10話


那緒はスッキリとした手でマネキンに触れていた。長い手足に触れ、遠慮なしに服を剥いで胸や尻を凝視している。

その目はいつになく真剣だ。

マネキンの横には宇久森が、頭を手で隠しうつ伏せにダンゴムシのように丸まっている。

俗に言う“ごめん寝”というやつだが、眠っているわけではない。羞恥心からのぞく耳は赤く、身体は小動物のようにぷるぷると震えている。

どうしてこんなことになったのか。

観察を終えた那緒はマネキンに服を着せてやりながら、経緯を思い出して遠い目をした。




数十分前のことである。

最初に正気に戻った宇久森は、唐突に「那緒さんの指に僕の汗が!興奮し、あ、汚れてしまう!」と喚くと、懐から取り出したウェットティッシュで丁寧に那緒の手を拭き始めた。

那緒は奇行に目を丸くした。

興奮されるのも嫌だが、自分のことを汚れた存在と認識しているのも嫌だった。

火照るほどの熱が一気に冷めていくのを感じながら、内心で気持ち悪いなと思った。


「はぁはぁ」

「.....息荒げるの止めてくれる?」

「あ、すみません。ですが僕の常在菌が那緒さんの常在菌と混ざり一緒に除菌されると思うとつい」

「その言い方やめて」

「羨ましくて」

「ときどき無視するのなんなの?」


那緒の手を片手に鼻息を荒くする彼に、那緒は数分前の己の純粋さを恥じた。

変態こいつにトキメいてしまうなんて.....。

今日の出来事は確実に黒歴史の1ページに刻まれるだろう。だが人間切り替えが大事だ。ページの端にノリをつけて硬く硬く封じるとして、これを教訓に強く生きていこう。

眉間に寄るシワを解す。

座っているだけなのにドッと疲れた。


「はぁ.....」


隣を見れば元凶が使用済みウェットティッシュとゴミ箱を交互に見て、今にも死にそうな顔をしている。

本当に顔だけはいい。

ウェットティッシュが捨てられずゴミ箱を前に顔を歪める姿は、苦渋の決断を迫られた主人公にしか見えず那緒はハハッと軽く笑う。

ある意味、神様は平等らしい。

ばっちいから早く捨てろと思いながら、なんのけなしにマネキンに手を伸ばした。

ペロンと裾を捲る。

へそが目に入った。続いて脇腹にある小さなキズに気付いて、よく作り込まれているなとぼんやり思った。

途端、横で絹を裂くような悲鳴が上がる。


「イヤァァァア!?」

「え、なに、どうかした?」


声を上げたのは宇久森だ。

目を見開いている。頬はトマトのように染まり、あまりのことに声が出ないのか薄い唇がはくはくと動いているだけ。

那緒は首を傾げる。


「虫でも出た?」

「は、ははははははっ、破廉恥です!」

「え、なにが?」

「破廉恥です!!」

「本当になに」


首まで真っ赤になった宇久森が手で頭ごと覆い蹲ってしまう。女子力高いな、と宇久森を見下ろした。

状況から照れていると理解は出来たが、なぜ照れているのかは分からなかった。だが、どさくさに紛れてウェットティッシュを懐に入れる姿を確認できたため、通常運転だと判断し那緒はマネキンを見る作業に戻った。

そして、冒頭に戻るのである。





那緒はふう、と肩を下ろした。

安堵ではない。では感嘆か、それも違う。疲労から細められた墨の瞳に浮かぶ感情はただひとつ。困惑だ。


(黒子の位置まで一緒なのどうしてかな?ていうか、お尻に黒子あるの初めて知ったわ。はっはっはっ)


なおーむずかしいことよくわからなぁい(はぁと)。

一時的にIQを3に落とすと少しだけ冷静になれたが、動揺も困惑も消えることはなかった。自分の身体より身体を知っている初対面(仮)の男とは。言葉にすると一瞬で爛れた関係に見えてしまい那緒は首を振る。


(きっと治療の際に見えたに違いない。そうだ、そうなんだよ、そうに違いない)


それはそれで嫌だが盗撮期間中に得た情報だと思うよりはいくらかマシだと、受け入れ難い事実を飲み込む。

ついで彼が立派なストーカーである事実も、このマネキンを見れば飲み込まざる負えなかった。

未確認の黒子の位置、再現された肌質、本人ですら自分と見まごう外見の再現度。

火傷するほどの熱意と執着と技術力を見た今となっては、ホストや臓器バイヤーとはとても思えない。

あれは世界で競えるレベルのストーカーだ。


「ご満足いただけましたか?」

「そうだね、お腹がはち切れそうだよ」


マネキンの服を戻したタイミングで、足元からくぐもった声が聴こえる。皮肉を込めて答えてやるとガバリと勢いよく顔を上げた宇久森が、嬉しそうにマネキンの足に触れる。


「ようやく、ご自身の美しさが三代欲求おも退けるモノだとご理解いただけましたか!そうです、そうですとも!特にこの白く細い足はヴィーナスだって頬を染めるほど美しく」

「やめろやめろ!お腹いっぱいだって言ってるでしょ!」


嬉々として語り始めた口を制する。

残念そうに唇を尖らせる宇久森は、可愛いが可愛くない。那緒がなにも知らずに街中で彼に出会っていれば心躍らせたかもしれないか、生憎と己を監禁する男に感じるのは別の高鳴りだった。

胃もたれして腹立つ。殴りたい。


「で、でしたら、その、それで」


宇久森が視線を彷徨わせる。

先程の悲鳴といい、もじもじと言い淀む姿だったりといちいち彼は女子力が高い。それがまた似合っているのだからイケメンとはつくづく特な生き物だ。


「ごご誤解は解けたでしょうか?」

「ええ、まぁ、おかげさまで」

「それはよかった!」

「監禁と盗撮の事実は消えないけどね」

「それは愛ゆえというやつです」

「思想まで立派なストーカーか」

「ストーカーではありません。僕はただ目を離した隙に死んでしまいそうな極貧暮らしをなさる那緒さんのサポートがしたいだけです!」

「めちゃくちゃ貶すじゃん」


世に聞くストーカーよりもマイルドに聞こえる物言いだが、それはつまり食生活から管理したいという思想だ。堂々と公言する重度の束縛姿勢に、遠慮すると那緒は断る。

残念そうに肩を落としたので、試しに鎖を外すように足を振ってアピールしてみる。


「痒かったですか?」

「そうじゃないんだよなぁ」


斜め上に飛んだ返答はわざとではない。

おそらくで“悪いことをしているつもりがない“のだ。

常識として“ヒトを軟禁してはいけない“と頭にあるが、それはあくまでも知識としてだけ。理由があれば通ると考えているから悪びれていない。

“なぜしてはいけないのか“を想像する力を養えていないのか、はたまた本来の資質か。


(.....後者っぽいな)


宇久森がたくましいストーカーであるうちは、善意に訴えかけて鎖を外させよう作戦は今後も期待できないだろう。

ふぅと息を吐く。

解体される危険性やタイムリミットからは解放されたが、日常に戻るためには己の力で脱出しなければならない事実は変わらない。

ちらりと宇久森に視線を移すと、鎖と足首の間にハンカチを入れていた。

つくづく気がきく男である。


(ストーカー野郎で、気絶している人間を誘拐•軟禁するような奴じゃなかったらなぁ)


なんて残念なやつだろう。

そう思わずにはいられなかった。


「那緒さんは、僕がなんの目的も無く私利私欲のためだけに動いていると御思いのようですが」

「そうでしょ」

「違います!」


保護です、と彼は頬を膨らませる。


「なら怪我が治ったら出してくれますか?」

「いいえ」

「ほら軟禁ですよ」

「野良猫を去勢するために一度家に保護するでしょう?あれと一緒です」

「人間扱いされてない...だと...?」

「那緒さんの警戒心はクオッカ並なので、実質猫以下ですけどね」

「あんなに褒めたのに凄い貶してくるじゃん。グッピーなら死んでた」


たしかに那緒は刺されたが、その点を己の警戒心の無さゆえに起きたモノだと言われるのは違うだろう。

悪いのは犯人で、刺された側は被害者だ。

特に今回は那緒になんの落ち度もない。

それに都会の夜道や路地裏、街灯の少ない帰り道なら当然のように警戒レベルを上げるが、刺されたのは昼間のビル街。警戒しろと言う方がどうかしている。

納得いかないという顔をした那緒に宇久森がため息をひとつ落とす。演技じみたそれは大変絵になるが、手間のかかる生徒だとでも言いたげで腹が立つ。


「那緒さんは向かってくる悪意に対してはとても敏感です。人並外れていると言っても過言ではないでしょうが、それは実害がある場合だけです。現に盗撮されていることにまるで気が付いていなかった。違いますか?」

「普通は無理だと思う」

「それに力も弱い」

「どさくさで手を握るな、離せ」

「いやです」

「ヒィッ!?指の間を撫でるな!」

「おやおや、こんな所も弱いなんて那緒さんは弱々ですね」

「ちょっと」

「大して力は入れてませんよ」

「いいから離して、」

「この程度の力でも振り解けないほど、弱々しくて、ええ、本当に小動物以下ですね」

「なにいって………い“っ“!?」


基節骨が締め上げられる。

反射的に手を引くが、指の間で指を挟んで締め上げられて逃げられない。世の人間はこれを恋人繋ぎなどという愛称で呼んでいたが、そんな甘いものではないと那緒は思った。道具のいらない拷問の間違いだ。


「痛い!めっちゃ痛い!」

「簡単に男を近寄らせて、手を握らせて、それを振り解く力すら無い。貴方はこんなに弱っちくて脆いんですよ。自覚してください」

「勝手に握っておいて勝手なことを!」

「そのくせ運が悪い」

「喧嘩売ってる?」

「変な輩に好かれやすくて、ちょっと外出しただけで刺されてしまうくらいに運が悪いのにぜんぜん頑丈じゃない。どこもかしこも細くて小さくて脆くて小動物以下なんです」

「筆頭がなにを」

「自覚を、どうか自覚をしてください」


会話が成り立たない。

一方的にぶつけられるそれはしだいに萎んでいった。ギリギリと締め付けていた手はいつの間にか祈るように手を握っていて、ゆらゆらと頼りなく瞳が揺れ始める。丁寧なくせに横暴な彼はどこにやら。捨てられた子犬のように弱る姿に、那緒は深く息を吐いた。

びくりと宇久森の肩が揺れる。

なにを勘違いしたのか、ぶつぶつとなにやら呟きながら首を振る。情緒が安定しない奴だ。


「いやです」

「まだなにも言ってないけど」

「いやです、だめ、駄目なんです。那緒さんは外に出てはいけないんです」

「心配してくれるのはありがたいけど、仕事もあるしお金も必要だから無理」

「それは僕が、僕が面倒見ますから」

「家だって借りてるの」

「解約してください」

「解約金高いから、無理」

「払いますから」

「そういう問題じゃあないでしょ」

「安心してください。解約金を払っても那緒さんと違ってタンス貯金はゼロにはなりません」

「そうでしょうけど......おい待て、なんでタンス貯金まで知ってんの?」

「養いたいんです。養わせてください」

「まじで話聴かないじゃん。遠慮する」

「どうして!」

「どうしてじゃないでしょう......」


那緒は前髪をかきあげると、そのまま面倒くさいと言わんばかりに頭を掻いた。

これは子どもの癇癪だ。思い通りにいかなくて喚き散らす我慢の効かない幼児のそれ。

どうせ飽きて捨てるくせに。

随分と熱烈な告白に内心そう吐き捨てる。

同じ言葉を吐いた奴らはもう居ない。みんなみんな去ってしまった。どんなに熱烈に勧誘しても、己の理想とは違うと見るや否や簡単に手を離す。

やれ、食べ方が汚い。

やれ、可愛く笑わない。

やれ、お母さんと呼ばない。

ペットショップの子犬や子猫と一緒なのだ。好みの外見に惹かれても、家に招いた途端に世話の大変さに気がつく。大きくなれば煩わしさばかりが目について、熱はどんどん冷めてしまう。

人間ってやつはそういうものだ。

そういう風に出来ている。

気持ちの悪いほどの熱量を注いでくる宇久森でさえ、いつかは。


「野良猫は、去勢が終わったら戻すでしょ。それと同じ」


一度でも飼われたら外では生きていけない。

飽きたからと捨てられても、野良だった時の生活には完全に戻ることは出来ない。後遺症は必ず何処かに残って、確実に足を引っ張る。ひとときの気紛れで人生を台無しにされるなんて御免だ。


「わたしは、ちゃんと元の生活に戻る」

「………できません」

「なんて言われても出て行くから」

「駄目なんです。出すことはできません」

「いい加減にして」

「外に出したらこんどは、今度は、間に合わないかもしれないじゃないですか」

「今度はって、そんな何度も刺されるわけないじゃ」

「あるんです!」


悲鳴だった。怒鳴るような、それでいて今にも泣き出しそうな声で宇久森が言う。


「何度も、刺される可能性があるんです!」

「なにを根拠に」

「あの日、あの時、あの男は那緒さんが彼処に行くことを知っていました。那緒さんだと分かったうえで刺したんです」


無差別殺傷事件なんかじゃないんですよ。



血を吐くような重い声だった。


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