20話


逃げるのには動機が足りない。

動機が判明しないから閉じ込められたのに、逃げ出す動機が無いからここから出られない。


「とんだ皮肉ね」


見えない鎖に絡め取られているのを理解しながら、那緒はただ見逃し続けるしかないのだ。動機を手にするその時まで。



受動的な人間ならば、の話だが。

生憎と行儀よく座って待てができるほど、那緒はいい子ちゃんではない。動機が無いのなら探すまで。亀の進みだが、すでに次の情報を求めて那緒は動き出していた。

手を付けたのはリビングにあるチェスト。

灯台下暗しというやつだ。重要な情報ほど案外近くにあるものだと信じて、テレビはそのままに家の探索に切り替えた。

本命は宇久森の書斎だが焦ってはいけない。すでに彼が出掛けてから2時間経過している状況で、確信に触れるであろう場所の探索は避けるべきだ。タイムリミットがあると集中力が上がるというが、これは一点に集中するからである。つまり周囲への警戒は怠る。

ミスを犯し、探索目的で部屋に入ったことが露見すれば矛先は那緒ではなく証拠に行く。都合の悪いモノは隠され、二度と手の届かない所へ。


( だから今回は当たり障りのない場所から )


焦るな、と言い聞かせて那緒はチェストの引き出しに手をかける。ついでに監視カメラの有無も確かめておこうと手を引いた。

最初に見つけたのは印鑑。次に通帳。それから土地の権利書。婚姻届、ゼ○シー、解約書、タンス貯金。最後に手のひらサイズの箱が見つかった。


「は“ぁ“あ……」


徹夜明けのおっさんみたいな声が出た。

引き出しを開けるたびに現れるアイテムに気が滅入る。探索されることを想定し、わざと配置されたであろうラインナップに頭を抱えた。

眉間に皺が寄っていく。

燃やしてやりたい。暖炉に薪をくべるくらい自然に。眼前で婚姻届けを灰にしてやりたかったが、ライターを手にする前に踏みとどまる。


( 宇久森あいつ絶対に喜ぶから駄目!絶対に駄目!なにがなんでも駄目!)


深呼吸して心を落ち着かせる。

変態に有効な撃退方法は無視スルーすることだと己に言い聞かせて、那緒は静かに棚を閉めた。

頭の中で小躍りしていた宇久森がしょんぼりと肩を落とした気がした。


全滅した棚の次はテレビ台。

並んでいる本をひとつずつ手に取っていく。

絶品お家飯、今日の夕飯はこれ!、お粥で取れる栄養素、必要なのはタンパク質……。

本、本本、本本本、そこには見事に料理本しかなかった。なにか挟まっていないかとひっくり返して振ってみたが、それらしいものは出てこない。ぱらぱらと捲ってみれば付箋と走り書きがびっっしり書いてあり、カモフラージュではないことが分かる。


ここには無い。

あるのは主婦の日常だけだ。

そっとテレビ代の戸棚も閉じて、ぐるりとリビングを見回した。残るはキッチンぐらいしか収納できる場所は無い。部屋の面積に比べて物が少ないと思っていたが、探索すると改めてそれを実感する。


( もっとこう、無駄にクッションが多かったり衝動外した小物が飾ってあるとか無いのかな )


生活感が無いとはまた違った感覚。

日々財布が寂しい那緒にその経験は無いが、同僚はよく衝動買いした置物をデスクに置いていた。隣の彼はゴミ箱をチョコレートの包装紙で山を作っていたし、部署の違う彼女は毎日違うキーホルダーを鞄に着けていた。

そういう癖がこの家には見当たらない。

一周、二周とトテトテとソファの周りを回る。リビングを探索して改めて思う。

この部屋には必要な物しかない。


( まるでこの部屋自体がーーー )




ガッツン


ーーーー足の小指にガツンと鋭い衝撃。

鈍い音がして痛みという電気信号がシビビビビと足を伝って脳に届く。瞬間、小指に激痛が走った。


「いっ〜〜!?」


ヒィと弱々しく喉奥から声が漏れ、痛む小指を抑えるためにその場に蹲る。

痛い、すごく痛い。

つい先日刺されたばかりだが、だからといって痛覚が麻痺するわけもない。痛いものはいつだって痛いままだ。


「いたい.....」


ちょっと涙が出てきた。

揺れる視界でキッとソファの下を睨み付ける。その先には四角いクッキー缶。那緒はこれに小指を強打したようだ。

なぜこんな所にクッキー缶が。

恨みがましい視線を送る。

なぜソファの下にクッキー缶など置いてあるのだ。バスバスと缶を叩いて怒りを発散させるが、痛みからくる理不尽な怒りは止まらない。

痛い。小指が取れそう。


「ソファの下に置くってなによ……!そんなの小指を負傷させる意外に目的なんてないじゃない!」


それ以外にも多々あるのだが、人間の急所と言っても過言では無い足の小指へのダメージのせいで冷静な判断が出来ない。例えばなにか隠しているか、疚しい物があるか。

ヒリヒリと痛む小指を揉む。涙目で唸りながら頭の冷静な部分が導き出した候補に、あれっと那緒は思った。両方当てはまる物があるなと。成人男性が女性に見つからないように、部屋のあらゆる隙間に隠す書物。


「エロ本か!」


ベットの下に隠すのがセオリーだが、大衆に認知されすぎていて最適とは言えない。本棚の裏や洋服の隙間、カバーを変えて本棚に忍び込ませるなど多彩な方法が流失しているためむしろ己の部屋に隠すのは危険と判断したのではないか。だからあえてリビング。

こうして堂々とクッキー缶に入れておく事によって、お菓子と勘違いさせ探索を回避するという作戦なのではないか。

さすが社長、頭がいい。まさかリビングにあるとは誰も思うまい。だが、それにしても


「........多いな」


このクッキー缶はとても重い。

あんな涼しい顔していったいどれほどの欲望を買い込んだのだろう。おそろしい。面と向かって愛などとを囁いておきながら、これだけ買い込むのだから男とはよく分からない。それはそれ、これはこれというやつだろうか。


「おっし、開けるか」


好奇心は猫をも殺すとは言うが、知らぬは一生の恥とも言う。それっぽいことを言ってみたが、純粋に中身が気になる。別に小指の腹いせに弱みを握ってやろうとか、そんな小悪党みたいな理由ではない。

エロ本やDVDがあるのは知っていたが、施設にその手のものは無く手に取ったことも無ければ実物を見たことすらなかった。

そう、これはこの機会にぜひとも見ておきたいという純粋な知的好奇心で断じて悪用するつもりではない。

わくわくと心臓が速る。

痛みはいつの間にか引いていた。

那緒はしめしめとクッキー缶を開けた。中には露出の多い女性の表紙ーーーー


ーーーではなく、質素なノートが出てきた。

使い古された焦茶色のノートと、上から下まで数字で埋め尽くされた紙の束。


「え、まさかの自給自足?」


わくわくとページを捲った。


『○月×日


今日から日記をつけようと思う。』



ノートに書かれていたのは日記だった。

気分が急降下する。

背表紙でエロ本だと判断して手に取ったのに、中身が参考書だったときぐらい下がった。日記、よりにもよって日記。仕事関係の書類よりはマシだがそれにしても面白くない、と那緒は眉を寄せる。せめて卒業文集ならいくらか面白みがあったのに。


( それにしても随分と落ち着いた文面ね。やっぱり口はおべっかばかりなのかしら )


それなりに綺麗な文字で綴られたそれは、普段那緒が見ている宇久森とはまるで正反対の文面に思えた。那緒の知る宇久森は、非常に感情の浮き沈みが激しい性格で我儘。仕事のこととなると、途端に冷凍庫から出したてのあずきのアイスみたいに冷たく固くなる。妹のためを思って日記を付けるような人間らしい情があるとは思っていなかった。

あれはもっと利己的で身内贔屓のと無い人だと思ったが、どうやら違ったらしい。



『○月×日


一人暮らしは寂しいだろうと、うさぎのぬいぐるみをプレゼントした。最初は子どもっぽいと文句を言っていたが、手放さないところを見るとお気に召したようだ。』



随分と可愛らしいことをするものだ。

那緒はページを捲る。

毎日のたわいない出来事を綴ったそれは、大半は上京したばかりの妹の心配で埋まっていた。


『変な男に捕まっていないだろうか』『仕事で面倒ごとに巻き込まれていないか』『あの子は仕事が出来るから同僚に妬まれそうだ』等々.....。


なるほど那緒に対する異常なまでの干渉は、どうやら妹から来たものらしい。元来からの世話焼き気質だが、対象となっていた妹が手元から離れて代用に那緒を選んだ。

日記の様子から兄妹仲は良好関係に思えたが、ついに過干渉なブラコンに嫌気がさして連絡を絶ったのかもしれない。

ペラペラと紙を捲る。

似たような内容なので読み飛ばしていくが、日記が半分に差し掛かった辺りで“入院“という文字が見えて手を止める。



『○月×日 晴れ


妹が手術で入院することになった。

電話がかかってきたときは驚いたが、手術自体は簡単なものらしい。一安心。


重病になる前に発見できて良かった。

施設を出てから貯蓄していたが、大きな手術ともなると俺の安い給料だけじゃあ払いきれなかっただろう。我慢ばかりの人生だったのに、身体も治してやれないなんてことにならなくて本当によかった。

妹には長生きして幸せになってもらわないと。


手術当日はついててやろう。

妹はとても怖がりだからな。




○月×日


手術は無事に終わった。

だが投薬による経過観察が必要らしく、しばらくは入院するらしい。医者に内容を聴いたが、妹に説明してあるからと詳しくは聴けなかった。学会の資料作りに忙しいのだと、看護師さんが呆れたように話していた。お偉いさんの考えはよく分からない。』



良かった、大したことはないらしい。

ここまで来れば後は同じような内容だろうと、中身を熟読すること無くパラパラとページを捲った。


「ん?」


だが、なにかオカシイ。


( 文字がだんだん汚くなってるような....? )


最初はその程度の違和感だった。

忙しくしているのだろうと深く考えずにページを捲っていたが、徐々に違和感は大きくなっていった。

整った柔らかな文字は、次第に感情に任せたような荒々しい文字になっていく。

だんだん、だんだんと、だが確実に日数が進めば進むほど様子を変えていく。

苛立っているのか書き殴るような文字、紙は握りしめたのかシワが寄っている。妹さんの病気が悪化したのだろうか。ページを捲る手を止めて文面に目を向ける。



『○がつ×日


妹がーーーーーーされていた!

院長は同意ーーーーーー妹の字ーーーー。

あいつらが殺したんだ。

ーーーくすりをーーーーのせいだ

カルテーーせないーーー許さない

ころしてやる。』



文字は歪んでいて大半は読めなかったが、妹の容体が薬の影響で悪化したことだけは読み取れた。それを酷く恨んでいるようで、文章は物騒な物言いで締め括られていた。

妹が亡くなったのは薬のせいだと思っているのかもしれない。次のページはむしり取ったかのように破られていた。


(........え、宇久森さんこんな殺意隠してわたしのお世話してるの?それに妹さんは?病状悪化したなら妹さんのお世話しなくちゃいけないんじゃ......もしかして、亡くなった?)


日記からは読み取れないが、亡くなったと考えれば那緒に構っているのも納得はいく。だが日付は3ヶ月ほど前のもの。そんなに早く殺意と悲しみを消化して、他人に愛を囁けるだろうか。


(助けられなかった妹さんの代わりにしてるとか?それならあの過保護っぷりも分かるけど、本当にそれだけ?)


そもそも、なぜ妹のことを隠したのか。

那緒は非道な人間ではない。内心では疑っていても、身内の不幸を繰り返すまいと説得する者を正面切って否定はしない。事後承諾ではあるが、妹の話を聴いていれば多少は警戒心を解いた。少なくともわざわざ身分証明書や卒業証書を使って説得に時間を割かせることはなかった。

あの宇久森が高い説得力をほこる妹の話題を使わないはすがない。あるとすれば意図的な時だけだ。だが、それはなぜ。


(足枷を付けるほど逃したくないのに、説得材料を隠す理由はなんだろう)


身内の死を他人に知られたくないなら、闘病生活のみを説得の材料にするはず。姑息な方法で人を恋人にする宇久森のことだ。口八丁で誤魔化して那緒を丸め込めたに違いない。

では、病気自体を知られたくなかったとしたらどうだろうか。

妹の病気を知られることで不利益になるから、あえて那緒に話さなかったとしたら。

では、不利益とは。


カサリッ

缶の中身に手が触れて乾いた音がした。

それは紙の袋だった。内服薬と書かれた白い紙の袋。下には調合日と処方された病院の名前が記されていた。那緒が務めている会社の取引先の病院の名前が、記されていた。

全身の血が凍ったような感覚を覚えた。

脳裏によぎったのは“復習“の二文字。


(もし、もしも、亡くなった原因が薬の影響でそれを処方した医師に恨みを抱いていたとしたら....?)


主治医だけでなく、薬に関係した人間全員を恨んでいたとしてもおかしくはない。

背筋が寒くなった。

務める会社は薬品会社が、那緒は営業なので直接開発や臨床試験に関係することは無い。だが素人に違いが分かるかと言われれば否だろう。営業で訪れた那緒を薬の開発者と誤解しても不思議はない。


( わたしが関係していると疑われていたとしたら、そしたらわたしがここに連れてこられたのは )




ガチャリ



鍵を開ける音に意識が浮上する。

急いで日記を閉じるとクッキー缶に戻し、ソファの下に押し込んだ。音を立てないようにソファに座って、テレビに視線を移す。


「ただいま戻りました」


朗らかな明るい声に肩が跳ねる。

軽い足取りが近付くのに比例して、胸から飛び出そうなくらい心臓がバクバクと音を立てていた。





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