11話 宇久森の視点


駆けつけた時には手遅れだった。

大柄な男に背中を刺されて、小さな身体がゆっくりと血の海に沈んでいった。


「那緒さん!」


男を突き飛ばす。

引き抜かれたナイフが男の手から落ちて、床を滑ってどこかに飛んでいく。悲鳴が上がった。ハンカチを取り出し傷口に押し当て、小さな身体を抱えて走った。

男の笑い声から逃げるようにひたすら走る。


「急患だ!」


近くの病院に駆け込んで叫ぶ。

駆け寄ってきたタンカに彼女を乗せ、運ばれる彼女の隣を手術室まで一緒に走った。

それからの記憶は薄い。

気が付いたら病室で横たわる那緒を眺めながら、担当した医師の話を聞いていた。

出血多量であと数分遅かったら死んでいたと疲れた顔で医師は言った。本当に運が良かったと。 


「奇跡だよ。あれだけ深く刺されたのに内臓に少しの損傷もなかった」


しばらく痛むだろうが問題なく回復するだろう、と言われてようやく息が出来た。

本当にあとすこしで死んでいたのだ。

足元がふわふわしていて現実味が無い。細い管に繋がれた彼女と己の真っ赤な手と服が無ければ、夢だと思っただろう。これはひどい悪夢なのだと。思い込むことができた。目を逸らして目を覚ます努力ができたのに、彼女はそんな余地すら与えてくれない。

込み上げる吐き気に口を押さえる。


「.......っ」


崩れ落ちる那緒の姿が頭をよぎる。

あいつに背中を刺され、人形みたいに崩れ落ち、血溜まりに横たわる愛しの人。下卑た笑い声と悲鳴が混じって耳から離れない。


「那緒さん......」


ベットで浅い呼吸を繰り返す彼女は、こちらの葛藤など知りもしないで幸せそうに眠っていた。

のんきなもんだと腹が立った。

目頭が熱くなって、喉が焼けそうに痛い。苛立っているはずなのに、心底安心している自分がいた。ボロボロと目から涙が止まらない。


「...........はっ」


笑えた。

溺れているくせに、その水の中でないとすでに息が出来ないなんて。完全に作り替えられてしまったらしい。心も身体も。


(もう那緒さんがいないと呼吸もまともにできないのか)


ひどい執着だ。

空っぽだった世界を満たしてくれた恩人に向けるべき感情ではない、醜く汚い欲。あの子の大嫌いなそれ。

だが満たされている自分がいた。

もう戻れない所まで来てしまったらしい。


「あ“ー」


湧き上がる。溢れて止まらない。

好きだ。愛している。愛してしまった。

ずっと見ているだけで我慢していたのに。重たすぎるこれを抑えることはもはや不可能になってしまった。

いちど失いかけたのだ。もう止められない。閉じ込めてしまわなければ。


「........まずは、ここから出るか」


失うわけにはいかない。






***************




那緒を保護して2週間が経った。

前触れなく目覚めた彼女には、記憶が無かった。

記憶が、

歓喜と絶望を一緒くたに胃に押し込められたようで、一瞬だけ呼吸を忘れた。感情とは裏腹に優秀な頭脳が「那緒さんは警戒しているのでは?」と導き出さなければ、今ごろどうなっていたか分からない。

那緒の一言はそれぐらい衝撃だった。

目覚めて身体が浮くほど嬉しいのに、ただの少女のように怯える姿を前に抱いたのは“水を取り上げられる“恐怖だった。


一度渇きを満たされたら、もう二度と渇くことに耐えられない。


とにかく必死だった。

恥も体裁も無い。縋り付くように言葉をぶつけた。立て続けに質問と感情を投げかけて、返答に粗が無いかを探った。頭の隅にいる冷静な自分が、好きな相手を尋問するのかとこちらを指差し笑う。

結局は独りよがりだと。

だから忘れられるのだと。

人差し指を折ってやりたかった。嘲笑う己の頬に拳をめり込ませて、気の済むまで腹を蹴り上げてそれでそれでーーーーー


「.......っ、ごめんなさい」


ーーーなにも出来なかった。


言動が仕草がなによりも夜空を写す瞳が、それが虚言ではないことをありありと物語っていたからだ。


金花那緒は宇久森真を覚えていない。


頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲う。

ゲラゲラと頭の隅で笑い声が響いた。

どこか過信していたのだ。周りとは一線を欠く雑な扱いに、特別視されているのだと自惚れていた。丁寧で他人行儀なそれが、貼り付けた接待用の仮面が、己に向けられる時だけ鋭利な刃物みたいに辛辣で表情を失くすから。歪な形であれ特別なのだと思っていた。

頭の中が真っ白になった。


「ンッ、むり.........出そう」

「わー!那緒さん待って!」

「ヴッ」

「トイレ、は間に合わない!ならこれ、このゴミ箱に吐いてくだぅわぁぁぁぁぁああアアアアアアアアアアアアア!!?」


幸いにも那緒が粗相をしてくれたおかげで、それ以上追求するような愚行を犯すことはなかった。

だが気絶するように倒れた那緒の介抱を終えると、先程の会話がじわじわと蘇ってきた。

なにも考えられなくて、ふらふらと部屋を出る。

足に力が入らず扉の前にへたり込んだ。


「.........はっ」


結局は自分の周りの有象無象と変わらない。

彼女にとって己が大事に心にしまい込んでいる思い出の数々は、変わり映えのしない日常だった。重い、重い重い。叩きつけられた現実はあまりに重い。

ぽつり、ぽつり。浮かんでは消えていく輝かしい思い出たちが、那緒の言葉で色褪せていく。


「......は、はっ、はっ」


息苦しい。

喘ぐように襟元に爪を立てた。

引きちぎるようにニ段目のボタンを外す。

まだ足りなくて引っ掻いて、三段目のボタンが床に転がった。開いたシャツの隙間から直接胸板に手を当てて、呼吸を繰り返す。指の腹に熱と振動が伝わる。


「はっ、はっ、ひっ.......ぁは」


苦しい。苦しい。

打ち上げられた魚のように呼吸が出来ない。吸っているはずなのに脳がそれを酸素と認識しない。全身が乾いていくような感覚。膝を抱えて内側に頭を入れる。視界を暗くして、呼吸を繰り返した。苦しくてたまらない。ゾクゾクと背中が際立って仕方がない。

頭がおかしくなりそうだ。

否、もうとっくの昔におかしくなっていた。

苦しくて、悲しくて、呼吸が乱れるほど傷ついているはずなのにどうしてか。狂った。狂わされてしまった。ああ、だって、こんなこんな、どうしようもなく嬉・し・い・な・ん・て・。


「はは、ひっ、ははは......ぁは」


口元が三日月に歪む。

浅い呼吸音に混ざって笑い声が漏れ出した。

那緒に聞かれるわけにはいかないと押し殺すが、止まらなくてヘンテコなしゃっくりみたいになった。

肩が揺れて、ひくひくと腹筋が震える。

胸が押し潰されそうに苦しくて痛くて死にそうで、それなのに甘い疼きが腹奥から主張を止めない。

心臓が壊れそうなほど脈打つ。

いま己の顔は熟れたトマトのように赤くなっているだろう。吐いた息が熱い。徹夜続きで重たい瞼が嘘みたいに軽い。目を瞑れば弱りきった那緒の怯えた顔が、瞼の裏に浮かぶ。ただの少女になった那緒の顔が。


「んひっ」


口元が歪む。

喜怒哀楽。全ての顔を取り繕えるがゆえに貴重だったあの無表情でさえ、彼女の顔の一部に過ぎないとは。

数年越しの真実は宇久森を刺激する。

溢れそうになる唾液を飲み込んだ。

彼女はまるでマトリョーシカだ。その身ひとつで様々な顔を持ち、暴いたと思えばまた次の顔が次の顔がと現れる。

本当の彼女はいったいどれなのか。分からない。知らない。だから良い。

知らないということはまだ知れると言うことだ。愛する人の新しい一面にそれだけ多く触れられるということ。嬉しく思わないはずがない。


「.......本当にさまざまな感情をくださる」


己の身体を掻き抱く。全身が燃えるようだ。

蕩ける表情とは裏腹に、瞳にこもる熱はどろりと甘い。


「また遊びましょうね、那緒さん」


一から、また。

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