17話
「お昼は冷蔵庫の中にありますので、チンして食べて下さいね。食べ切れない場合はラップをして冷めてから冷蔵庫に入れて……あ、ラップはテーブルの上に置いてあります。食器はそのまま。冷たい飲み物は避けてくださいね。夕飯前には戻ってきますので、絶対に、いいですか、絶対に作ろうとしないで下さい。包丁はヒトを殺せる鋭利な凶器です」
「わたしとっくに成人してるんだよなぁ」
「おやつはプリンがありますからね」
「はい、ママ」
スーツに袖を通した美丈夫が、慌ただしく玄関に向かう。歩きながら伝えられるそれらは、出勤前の母親が幼い子どもに向けたものに近い。
小柄な女性は揶揄うように返事をする。
元気な声色とは対照的に、壁に手をついて歩く姿は生まれたての子鹿に近い。
「あ、あっ、やっぱりこんなよちよち歩きの那緒さんを残して仕事に行くなんて……無理」
「よちよち歩きって」
「立って歩いてる……ヴッ、感慨深いですね」
「成長を噛み締めないで、パパ」
「こんな可愛い娘を置いてなんで外に行かなくちゃいけないんだ!家でだってちゃんと仕事してただろ!くそっ」
「急にキレるじゃん。情緒不安定かよ」
唐突に父性を爆発させる美丈夫の背中を見下ろす。靴も履いて準備万端だというのに、こちらを見上げた彼に動く気配はない。
あとは鞄を持って玄関を開けて外に出るだけ。そう、それだけなのだが、このあと少しが妙に気怠いのを那緒はよく知っている。
なぜ、朝早く会社に行かねばならないのか。
家でも仕事は出来るではないか。
わざわざ会社に出向いて辛気臭い同僚の顔を眺めながら、威張り散らした上司の声を聞くよりも家で猫の声を聞きながら仕事をしたほうが100倍捗るのに。
鬱々と身体が重くなる感覚は、毎朝の恒例行事である。理解はしている。だが、それが可愛らしいお猫様ではなく自分に向けられるのは気持ち悪いから止めて欲しい。
那緒の顔に不快の二文字が浮かぶ。
「はぁ……しんどい。那緒さんが行ってきますのちゅ、ちゅちゅ、ちゅー(小声)とかしてくたら元気になるんですけど(大声)!」
「那緒ぉこどもだからぁむずかしいことわっかんなぁい」
「あぁぁあ!可愛いですねぇぇぇえ!!」
「宇久森きもい」
おっと、口から本音が。
これ以上駄々をこねられては困る。慌てて口をつぐみ様子を確認する。無問題だった。先程よりもグッと血色が良くなった小綺麗な顔が、キラキラとした瞳でこちらを見上げていた。
呼吸の代わりにため息が漏れる。
宇久森にとっては応援より罵倒の方が良い薬になるようだ。
「朝から良いものを頂きました……」
「噛み締めんな」
「あ、そろそろ行かなくては。楽しい時間はあっという間に過ぎて行きますね」
「もしかしてここでの会話も時間に含めてたの?怖いんだけど」
「定時には上がってダッシュで帰ってきますから、くれぐれも無理をしないで下さいね。転んだら本当に洒落にならないので」
「おばあちゃんじゃん」
「お返事をくださらないとペット用のカメラを設置して四六時中監視しますよ」
「那緒、けがにんだからおとなしくしゅる」
「はい、お願いしますね」
扉の隙間から名残惜しそうに手を振る宇久森に那緒は手を振った。
脳裏を過った( 道を塞ぐ部下を薙ぎ倒し、笑顔で会社から出て行く )姿を振り払うように手を振った。
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