16話


それが2日前の出来事である。

そのまま丸一日半ほど夢の国に滞在した那緒は、啜り泣く宇久森の声で起床した。ぼんやりと横目でそちらを見れば、ベッドの横で仕事の書類に目を通しながらポロポロと涙を流す美丈夫がひとり。


(え、こっわ!)


ホラー過ぎる光景にぱちりと目が開く。

隣の彼もこぼれ落ちそうなほど目を見開いて、何度か瞬きする。どうやら夢か現実かを測りかねているらしい。仕方がないので「床を汚すな」とジェスチャーで伝えると、ようやく理解した宇久森が書類を投げ出し駆け寄ってくる。


「な“お“ざ“あ“あ“あ“あ“ん“ん“ん“」

「待っ........ゲホッ、来んな!いま抱きつかれたら洒落にならんぎゃぁあ!?」


両手を広げて迫りくる180センチ(推定)に悲鳴をあげる。勢いがすごい。身体を襲うであろう衝撃に耐えるべく目を瞑るが、訪れたのはドンッという鈍い音だけだった。

恐る恐る目を開く。

黒い双方がこちらを見ていた。

壁に手をついたーーーいわゆる“壁ドン“と呼ばれるポーズを取った宇久森が、適正距離とは呼べない近さまで顔を近付けていた。

どうやら那緒の華奢な身体に熱い抱擁をかまそうと広げられた両手が、寸前で軌道を逸らし顔の両端に手を叩きつけたらしい。

戦々恐々と視線だけでそれを確認する。

音と大迫力の勢いにドンドコ悲鳴をあげている心臓を労るように撫でてやった。

バクバクは止まらない。


「お身体に異常は?怠いとかありませんか?気持ち悪いとか、胃がムカムカするとか、喉元が苦しい気がすると」

「この部屋で吐いたこと根に持ってる?」

「目眩がしたらすぐにバケツを持って下さいね。届かなければゴミ箱でも」

「変に否定しないところ嫌いじゃないよ」


ピンポイントすぎる体調確認に多少辟易としながらも、バケツを手繰り寄せる。

警戒するのは那緒とて同じこと。

スッキリする気持ちとは裏腹に充満する臭いと広がる昨日の夕飯。悟ったような目で介護を始めるほぼ初対面の方の慈愛のこもった薄暗い瞳、処理を手伝えない心苦しさ。その全てがあの一瞬の惨劇で引き起こされるのだ。

成人を過ぎた身で人様の前でリバースするなど、もう二度と経験したくはない。

心がもうゴリゴリと削られる。


「身体中が筋肉痛みたいに痛い」

「高熱による炎症ですね。マッサージしましょう」

「遠慮する」

「布団を捲りますよ」

「うん、ぜんぜん聴いてない」


べらりと足元の布団が捲られる。

きわどい所を触ったら殴ってやろうと身構えるが、そこは宇久森。紳士的にも膝の少し上から足首にかけてしかマッサージしなかった。服の上からというところもポイントが高い。だというのに、世話を焼いている相手が拉致軟禁してる女とは。

もう少し己のポテンシャルを活かして楽に生きればいいのに、つくづく残念なイケメンだ。


「そうだ、那緒さん。あとで必要書類にサインをいただけますか?細かいところは書いておいたので」

「必要書類?」


はて、なんのことだ。

身に覚えの無い書類は受け取ってはいけないと頭では理解しつつも、差し出されると反射的に受け取ってしまうのは日本人の性さがだろう。必要書類と言われればなおさらに。

那緒は生粋の日本人なので、例に漏れず書類を受け取った。

紙の名前は 解約通知書 。現在入居している場所から退去する際に記入する書類だ。


「……高熱で判断能力鈍ってる相手に渡すとか、本当にクズですね。尊敬しちゃいますよ」

「早い方がいいかと思いまして」

「なにか予定が?」

「そういうわけではありません。ただ僕の立ち位置が“顔のいいクズ“のままでは、書類にサインどころか警戒されて対話すらままならないでしょう?ですから“甲斐性のある世話焼きイケメン“に落ち着くまで、出すのを待っていたました。狙ったわけではありません」

「セルフで自尊心高い高いするじゃん」

「事実ですので」

「さすが国宝級、言うことが違う」


宇久森にとってイケメンという単語は、褒め言葉ではなく己を表す形容詞でしかないようだ。誇るでなく、威張るでなく、さも当然とばかりに会話に盛り込まれると関心してしまう。自己評価がエベレスト並みに高いのも呆れはするが嫌味にならない。

那緒は冷めた笑顔のまま書類を床に捨てた。

ひらひらと舞って床に落ちた書類を互いに眺めて、驚き固まる宇久森を鼻で笑う。

関心はするが感心は買えていない。

那緒の中で彼の評価は現在0のラインを平行に走っている。なんなら、高熱で判断能力が落ちた想い人(仮)に解約書類にサインを迫る今回の暴挙にマイナスに傾きかけている。

ゴクリッと唾を飲む音を耳が拾った。

きゅっと口を結んだ宇久森が、真っ赤な顔で膝をつく。鼻息荒く床に落ちた書類をそっと手に取ると、恭しくこちらに差し出した。

期待するように瞳が揺れている。

こういう意図を間違えてしまうところも、マイナスに傾く要因である。


「アッ、そ、そその目はご褒美です」

「心底気持ち悪い」


拒否する目的で落とした紙を、そういうプレイで利用するのは止めてほしい。共犯にされた気持ちになって、うわっと声が出た。手を前に出して紙の受け取りを拒絶すると、宇久森はそっとサイドチェストの上に置いた。

残念な様子はない。むしろちょっと嬉しそうに上気した頬を緩めている。

厄介なことになる。

直感的に悟った那緒は先手を取って口を開く。


「犯人が捕まるまではいるよ。話にも納得はしてる」

「でしたら、」

「でも、解約の話はまた別。あんな優良物件そう簡単に手放せない」

「長期戦になるかもしれないのに?」

「短期戦にならないって言えるの?」

「それは.......」


もし怪我が思ったよりも早く治ったら。

もし犯人がびっくりするぐらい簡単に自白したのなら。このイフが起こり晴れて軟禁生活から解放されたが、家が無いでは話にならない。貯金はあるが何日もホテルに滞在できるほど高級取りではないし、仕事だってどうなっているのか分からない。不確定要素が多い中でそう簡単に家まで失うわけにはいかない。


「さすがに3ヶ月経ったら解約するけど、それまではしない」

「正気ですか」

「正気だよ」

「こんな、こんなちょっと問答しただけで高熱に魘されてしまうか弱い那緒さんがあんなボロ屋にまた住む.....?」

「1LDK駅近、風呂トイレ別、冷暖房完備で家賃3万。大家さんも優しくて騒音被害もゼロ。都会では絶滅危惧種の我が城を“あんなボロ屋“って言わないでくれる?だいたい、背中刺されて生死を彷徨った重症患者がいままで普通にお話してたことが、健康優良児であるなによりの証明でしょ」

「うちの倉庫より狭いのに城.....?」

「無自覚金持ちムーブで殴るの止めて」

「隙間風が凄くて時々雨漏りして同居人は虫で隣人はネズミ。廃墟の間違いでは」

「意図的な煽りだったか」

「世紀末でももう少しマシな家に住みますよ。人類は」

「そっと同居人ごと人類から外すのも止めろ」


わなわなと震えながら宇久森が言う。

辛辣すぎやしないか。


「そんなにボロくないよ」

「近所の小学生たちに「やーい!お前のアパートお化け屋敷!」と揶揄われていますよね」

「初耳だよ。どこの短パン小僧だ」


まだそんなことを言う輩がいたのか、と那緒は眉間に皺を寄せる。

たびたび心霊現象の類は報告されているが、その6割は老朽化によるものだ。残りの3割は我がアパートを心霊スポット扱いして馬鹿騒ぎする若者たちによるもので、どれも人間の手によるものだった。幽霊の仕業ではない。


「外装がお化け屋敷なのは否定しないけど、内装はリフォーム済みだから綺麗だし、虫やネズミとは同居していないし、雨漏りも隙間風も無いから」


事実無根です、と手でバッテンを作る。


「ここと比べたら狭いけど、都会で家賃をケチったらワンルームは当たり前」

「だとしても、女性があんなセキュリティの欠けらも無い部屋で一夜を明かすなんて反対です!」

「一夜どころか何夜も明かしてるけど」

「それは那緒さんの特が高過ぎるが故です!五体満足なのは奇跡ですよ!奇跡!」


都会のワンルームに住む人間は、一夜で四肢をもがれるとでも思っているのだろうか。だとすればそれは酷い偏見だ。今すぐに認識を改めてもらいたい。都会は夜な夜なモンスターが徘徊するようなバイオレンスな土地ではない。


「鍵は3つ付いてるし、室内インターホンも監視カメラ付いてるから平気だって」

「宅配ボックスは?」

「無いけど」

「宅配業者を装った不埒物に家に押し入られたらどうするつもりですか!?」

「チェーンがある」

「ちゃんと掛けてから出ていますか?面倒だからとそのまま扉を開けることは?」

「そ、そんなことは.....」

「.............」

「...........たまに」

「ほら!だいたい、那緒さんのお部屋は二階。おひとりで歩行も満足にできないのに、階段を登るなんて無理でしょう!」

「わたしは要介護者かな」

「同じようなものです」


確かに腰は痛む。

歩行どころか足に体重をかけるだけで、痛みが走りふらつくため補助は必須だ。全身が思うように動かない。トイレに行くだけで息が切れてやるせない気持ちにもなる。

とはいえ、痛みはそう長引くものではない。

1ヶ月もあれば、元にとはいかずとも歩行に問題ないレベルに戻っているだろう。

だから二階だからは説得の材料にならない、と宇久森に伝える。

彼がむむっと眉を寄せる。


「僕の…. 甲斐性のある世話焼きイケメンである僕のなにが不満なのですか!」

「そういうところだね」


自己肯定感が成層圏を突破した人間に憧れることはあっても、身近な存在になろうとは思わない。

宇久森 真は観賞用だ。

遠く遠くで「あ、今日も楽しく生きているな」と眺めて己も逞しく生きようと思う存在であって、決して気軽に話せるお友達になりたいわけではない。


「馬車馬のように働いて得た賃金を湯水の如く使われ、帰宅と共に舌打ちされながらも那緒さんの使った食器や衣服を片付ける毎日を送るのが夢なのです!どうか!どうか!」

「奴隷根性が染みつきじゃない?」

「僕は那緒さんの下僕ですから」

「非公認です」

「公式が冷たい」

「もっと自由に生きた方がいいと思う。わたしがいなくても.....いや、わたしが居ない方が宇久森さんは幸せになれるよ」

「優しいように見せかけて1番残酷なフリ方でお別れを告げないで下さい」


泣きますよ。ぐちゃっと顔をしかめた宇久森が血を吐くような声で言う。


「ちょっとお部屋でのんびりして下さるだけでいいんです。生きているだけで100点満点、那緒さんと同じ空気を吸うだけでGNPが上昇し地球温暖化が改善されていくのでお世話させてください!」

「やっぱり精密検査受けた方がいいって」

「この部屋に来てから実害ありましたか?」

「拉致、軟禁、盗撮、虚言に....」

「保護です!保護!」


宇久森の犯した罪を指折り数えていく。

ひとつでそれなりに罪が重いそれらを、改めて言葉にすると目の前の変態が世間一般でいう凶悪犯に見えるのだから面白い。

床に正座しベッドの端に顔を埋めて、おんおんと泣く彼のつむじを見下ろす。

無断で手枷をはめておいて自覚が無いとは恐ろしい。


(まぁ、害かって言われると微妙なんだよね)


出不精の那緒は数ヶ月外には出られなくとも、特に不便に思うことは無い。金銭的に逼迫しているのは常であるから、散財欲も皆無だ。盗撮も虚言も、困ったものだが害かと言われると即答できない。


「他に実害か......ご飯が美味しいとか?」


首を傾げた那緒が答える。

そもそも、那緒の生活基準は低い。底辺とは言わずとも一般的な水準からかなり下にある。性処理を含めた暴行や、金銭的要求が無いだけでぬるま湯だと感じられるほどに。

だから「実害が」と聞かれたら答えは否。

2次元もびっくりな高スペック男子に甲斐甲斐しく世話をされる日常は、たとえ相手がタマでも握られているのかと疑いたくなるレベルの奴隷根性の持ち主であってもご褒美なのでは、と思ってすらいる。


「間食とか滅多にできないけど、毎日美味しいの出してくれるし。あ、かさ増ししてないお肉とお魚なんて、数年ぶりに食べたかもしれない」

「んっ......?」

「ウォーターサーバーからお水飲んだの家では初めてだった。家も全体的に部屋も備品も広くて大きいし、空気清浄機と加湿器あるから温度計見て気を使わなくていいでしょ」

「ん.......!?」


学生時代に拠点にしていたアパートはそれはそれは酷かった。大家は一見人当たりが良さそうな初老の女性であったが、周りに有ること無いこと吹き込む悪癖を持っていた。

加えてボケているのか病院と間違えて昼夜問わず電話をかけてきたり、郵便受けにネズミの死骸を入れたりと迷惑な人で家の具合と相まって辟易としたものだ。


「壁がベトベトしてないから、埃が張り付いて掃除が大変なんてこともない。歩いても床は軋まないし、水道から変な音が聞こえたり、水流してもつまらないし」

「な、那緒さん?」

「虫が出ないのが1番良いかも。安い建物だと、手抜き工事のせいで間取りがおかしかったり、あっちこっち隙間があって虫が凄いんだよね」

「嘘でしょう」

「ドアスコープもチェーンもあるし、防音しっかりしてるから工事の音とか聞こえないし、部屋の中の声も漏れないし」

「まって、ちょっとまってください」


その点、宇久森宅は素晴らしい。

確かに今の拠点は前の賃貸の半分の家賃で、室内も大家も高クオリティで手放す気はないが、お金の掛けたかが違う。

拉致され強制的に部屋に軟禁される形でなければ、喜んで招待に応じただろう。

加えて相手はイケメンだ。

たとえ中身が粘着質なストーカー体質の変態野郎でも、外見は国宝級なので丁寧であれば那緒とて頷いただろう。さまざまな保険をかけたうえではあるが。


「ロフトあるけど柵が無いから使えないうえに、階段が登らせる気の無い作りになってたりとかしないし」

「だんだん苦しくなってきました」

「夏場なのに2時間しか日が当たらなかったりとかもしないでしょ?」

「引っ越し、引っ越ししましょう….?」

「え、やだ」

「ど“う“じ“で“」

「だってそれは前の家での話だし、今は大家さんにも内装にも恵まれてるもの」

「…………あれで?」


那緒の口から語られる劣悪な環境に、生まれた瞬間から高い生活水準で生活をしていた宇久森は胸を押さえていた。精神的なダメージにより体力がガンガン削られる。

恵まれていると那緒は言った。

前の家に比べれば、現在の拠点か数段マシになったのは明らかだった。だが足りない。宇久森からすれば今の家とてぜんぜん、まったく、これっぽっちも恵まれた環境には思えなかった。

良い暮らしさせなければならない。

宇久森は身の上話の間に爆上がりした庇護欲と、使命感に燃えた。

この女性を良い家で美味しいご飯を食べさせて、ストレスとは無縁な生活をさせなければならない衝動に駆られた。そうなる権利があると。宇久森は硬く拳を握りしめる。


「僕が、幸せにします!」

「だから元の生活に戻るときに色々肥えてそうだから困るって話で........え、幸せに?どっからそんな話になった?」

「もう全身全霊で幸せにしますから、だから、この書類にサインをお願いします!」

「ははは、こいつ諦めないな」


那緒は差し出された解約通知書を破いた。





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