12話
「あの日、あの時、あの男は那緒さんが彼処に行くことを知っていました。那緒さんだと分かったうえで刺したんです」
無差別殺傷事件なんかじゃないんです。
苦しげに宇久森が呻く。
「は?」
上手く咀嚼出来なかったそれは、意味がわからないまま部屋に落ちて広がった。那緒を飲み込もうと足元をじわじわと満たしていく。
ハクッと口が動いた。
「......あ、く趣味。冗談も大概にして、じゃないと本気で怒るから」
「冗談なんていいません」
「引き止める理由が無いからって、嘘つかなくていいよ。どっちにしろ出て行くから」
「嘘ではなくて」
「嘘よ。だって新聞にだって」
「“痴情のもつれの線で調べを進める“とあったはずですが?」
「だからよ。あんなデタラメ書くのは、なんにも接点が見つからなかったからでしょ」
吐き捨てるように那緒は言う。
今朝の新聞に書かれていたことを思い出す。
小さな見出しにあったのは、どれもかれもが憶測の域を出ないデタラメが並んでいた。
那緒と男は初対面だ。
あの日、あの時、あの場所で那緒は初めてあの男と顔を合わせた。血溜まりに沈み霞んだ視界の中で、己を刺した男を初めて認識したのだ。怨恨、ましてや痴情のもつれなどあるはずがない。
勝手にこじつけて馬鹿みたい、と首を振る。
だが宇久森はこの冗談を引っ込めなかった。
「そういうの、もういいって。どんな理由があってもわたしはここに残るつもりはないから、下手な嘘とか逆効果だから止めて」
未だ繋がれたままの片腕を払う。
どうせ新聞の記事を見て引き止める理由に使えると判断しのだろう、とあたりをつけて。
震える身体を落ち着けようと深く息を吐く。
ビクリッと宇久森は肩を震わせたが、撤回するつもりはないのか口を開かない。
意固地になっているのかもしれない。
それとも怒られるのが怖いのだろうか。
「いま、冗談だって認めれば怒らないよ」
「………………」
ぶんぶんと宇久森が首を振る。
どうやら、撤回するつもりはないらしい。
那緒はそう、と呟くと扉の方を指さした。
「出てって」
「……………」
「怪我の手当をしてくれたことには感謝してるの。だからあんまり怒鳴りたくない」
「………………」
はぁ、とまた溜息が漏れる。
現在進行形で世話をしてくれる命の恩人に当たり散らしたくなどないのだが、宇久森はその場から動こうとはしなかった。
長嘆息。頭を掻きむしりたい衝動を目を瞑ってやり過ごす。間を置いて、口を開く。
「………名前も知らないのよ」
「はい」
「見たわ。刺されたけど、ちゃんと見た。知らない、あんな奴をわたしは知らない」
「知っています」
「なら、」
「それでも、向こうは知っていた。一方的に知られていたんです」
「........」
ありえない話ではない。
認知も好意も殺意も身勝手だが一方的に抱かれることはある。現にこの家に閉じ込められて初めて那緒は宇久森を認知したが、彼の方は大学時代から自分より那緒を知って.....いや、おおむね熟知していた。
とはいえ、だからなんだというのだ。
「根拠は」
「え」
「犯人がわたしを知っていたとして、ピンポイントで狙われた理由にはならないよね。だから、そう思った根拠を出して」
嘘をついてまで執着する意味は分からないが、きっと責め立てたとしても宇久森はそれを認めないだろう。頑固だから。
それならば、と那緒はこのふざけた話しに乗ることにした。頭から信じるつもりは無いが、多少誇張されたとしても犯人について知れれば御の字と考えたのだ。
それに、と顎を叩く。
( 彼は猫を手放せるヒトか見極めなくちゃ )
善人か悪人か天秤は未だ傾きつつも、完全に悪人の枠を出たわけではない。感謝はしている。でもそれ以上にストレスを感じていた。どっち付かずな現状にも、満足に己の置かれた状態を確認できない情報の少なさにも。
( これはいい機会だったかも )
戸惑うような彼を那緒は静かに見下ろす。
この際、彼がどちらであろうと構わない。欲しいのは判断に必要な情報だけだ。
「答えて」
「……………」
促すように声をかけた。
返答はない。
突っ込まれると思わず理由を考えていなかったのか。那緒はいちど目を細める。
だが、それにしては様子がおかしいことにすぐに気が付いた。何度も口を開いて閉じる姿はまるで、事実をどう伝えたらいいのか考えあぐねているように見える。
「宇久森さん?」
視線はよろよろと床を彷徨っている。
こちらに気を使っているのだろうか。
「どうして隠すの?」
宇久森は答えない。
声に反応して顔を上げたが、目があった途端にビャッと肩を揺らしてすぐに下を向いてしまう。小動物か。
「ねぇ、知らない方が怖いのよ」
責め立てるような口調で言った。
このままでは埒が明かないと思ったのだ。
ブルーブラックがちらりと見上げている。那緒は続けて今度は諭すように話し始めた。
「完全な無知は罪だけど、不完全な無知は恐怖よ。中途半端に知っているからこそ、想像できうる最悪の未来を予想して怯えるの。もしそのときが来ても対応できるようにね」
だから途中で話を止めるな。こちとら推理ゲームで遊んでいるわけじゃないのだから、情報を小出しにするな。遠回しに圧をかける。
すると宇久森はきゅぅっと唇を結んでから、ぱっと口を開いて「写真が」と言った。
どうやら観念したようだ。
「写真が?」
「写真があったのです。那緒さんの」
「それはさっき聴いたけど」
「いいえ、いいえ、僕ではありません。僕のでは、無いです。あの写真は僕のものでは」
まとまりの無い返答に那緒は首を傾げた。
簡潔に、と告げれば宇久森が弱々しく頷く。深呼吸して、再び口を開く。
「犯人が写真を持っていました。那緒さんの写真です」
「へぇ、写真を..............は?」
「それからスマホの履歴を調べたところ那緒さんの務める会社と取引先の名前と場所が出てきました」
「お、おぅ?」
「出退時間・行動範囲などもかなり詳細に記されていたので計画的な犯行だと」
「まてまてまて」
先程の拙い様子は演技だったのか、と疑いたくなるような早口に待ったをかける。感情を削ぎ落としたような淡々とした口調で開示される内容は恐ろしいはずなのに、アクセルを踏み込み急発進した宇久森のせいで感情が置いていかれてしまう。
宇久森さん、宇久森さんと名前を呼びながら肩を押さえてやった。
途中で「あ、これ興奮した犬を落ち着ける方法だわ」と思ったが、大差ないかと思い直して続ける。
宇久森は落ち着きを取り戻した。
「一個ずついこう。まず写真が発見された」
「.......はい」
「宇久森さんの私物が流失したと」
「一も二もなく疑うじゃないですか」
だから言いたくなかったんです、と宇久森がしわくちゃな電気ネズミみたいな顔で項垂れる。学生時代からの追っかけですと先刻告白されたばかりだ。疑うのは至極当然で、写真の流失を防ぐために手を尽くしていたとなればなおさら。
「僕はしっかりと管理しています!無くなった写真は一枚もありません!」
「言い切れるのはなんで?」
「写真を保管する前に左端に番号を振っているからです。スマホの写真にも、現像した写真にも!」
「用意周到過ぎて怪しい」
「那緒さんが簡単に盗撮されるからじゃないですか」
「あなたも盗撮犯のひとりだからね?」
自分は正規の写真家です、と言わんばかりの顔でジッとりと那緒を見る宇久森にそう返す。
自分以外が撮った盗撮写真を回収することに青春の一部を捧げていた彼ならば、見分ける目的で日常的にナンバリングしていても不思議はないが、はたして。
「写真、あー犯人が持ってた写真は?あるなら見せてほしいんだけど」
「これです」
宇久森がスマホを取り出す。
そこには一枚の写真が写っていた。スーツを着て誰かと連絡を取っている那緒の姿。日常のなにげないワンシーンを切り取ったそれは、もちろん覚えのないものだ。
(本当に宇久森さん以外にいたんだな....)
居る、とは聞いていたが実際目にすると実感が湧いてくる。気持ち悪いと内心思いつつ、那緒は写真を指で広げて大きくする。
写真の左端を確認する。
たしかにそこには数字らしきものは無い。
次に確認するのは宇久森の所持する写真だ。寄越せ、と手を差し出す。
「んっ」
「はい」
「.......手を乗せろって言ったんじゃないよ。写真だよ、写真。宇久森さんが撮った写真を見せて」
「あ、そちらでしたか」
「そちら以外の何物でもないよ」
素でボケたらしい宇久森は、パッと手を離すとズボッとベットの下に手を入れた。
え、と動揺している間に下から一冊の分厚い本を取り出す。タイトルに「photgraph」と書かれた赤い本ーーアルバムをそっとサイドチェストに置いた。
ドスッと音がしたが気のせいだろうか。
「いや、多くない?多いよ、多いって」
「多くないです」
嘘だ。
厚さはいったい何センチだ、と問いたくなるような分厚いアルバムの登場に那緒は驚いた。なんだこのわんぱくな厚さは。卒業アルバムだってもっと慎ましやかな外見をしているぞ。
好奇心からそっとページを捲る。
「中すごっ!片面に四枚入るじゃん!何枚、これは何枚入るアルバムなの?」
「たしか1500枚ですね」
「1500!?」
中身スッカスカだろ、とペラペラとページを進めるが一向に写真は途切れない。上から下から横からあらゆる角度から撮られた己の写真が、隙間なくびっちりとそこに収まっている。恐ろしいのはそれら全て春先の服装だということ。
( ワンシーズンだけでアルバムを埋めた?いやいや、そんなわけない.......ないよね?)
怖くなってそっと顔を上げると、いい笑顔を浮かべた宇久森がいた。
確信する。彼はワンシーズンだけでこの辞書みたいな分厚いアルバムを埋めたようだ。
ははっと、変な笑いが漏れる。
「.....ちなみにこれ、何冊目?」
「春•夏•秋•冬で全四冊セットです」
「6000枚、最低でも6000枚は現像したの?四年間で?」
「そうなりますね」
「やばくない?」
「やばくないです」
いや、十分にやばいよ。
スマホに保存されている分と合わせれば、実際にはもっとある。いったい一日に何枚撮っていたのか。考えるだけで気が遠くなる。
風景を撮っているならまだしも、那緒だけを撮ってこの枚数はヤバいと称するしかない。畳の網目でもいいから別の被写体を発見して我に帰ってほしい。切実に。
依存症かなにかではないか、と湧き上がる不安にそっと蓋をしながら那緒はアルバムを捲る。
目的は左下にある番号だと己を元気付けて、ペラペラと紙を捲った。
ザッと見た感じ全ての写真に番号は記載されているようだ。この枚数をナンバリングしているのに、あの一枚だけしていないというのは不自然だ。やはり別の人間が撮ったものと見ていいだろう。
「この番号は後付けだよね?付け忘れたとか無い?」
「さすがですね、那緒さん。そこに気がつくなんて」
「大半のヒトは気づくと思うよ」
「敏い那緒さんは既にこの写真が僕の撮った物とは似ても似つかぬ粗悪品であることもお見通しでしょうに、あえて聴くなんて意地悪なヒトです」
「んふん、初耳だね」
写真の紙質か、カメラの種類か。いったいどこが粗悪品なのか不明だが、実物も無いのにそれを見抜けると思われるほど己の目は過大評価されていたらしい。哀れ。
「そうです、ご指摘の通りこの写真はピンボケしています!」
「へぇ」
「背景のピントだけなら味と称することも出来たでしょうが、主役である那緒さんをこんなにボケボケにして.......!こんなに冷淡な写真を残すなんて万死に値します!」
あなたの写真は愛が重すぎて、呪われて死んじゃいそうですけどね。
言葉をグッと飲み込んで那緒はスマホに視線を落とす。言われてみればピントが合っていない気もするが、よく分からなかった。画面越しだからだろうかと考えて那緒は首を傾ける。
「そう、そこです!そこの右頬の下の当たりです!せっかくのシャープなラインを.....!」
悔しそうに顔を顰める宇久森は、ハンカチがあれば今にも噛み締めてキィー!と叫び出しそうな雰囲気だ。それを横目に那緒は右頬に視線を移す。
よく分からなかった。
が、宇久森がブレていると言うのなら彼にはブレているように見えるのだろう。
( 手ブレ1枚撮影するたびに、己の無能さを呪って鏡に頭から突っ込みそうな熱意があるからな。素人目じゃ分からないやつだ )
脳裏に簡単に描くことのできる光景に、呆れてへらりと笑う。そんな危うさと謎の信頼が宇久森にはある。
那緒はこくりと頷いた。
警察に向けての証拠にはならないが、宇久森の言葉は那緒を頷かせるには十分過ぎる説得力があった。
「ナルホド」
「ご理解いただけて嬉しいです。愛ですね」
「愛ではないですね。狂気の方です」
「またまたぁ」
「いや、またまたじゃなくて」
「那緒さんの冗談はさて置き」
だから冗談でもないって。
「引き抜かれていることも鑑みて、改めてアルバムを調べましたが、紛失した写真はありませんでした。スマホの方も同様です」
「犯人が撮ったと」
「そうなりますね」
ふむ、と那緒は腕を組んだ。
ここまで徹底しているのに一枚だけ番号を忘れて、あまつさえそれが犯人の手に渡るなんて偶然が起こるのは天文学的確率だ。那緒を殺すために宇久森が仕組んだとなれば話は別だが、ここまで甲斐甲斐しく世話を焼いておいてそれはないだろう。
「分かりました。写真は犯人のモノだと思っておきますね」
パタンとアルバムを閉じる。
重たいそれをぐいぐいと宇久森に押しつけ、さっさと棚に戻すように促す。彼はしぶしぶといった様子で本棚にアルバムをしまった。
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