14話



「.......わたしが生きてること、犯人は」

「伝えていません」

「ニュースでも....?」

「はい。那緒さんは死亡したことになっていますのでご安心を」

「え」


笑顔だった。

冷水をバケツで頭にぶっかけられたみたいな衝撃が那緒を襲った。暑いと言ったからかけた、みたいなまるで配慮の無い強烈な一撃に目眩がする。

着替え用の服が無いとか、風邪をひくとか、そんな考えは宇久森には無い。こちらの都合に全く目を向けていないそれーー彼から言わせれば善意とやらのせいで那緒は死んだらしい。


「安全確保のために動機の確認は必須項目。ですが、未だ目処は立っていません」


宇久森曰く、警察は被害者である那緒に無理やり面会し情報を引き出そうとしていた。犯人の目的も人数も分からない状態で不特定多数の人間に出入りされるのは危険なので自宅で保護したが、姿を隠した方が今後の生活の安全性が増すと判断。

結果、那緒を殺すことにした。

伝えられる事後報告を脳は勝手に理解するが、心は目を逸らしていた。正当化される殺人をふわふわする意識で聞き流していく。


「.........どこまで」

「はい?」

「死亡ってどこまで」

「ああ、表向きだけです。あくまでも便宜上ですので、死亡届などは出されていません」


カラカラに乾いた喉からどうにか絞り出した一言が、楽しげな声とぶつかって砕けた。

宇久森は那緒の怯えを正しく理解しているように思えた。そのうえで、足元に広がるそれを土足で踏みつけていく。

カラカラと笑いながら。


「マスコミの力を借りて居場所を探られると厄介なので、世間の目を誤魔化すために情報を流しました」

「テレビでは、流れてるってこと?」

「はい」


ガシャン


「その後のこととか考えなかった?」

「そのあと?」

「職場のこととか、わたしの借りてる家がどうなるとか、そういう、当たり前のこと」

「もちろんです!だからここに那緒さんを招きました」


ガシャン


「……だから?」

「ここは那緒さんと住むために用意したものです。万が一、犯人が吐かなかった場合は長期戦になりますから、衣食住に困らず快適に過ごせる整った場所が必要になる。準備中とはいえ、ここはそれに1番近い形ですから」

「それは、それはつまり、最悪の場合はこの家からわたしは出られないってこと?」

「お一人では無理かと」


ガシャン

踏まれた。踏まれて、踏まれて踏まれて、

粉々になっていく。原型が無くなるほど砕かれ、砂と化したそれを那緒は両の手で掬い上げた。手のひら、指、指先、指の間。破片が刺さって血だらけになっていく。ぼたぼたと血が滴り落ちていくのを呆然と眺める。

善意と名のつくモノの大半が碌でもない代物だと理解はしていたが、ここまで酷いとは思ってもいなかった。

彼には目的しか見えていない。

たった一つ“那緒を生かす“ことしか頭に無い。その過程で那緒が築いてきた生活が再起不能なほど壊れても、それが原因で精神的に病んでも、心臓が動いてさえいればおそらく宇久森の目的は達成される。


(わたしがまるで見えてない)


独りよがり。

あまりに自分勝手な振る舞いに言葉が出ない。好意を示す一方でおおよそ想い人にする行為ではない暴挙の数々は、最善ではあるが最良では無い。ロボットが導き出した感情を伴わない最適解。間違っても愛する人間に向けるべきものではないはずだ。


(壊れてる。破綻してるよ、わたしも他人ひとのことは言えないけど、それ以上だ)


彼は生涯足元に広がる残骸に気付くことすらできないだろう。破片たちが那緒にとってどれほど大事な物であっても、ゴミとしてしか目に映らない。


「.....最初から出す気は無かったわけね」


にこりとあの胡散臭い笑みを浮かべるだけで、宇久森は答えない。

それが答えだった。


「.......あんたやっぱりオカシイよ」

「そうですね」

「自覚がおありで」

「はい、それはもちろん。最初は.....そうですね。マシなように見えていたと思いますが、那緒さんと出会ってからは着々と」


狂いましたとも。


「もうずっと、ええ、あの喫茶店で那緒さんが僕の価値観を変えてくださったあの瞬間から、那緒さんしか見えないのです。どこにいても、なにをしていても」


ひりつくような視線が絡みつく。

盲信的な濁った瞳が那緒を捉えて離さない。施設で見慣れたそれよりも色濃いくせに、不思議と不快だとは思わなかった。

気持ち悪いし、痛いほど激しくて遠慮したくなる感情だが嫌悪感はあまりない。

慣れてしまったらしい。

彼の愛は純愛とはいかないが、肉欲の色が薄い。手段として用いることはあっても、性行為を主軸に置いていないから吐き気を催すような嫌悪を抱くことはないのだろう。

いやだけど、気持ち悪いけど、慣れてしまえる。毒されているな、と思った。


「正直、心配なんです。那緒さんから目を離すのが、とてもとても心配でならない。もう成人だから独り立ちした大人だからと己を律し、少し目を離した隙にこれです。僕の唯一はカゲロウより脆くて儚い」


トントンと宇久森がベットを指で叩く。

怪我を通して犯人の顔を思い浮かべているのか、那緒に向けられるものにしては視線が鋭い。

だがそれも一瞬だ。

外された視線は指と一緒に足へと移る。

長い指が那緒の足首に添えられた。


「ねぇ、いい機会だとは思いませんか」


足首を一周するように人差し指でなぞると、今度はゆっくりと一本一本見せつけるように指を折った。

中指、人差し指、親指。

足首を柔い力で握られる。


「この世界があなたにとって、どれほど危険であるかは身をもって理解できたはずです。その危険性が今も高まっていることも」


伏せられた長い睫毛で瞳を見ることは叶わないが、きっとドロドロと濁った色をしているのだろう。


「一緒に住みましょう」


とびきり甘い声色で宇久森が囁く。


「お金の心配はありません。ああ、家政婦ではありませんよ?家事はすべて僕がやります。外出には制限は付きますが、買い物はネットでもできますし、僕と一緒であれば何処へでも行けます」


顔を出した黒真珠はやけにキラキラと那緒を写した。


「ねぇ、那緒さん。

悪い話ではないでしょう」


嘘の見えない甘言。

舌が痺れるほど強い甘さだが、那緒の心は無意識にそれを欲していた。例えそれがどんなに破綻していると知っていても。悪意が無いとなればなおさらに。

家にいて欲しいのは宇久森の願望だが、囲ったのは傷付けられるという行為から逃がすため。心の底から那緒の安全に配慮しての強硬手段。

彼は那緒を守ってくれるだろう。

短い付き合いだがそれくらいは分かる。

でもなぜ、どうして、わからない。身体目当てじゃない、お金欲しさでもない。たかだか数年の血の繋がりも無い小娘相手に、勝手に恩を感じて守ろうとする宇久森が理解できない。詭弁だ。なにかしらの裏があって己を誑し込もうと画策している。

そう、疑っていたい。

だから、だからそんな目で見ないでくれ。


「……して」

「はい」

「どうして、ここまでするの?」

「僕がそうしたいからです」

「価値なんて無いよ。なんにも無いの。持ってない」


富、名声、力。この世界で価値があると判断されるそれらを那緒は持っていない。歯を食いしばって弱者と呼ばれる地位から這い上がったが、過去を知れば手にした地位すら軽く見られてしまう。

“可哀想“そんな言葉に括られて、正当とされる評価を貰えたことは無い。卑下されることすらあった。血縁者がいないだけで軽んじてもいいと判断され都合よく使おうと汚い手を伸ばす奴は五万といた。

そういう場所に那緒は立っている。

宇久森とは対極の位置に立っているのだ。彼はそれを全て暴いた上で手を伸ばす。何度も何度も。どうして。


「持ってないんだよ…」


那緒たちが歩く道は細い薄氷だ。その下では欲深くて醜い化物たちが、落ちてくるのを今か今かと涎を垂らして待っている。期待した者から足を掴まれた。希望を抱いた者から足を滑らせた。優しい者は差し伸べた手を掴まれて、引き摺り落とされていく。

薄情でなくては生きられない。常に他者を疑い深入りすることを避けることで、初めて周りと同じでいられる。

だから怖い。信じたくない。信用させないで。わたしは下に落ちたくない。


「誰か愛するのには価値が必要だと?」

「そうよ。価値....メリットが無いと。無償の愛なんてあなただって信じていないでしょ」

「ええ、そうですね」

「なら」

「ですがそれは那緒さんには関係の無いことでしょう。こんなに魅力的な方は人生で一度も.......ん?もしや、ご自身に価値が無いと仰ってます?」

「だからそんなもの無いって」

「あれだけお伝えしたのにまだ?」


乾いた声が宇久森の口から漏れる。呆れたような嘲笑。鼻で笑われたことに驚いて顔をあげる。

真顔だった。

那緒の視線に気付いたのか、感情の乗っていない顔を片手で覆う。頷いて、深く深く息を吐く。激情のまま那緒に詰め寄らないためだ。どうしようも無い感情を吐いて逃すが、それも一時凌ぎ。すぐに腹の底で湧いて煮立ってしまう。

吐き出すほか無いらしい。

宇久森は気が短いたちではない。

瞬きの間に吐き出すことに決めてしまう。


「やり方を変えます。穏便に済ませるつもりでしたが、この際仕方ありません。那緒さんの自尊心がゴミカスレベルなので長期戦になることは覚悟のうえでしたが、まさかまさかここまでとは。ええ、読み間違えた僕のミスですから、那緒さんは悪くありませんよ。本当に。でも.......仕方ありませんよね」


ん“ん“と咳払い。

ゆらゆらと揺れる那緒の瞳に視線を合わせて、とてもそう苛立ったように笑った。

初めて見る顔だ。

そっと両の手の指を付けて、宇久森が口を開く。


「那緒さん、実は僕たち付き合っています」

「……?」

「付き合っています」

「つきあっています?」

「恋人です」

「コイビト」


つきあっています。こいびとです。

上手く言葉が咀嚼できずに脳の中で言葉が反復する。

突き合っています。鯉人です。

脈絡のない単語だ。冷静な自分が鯉を突き回す怪しい集団への加入など、このタイミングでするわけがないだろうとそれを蹴飛ばす。

ではなにか、付き合っていますだ。恋人ですだ。誰と誰が。ここには己と宇久森しかいない。つまりはそういうことである。


「は?」

「世間一般で言うような関係ではありませんでしたが、確かに恋人関係です。AもBもCも残念ながら未経験ですが、精神的な繋がりを重視する間柄なので問題はありませんでしたよ。ええ、もちろんこれからも」

「え、あの」

「ですが、那緒さんが次に進みたいと仰るのであれば僕としてもやぶさかではありません。むしろ積極的に交流できたら嬉しいですし、肉体的にも精神的にも経済的にも身を任せて下さればなんて思ってますよ!」

「ちょっと」

「ああ、証拠ですよね」


お待ちくださいと、宇久森がスマホを取り出す。言われるがままに画面を覗き込む。写真のフォルダーからひとつの動画を選択すると、音量を上げてから再生ボタンを押した。

誰かの太ももが映る。


『那緒さん』

『...........』


宇久森の声だ。

ゆっくりとカメラが上を向く。するとそこにはコクリと眠たそうに船を漕ぐ那緒がいた。


『結婚を前提に付き合ってくれませんか?』


こくりとまた那緒が船を漕ぐ。


『ありがとうございます!!』


宇久森の嬉しそうな声が入って動画は終わる。信じられない気持ちで那緒はスマホから顔を上げた。

絶句した。


「..........」

「どうです」

「どうです??」

「お付き合いしている証拠です」

「これが承諾の証拠になると?」

「はい」

「本気で言ってます?」

「はい」

「わたし、わたしこれ、寝てますよね?」

「うとうとはなさってますね」

「眠すぎて頭がガクッと落ちた瞬間狙って告白して頷かせた動画にしか見えませんが」

「ええ、まあ」

「嘘でしょ」

「本当です」

「詐欺じゃん」

「詐欺の定義は他人を騙して陥れる行為ですので、僕は当てはまりません」

「それを屁理屈って言うんだよ」

「僕は狡いですか?」

「狡猾だね」

「こんな小狡い手を使ってでも手に入れたい女性に価値が無いと思いますか?」

「え、そこに繋がるの」

「そういう話しでしたよ。最初から」


意味がわからない。

分からない、理解が及ばない。相対性理論並の難問の答えを道端で急に求められたような突飛過ぎる現状に、脳が処理落ちする。

まさかシリアス展開を変態の苛烈で激重で常軌を逸した思想でぶん殴って来るとは、さすがの那緒にも予想できなかった。

なるほどたしかに穏便ではない。

無防備な状態から顎に向けて放たれたアッパーカットは見事に那緒の可愛らしい脳を揺さぶり、判断を誤った脳みそが先程ぐだくだと悩んでいた内容を不要と判断。まとめて頭の片隅にすっ飛ばした。

再起動した那緒に残ったのは倦怠感と、徹夜明けのような真っ白な思考だけ。


(……人間って許容量以上の質量で殴られると、考え事とかどうでも良くなるのね)


映りの悪くなったブラウン菅テレビみたい。

やけにクリアになった視界で思う。

そういえば、人間の脳みそは案外軟くて叩かれただけで血管が切れたら死ぬらしい。それなら、そんなに軟くて脆いならば、こんな正解の見えないことに頭を使っていたらそれこそ壊れてしまうに違いない。

ぼんやりとそんなことを考えた。

どうにか頭の中に残った最初の目的を手繰り寄せて、那緒は瞼を下ろす。


( なんか、考えるのが馬鹿らしくなってきた。脱出、もう脱出のことだけ考えよう。他はいいや )


独りよがりがなんだ。

最初から彼の独断専行だったではないか。

思考がなんだ。

拾ったちょうどいい太さの棒切れが子どもには聖剣に見えるのに、大人には邪魔な棒切れにしか見えないことと同じだ。価値はヒトによって違う。色も値段も変わる。だから初めから価値があると判断できない時点で、彼の思考など理解できるはずが無かったのだ。そうだ、そう言うことにしておこう。


( ここまでわたしに固執してるんだから、急に殺されたりはしないよ。たぶん )


那緒は元来そう深く考えるタチではない。警戒心は小動物並だが、緊急事態でもない限り楽観的で行き当たりばったりな性格をしている。

つまりはそう、あまり頭が良くない。

日頃必要最低限にしか回さない脳みそを酷使し続けて、那緒は疲れていたのだ。怪我のせいで熱も出ていた。思考を放棄してしまっても仕方がなかったと言えよう。

だから正直に応えた。


「よく分からない」

「世間一般では価値があると言うんですよ」


笑顔で頷く宇久森に、那緒はへぇとやる気のない声で応えた。

今夜は、夢も見ないで眠れそうだ。




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