯人を殺すと相場が決まっているではないか。


現実は小説よりも奇なり。書物にある出来事が空想だけに留まるはずはない。

考えてしまえばもう駄目だった。

今までの薬は安全だったから次も平気だとは思えない。むしろ今までの薬が安全だとなぜ言い切れる。安全だったとしても次が安全である保証は。ない、ない。そんなもの、どこにもあるわけがない。


飲みたくない、飲むの怖い。そんなことを考えていたら、いつの間にか薬は溶けて水の中に沈んでいた。


(......これは抗生物質じゃないただの痛み止め。傷も塞がったし、痛かったのは最初だけで後は平気だったんだから飲まなくても痛くない、はず)


言い訳を頭の中に並べ立てて、自分の行動を正当化していく。他人に害を及ぼすのなら律して薬の溶けた水を飲み込んだが、飲まずに困るのは自分だけ。

だから問題ない。

症状を楽観視した那緒が頭の中で笑う。

薬が完全に溶けた水を花瓶に注いでいく。

証拠は花がのんでしてくれる。

これでバレない。

あとは多少痛くても我慢して、なんて、本当に馬鹿なのではないかと今だから思う。


(痛い、すんごい痛い.....)


那緒はベッドから動けなくなっていた。

塞がったというのにじわじわと熱を持つ傷口は、呼吸するだけで痛みを発する。じわじわと、まるで侵食するように傷口から全身に痛みが広がり麻痺していった。


(ナメてた....刺し傷まじナメてた....。塞がったから痛み止め無しでも大丈夫なんて言ったの誰よ.....あ、わたしか、わたしだよ)


まさかこんな風に痛み止めの効果を知ることになろうとは思わなかった。目に涙が滲む。


「お手洗いなどは問題ありませんか?その、間に合わなかったりは……」

「もよおす前に済ませているから大丈夫」

「そうですか」


嘘である。

昨日もぎりぎりでトイレに駆け込んだ。

もう痛いのを我慢してひいひい言いながら壁を這うようにして移動した。どうにか間に合っているが、毎回もよおすたびに憂鬱な気分になる。空のペットボトルを見ながら「いっそこの中に....」と思ったことも一度や二度とではない。痛い。とても痛い。正常な判断能力が著しく低下するぐらいに痛い。

それでも、薬を求める身体とは対照的に心は伸びる手を止めてしまう。薬殺は怖い。飲んで眠るように人生を終えるのならまだいいが、復讐で用いる薬がそんな優しさの塊であるはずがない。


命が蝕まれていくのを感じながらも意識を失うことすら許されずに、踠き苦しみながら徐々に息絶えるような物を選ぶはずだ。

そんな死に方は嫌だ。どうせ死ぬならこたつで眠るみたいに死にたい。

いや、死にたくないのだけれども。


「那緒さん、お薬飲み忘れてないですか?」

「那緒さんお薬飲み忘れてないです」

「んふっ」


なに笑ってんだテメェ.....。

あまりの痛みに内心でオラつく。じっとりとした視線を宇久森に向けるとすぐに咳払いをして取り繕ったが、口元がひくひくと震えているのが見えて那緒はさらに眉を寄せた。


「いえ、可愛らしかったものですから。ああ、そんなに睨まないで下さい。朝から興奮してしまいます」

「キモイ.....」

「今朝は随分とお口が正直ですね。僕としては嬉しい限りですが、それが痛みによるものであれば話は違ってきます」

「放っておいて」

「そういうわけにはいきません。原因がはっきりしているのなら、早々に取り除いてしまった方がいいでしょう」

「原因?」

「那緒さん、お薬飲み忘れていますよ」

「それ、さっきも......」


言いかけて、ハタっと気が付いた。

“飲み忘れてないですか”じゃなくて

”飲み忘れていますよ“と言わなかったか。

そろそろと顔を上げる。

宇久森はチェストに置かれていた観葉植物を持ち上げて、しげしげと眺めていた。

僅かに濡れた葉っぱを指で弾く。


「入院中の患者の病室に生花を置いてはいけない理由をご存知ですか?」

「知らない」

「水の中で菌が繁殖するからです。免疫力の弱った患者が新たな病に掛かっては大変でしょう?」

「えっ....そ、そうなの?」

「僕がそんなリスキーな物を那緒さんのお部屋に置くと思いますか?」

「それは........」


初耳だった。

正直に疑問を吐き出してしまった口を慌てて押さえるがもう遅い。宇久森は茎を掴むと、おもむろに上に引っ張った。一本、二本、抵抗なく植物は抜けていく。花瓶から植物を抜き終わると、那緒にその鉢の中身を見せた。

中には緑色のスポンジが詰まっていた。

1つ掴んで花瓶から取り出すと、わざわざ那緒に見せるようにギュッと絞ってみせた。

ボダッボダッボダッボダッボダッ......

水がフローリングを濡らしていく。


「こちらは造花です。成長せず腐るだけなので水を上げるのは止してくださいね」

「......はい」

「それから、お薬をお水に溶かすような真似も」


那緒は素直に首を縦に振った。

欠けた薬を摘んだ宇久森の笑顔は、般若のように恐ろしかった。





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