22話
「それで、なぜこのようなことを?」
低い声で何度目かの質問をされる。
抑えきれない感情が彼の完璧な笑みにヒビを入れ、口の端からボロボロと剥がれかかっていた。
宇久森が意に介した様子はない。
ただ“度の過ぎた悪戯“をした子どもを叱り付ける親のように、淡々と質問を繰り返す。
だが那緒は答えない。
ヒクヒクと震える口元を黙って見ていた。
( ああ、怒っている )
ぶるりと背筋が冷える。
逃げるように、そっと視線をズラす。
「那緒さん」
「…」
「だんまりは通用しませんよ」
「...」
こんなときばかり察しが悪い。
那緒は内心で毒づいた。
常ならば頼まずともこちらの意を汲んで、先回りするというのに。どうして今回は見逃してくれないのか。
本当は理解していて、己の馬鹿な行動を咎めるために、わざわざ懺悔まがいのことをさせようとしているのではないか。
羞恥のあまり尖った感情が声を上げる。
( 遠回しに、難解な言葉を総動員させてまるで褒め言葉みたいな形にして馬鹿にされる!それで最終的に貶したことすら有耶無耶にされるに違いないから絶対に、ぜっっっっっったいに、言いたくない! )
満面の笑みを浮かべて賛美( の言葉に聴こえる罵倒 )を浴びせる宇久森が容易に思い浮かぶ。
あれは意地の悪い性格だ。ついでに頭も良いから、那緒の疑念をスッキリ解決してくれるだろう。だがそのスッキリ感の数倍か数十倍の苛立ちが精神を襲うことは必須。
言いたくない。ホラー映画観賞後の風呂が怖いのと同じように、あの日記を読んでからの薬がめちゃくちゃ怖いなど口が裂けても言いたくない。
( そもそも、なんであんな所に日記なんて置いておくのよ!本当にいい加減にしなさいよ!小指折れてたらどうするつもりなの!? )
完全に八つ当たりだ。
エロ本を探す感覚で箱を開けてしまった自分が悪い。百も承知だが、痛みでいつもより感情が昂ってしまうのは仕方がない。
「眉間に皺をよっけても駄目ですよ」
そう顔に出てしまっても、仕方がないのだ。
「あなたの身を預かる者として、今回のことは例え那緒さんがどんなに可愛らしく愚図っても心を鬼にして聴きますからね」
可愛らしく愚図った記憶などない。
正直に日記のことを話す気はないが、宇久森の態度から下手に誤魔化せば追求が煩わしくなるのは目に見えていた。
面倒くさい。
元はといえば宇久森がソファの下に玩具を放置したことが原因であるのに、なぜわたしが悩まねばならないのか。
己の罪を谷にあげて、内心で舌を鳴らす。
背中を刺すような痛みにイライラする。対照的にだんだんと意識は鈍感になっていた。
眠い。早めに終わらせよう。
「那緒さん」
「んーと、あー実験です」
「実験」
「わたし薬と無縁なの。お金ないから買わないし、会社にも直接置いてあるわけじゃないから効果も服用期間も実際には分からなくて。薬扱ってるのにそれだとマズイじゃない?だから、ちょうどいいかなって」
「薬を服用しなかったと?」
「ええ」
「それだけのために?」
「それだけって、直接ではないけど人様に薬品を出す仕事に携わっているのよ。知っておくべきでしょう」
薬の効果を理解するために服用を控えた。
嘘ではない。風邪は気合と根性で治すもの。那緒の家には市販薬の風邪薬すら置いていない。営業のために知識だけは蓄えたが、服用体験に関しては近所の5歳児より素人といえよう。そんな自分の怠慢に気が付き、改善しようと直向きに努力した結果が今回の騒動だと那緒は柔和に伝えた。
完璧だ。あまりにも完璧ではないか。
那緒は自画自賛する。
ナイチンゲールも吃驚の献身だ、と胸を張った。素面で話したら各方面から袋叩きに合いそうな話だが、痛みで朦朧とする頭では正常な判断ができない。
だから道徳心が欠けた話を、さも真っ当な理由かのように話してしまった。要約すると「己の身体を実験台にした」となる話を、宇久森ゆうかいはん相手に。
「なるほど」
呟いた一言は暗くて重い。
笑顔すら作れなくなった顔面からは、ごっそりと感情という感情が抜け落ちていた。そのくせ目だけは熱を持ち、楽しげに三日月を描いているのだから恐ろしい。
通常の那緒が見れば震え上がっていたであろう光景だが、運の悪いことに彼女はそれをぼんやりと眺めるだけだった。
慣れない痛みに身体が限界を迎えたのだ。強制的に休止状態にしようと、脳が眠気を引き起こす。もう瞼が落ちそうだ。
「それが那緒さんには普通なのですね」
「………んえ?」
落ちかけた意識が浮上する。
反動で意味もなく発した言葉が随分ととぼけたものであったから、宇久森はより一層眼光を強めた。
不思議そうにしていると取ったのだ。
己の身体で実験してなにがいけないのか。
そんな自傷行為に近いものを、那緒がまるで当然のように出来るのだと。彼はそう解釈した。
誤解である。彼女はただ眠気と戦っているだけだ。だが指摘してくれるお助けキャラは現実には存在しない。誤解は誤解のまま解消されずに時は進む。
「言ってくださればよかったのに」
「だって、話したら止めるでしょ?」
「ええ」
「じゃあ、言うわけないじゃない」
止められるから黙っていた。しごく当たり前のことだが、この答えは誤解にさらに拍車をかけた。
「...........続けるおつもりで?」
「まさか!いまの数時間で痛み止めの重要性は体験できたから、もう絶対にしない。痛いもの、頼まれても絶対に嫌よ」
いくら薬が怖いとはいえ、この痛みを体験した後に飲まないという選択肢を那緒は取ろうとは思えない。ヤバい薬だと分かったなら話は別だが、立ち上がるだけで痛みにうめき一歩も歩けなくなるくらいなら素直に飲む。痛いのはもう嫌だった。
「本当にやらないったら。今すぐにでも飲みたいくらいなんだから」
「.....本当ですね?」
「ええ、痛くて動けやしない」
宇久森の視線が突き刺さる。
まるでこちらの真意を探ろうとするかのように、ジッと向けられた瞳を見返してやる。
この言葉に嘘などない。
だが“黙って薬を破棄した“事実は、真っ白な那緒の証言をグレーに見せた。眠気で緩んだ表情が、やけに上機嫌な様子に見えてしまうくらいには濁らせてしまう。
「……………」
「ん?」
「はぁ」
宇久森が深く息を吐いた。
観念したわけではない。これは溜飲を下げるものだ。一旦保留にするための一区切りを付けるため息。ギュッと瞑った瞳をパッと開いて気持ちを切り替えると、懐から見慣れた薬を取り出した。痛み止めだ。
「.......これっきりにして下さいね。悪化したのではないかと肝が冷えたですよ」
「ごめんなさい」
「那緒さんが思っている以上に傷は深いんです。今はもう外側の傷は塞がっていますが、痛みが取れないくらいに深くて重い。お願いですからどうか理解を、人間の身体はどうしようもなく脆いんです」
「....うん」
手を出すと薬を手のひらに置かれる。落とさないように握り込むと、その上から両手で包み込まれてしまう。
冷たい手だ。
すこしだけ目が覚める。
痛み止めを飲まなかっただけで大袈裟ではないかと思う自分がいる一方で、過剰なそれがこそばゆいと感じる自分もいた。
( ちょっとだけ嬉しいかも )
親とはこんなものだろうか。
ぼんやりとそんなことを思った。
記憶と結びつかない幻想はすぐに痛みに負けて霧散する。痛みに呻いた声に宇久森はハッとして手を離した。サイドチェアーに置かれていたペットボトルを手に取ると、蓋を開けて那緒に差し出した。
「話している場合ではありませんでしたね。すぐに飲んでください」
「ーーーーーっ」
薬の封を切って錠剤と水を口に押し込む。ゴクリと喉がなると痛みが薄れたような気になった。
痛い、眠い。
もう絶対にこんなこと止めよう。
もう一口、水を含みながら那緒は誓った。
だが、この話はこれで終わらない。
「あの、宇久森さん?」
「はい」
「いつまでそこに?」
「那緒さんがお薬を飲むまでです」
「いまもう口に入れたのに?」
「ゴクンするまでは」
「......はぁ」
あれから薬を飲むまで宇久森に見張られるようになった。薬を口に入れるところから飲み込むところまで、それはもう穴が空くほど凝視される。
よほど信用が無いらしい。
「飲むから見張らないで、多忙なんじゃないの?(要約)」
とそれとなく伝えたのだが
「むしろもっと我儘になってください!理不尽に呼びつけて罵倒するだけ罵倒してもいいし、お茶が熱すぎるからと頭からかけていただいても全然いいって言うかむしろご褒美で(要約)」
みたいなことが返って来たので諦めた。
鬱陶しい、とても鬱陶しいが自業自得なので今回は甘んじて受け入れようではないか。
コップを手に取ると水をあおった。
ゴクリと喉が鳴る様子を、宇久森が満足そうに眺めていた。
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