18話


さて、なぜこうして那緒が宇久森を朝から見送るはめになっているのか。

ことの発端は宇久森のパソコンに届いた1通のメールだった。解約通知書に記入するしないで問答していたふたりのもとに、ポンッとやってきたメールは宇久森を震撼させた。

内容は簡単に要約すると「会社に来い」という出社の催促。

唐突に発生した外出クエストに、那緒は両手を上げて喜んだ。対照的に宇久森の気分は目に見えて下がった。

マウスをギリギリと言わせながら、液晶画面を睨め付ける宇久森の顔は生涯忘れられないだろう。


「.........っ!んんぐっ........!」


宇久森の気分は働いた金を那緒に貢げる幸福と、那緒から離れなければならない絶望でジェットコースターのように上下していたが、冒頭通り朝になると折り合いがついたのか玄関先で駄々をこねたが無事に出掛けていった。

カシャン、ガシャン、ガチャ、ガチャガチャ、パチン、カチ。


「いや、鍵の数多いな」


内鍵だけじゃなくて外鍵まであるだろう。

頬を引き攣らせるが、遠のいて行く足音に肩の力が抜けて行く。

すぅと息を深く深く吸って、吐き出した。


「あぁぁ……自由だわ」


基本的に那緒は自由だ。

手枷はあるが行動を制限されることはない。家の中を歩き回ってもされるのは心配ばかりで、文句などひとつも飛んでこない。

だが、真の意味で自由かという答えはNOだ。他人の存在は良くも悪くも気を使う。どうにも心は休まらないでいた。

それが唐突に解決した。

ふっと湧いた幸福を那緒は噛み締める。

プルプルと限界を告げるように震え始めた足を引きずって、ふらふらとキッチンに向かう。しがみつく様に冷蔵庫を開ける。オレンジジュースを取り出してコップに注いだ。その場で一口。


「ああぁぁ.......お高いオレンジの味」


昼間から酒を飲むような背徳感。口内に広がる甘酸っぱさに、思わずくぅーと喉から声が漏れ出す。口の端をペロリと舐める。

てこてこと危なげな足取りでソファに近付きゆっくりゆっくり腰を下ろす。ゆるゆると脱力し両手足をソファに投げ出し、またオレンジジュースを一口。

美味しい。

ほくそ笑んで、お終い。

動く気配はない。コップを握る手には相変わらず無骨なベルトが巻き付き、身動きするたびにチャラチャラと金属音が鳴る。視界に入っていないわけではないのに、那緒は手枷を外す素振りを見せない。

それどころか、宇久森不在という絶好のチャンスにアクションを起こす気配すら無い。

親を見送った夏休みの子どものように、リビングでのんべんだらりと自由を堪能するしている。

脱出を諦めてしまったのか。

いや、そうではない。

では宇久森の「保護」を完全に信じたのか。

そんなわけがない。複数犯の可能性を否定しないだけで、半分はしっかりと疑っている。

ではなぜ動かないのか。

那緒は監視カメラの存在を疑っていた。


( 犯人不在の間に脱出を試みた主人公だけど、実は監視カメラで動向を確認されていて扉の前で捕獲。監禁が重くなるっていうのが映画とかでは常識だけど......)


嘲笑うように扉の前で待機する犯人の顔を思い出す。配役がピッタリ過ぎて、ゾワリと背中が寒くなる。誰もいないのについ後ろを振り返ってしまった。

良かった、誰もいない。

ほっと息を吐いてソファに身体を沈める。

宇久森は枷を増やしたりはしないだろう。那緒の身体に負担をかける行為を極端に嫌っているから、監禁に切り替えるとも思えない。

だがなにかしらのペナルティは発生する。この生活はそれぐらいリスキーなものだ。彼が理解していないはずがない。


( 脱出するなら万全の状態で確実に。元気に走り回れるようになってからが本番 )


いまやるべきことはそれじゃない。

言い聞かせるように胸に手を当て、窓から視線を逸らす。無策のまま行動して難易度が上がれば、出られるものも出られなくなる。

ふぅ、と息を吐いた。

いま那緒が取るべきは行動は、情報の精査•収集•更新。身体の準備が整ったときのための準備。宇久森からもらった情報の真偽を見極めるために、身近な物ーーテレビから情報を得ることだ。

リモコンを手に取る。コップに口をつけると、片手でリモコンの電源ボタンを押した。


ピッ。


『みんなぁあ!ねずみのキューたんと一緒に歌ってぇぇぇえ踊ろう!』

『きゃー!』

「んぶっ!?」


元気な掛け声。45インチテレビいっぱいに映し出されたファンシーな空間に、たまらずオレンジジュースを吹き出した。

咽せる那緒を他所に、画面の向こうではネズミの着ぐるみがコミカルなリズムに合わせてステップを踏んでいる。蜂や蝶々の格好をした子どもたちがその周りで揺れたり、踊ったりと動き回って楽しそうだ。


「ゲホッ!あっ.......鼻にはいった」


痛みで鼻を押さえる。

唐突に与えられた衝撃に鼻も腰も痛いが、じわじわ込み上げてくる感情に口角が上がる。

テレビは消したときに見ていたチャンネルを次に電源を入れたときに表示する仕組みだ。つまりはそういうこと。


「うっそ、あの顔でキューたんに手を振ってたら絶対に笑う!ふはっ!ギャップとかそういうのじゃ片付けられないぞ。え、無理なんだけど.....ひっ、顔見たら思い出して吹き出しそう.....」


那緒はそっと目を閉じる。

仕事をしながら教育番組を眺める宇久森の虚像が、脳内で再現されて吹き出す。無理だ。記憶から消去するにはあまりにもインパクトが強い。国民的キャラクターを無表情で罵倒できそうなのに、実は可愛いものが好きとは。


「あはっ、可愛いとこあるじゃん。良かった良かった」


那緒以外に関心が向いている。

それは彼女にとって安心材料になる。執着するモノが複数あるならば、それだけ手を離してもらえる確率が上がるからだ。


( これでわたし以外に向けば完璧なんだけどな )


あの異常過ぎる執着心は良識のある素敵な他人だれかに向けるべきだ。早々に手を離して、見返りを求められる相手に。どうか、どうか、わたし以外の誰かに。


那緒は知らない。彼が教育番組を見始めた理由が“那緒に健康的で美味しい料理を食べさせること“であることを。子ども向け番組を無表情で眺めるどころか、このテレビが設置されたまま那緒が来るまで稼働していなかったことを。そもそもテレビを購入した目的は、那緒がテレビっ子であるからだということを。


「あ、キューたん」


ファンシーなネズミのキャラクターを無邪気な瞳で眺める彼女だけが、宇久森の執着心の濃度に気付かない。



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