2話

ふわりと意識が浮上する。

身体が泥のように重い。じっとりと汗で服が張り付いて気持ちが悪い。

自分が刺される夢を見たせいだろう。なんて縁起が悪い。さっさと着替えて、いいや、その前にお風呂に入りたい。


「いま、なんじ.....」


部屋は未だ薄暗い。

毎朝仕事だと騒ぎ立てる時計も静かで、設定したアラームの前に起きてしまったのだと見当付ける。シャワーを浴びる時間があればいいのだが。


「とけい.......とけい、ない」


手探りで時計を探すが見当たらない。

布団の横に置いてあるはずだが、寝ている間に蹴飛ばしたのだろうか。

重い瞼を無理やり開く。

時計はチェストの上にあった。小ぶりの赤い時計。時刻は10時18分。

寝ぼけた意識が一気に覚醒する。


「はっ!?遅刻じゃ......イ”ッ!?」


うつ伏せの体勢から身動いだ那緒の背中に激痛が走る。悲鳴を上げ、痛む箇所を右手で押さえるが痛みは引かない。内側から焼けるような痛みが全身に広がっていく。

痛い、痛い、なんだこれ。

息が浅くなる。痛みを紛らわせるように呻いて布団に爪を立てた。

痛い、痛い痛い。

呼吸が整わずにひゅーひゅーと乾いた声を漏らしていると、バタバタと足音が近づいてきた。勢いよく扉を開ける音に視線を向ければ男がいた。



“男“



身体が無意識に強張る。

刺された時の記憶がフラッシュバックする。

逃げなくては、あの男から逃げなくては。

動けない身体を引きずってベッドの端に移動しようと手を伸ばす。

激痛。

呻いて、身体から力が抜けた。


「傷が開くから動かないで下さい!」


シーツを握り締めた拳をそっと大きな手が覆う。生温い感触に吐き気が込み上げ、那緒は咄嗟に叫んだ。


「さわるな!!」

「て、手も痛みますか!?」

「やだ、やだやだ!痛っ.....あ、来るな!」

「那緒さん」

「さわんな、こっちに.....こないで」


息が切れて咳き込む。

その振動さえも痛みを増幅させる。それでも那緒は歯を食いしばった。

逃げなくては殺される。

それだけが頭にあった。

必死に立ち上がろうとするが、足は動かない。なぜ、どうして。混乱すると視界までぐるぐると定まらなくなり、酷い吐き気が那緒を襲った。喉が焼ける。


「なん、で」

「那緒さん」

「フー.......フー.....ひぐっ」

「那緒さん、僕です。宇久森真です。落ち着いて、あなたに危害を加えた男ではありませんよ」


警戒を崩さない那緒にまずいと踏んだのか、男はベッドから距離を取った。ゆっくりと柔らかい声で語りかける。話は半分も入ってこなかった。ただ涙でぼやけた視界に映る男が、やけに優しい目をしていることだけは理解できた。

あの目ではない。あのギラギラと殺意を煮詰めたような狂った瞳でない。

ぐちゃぐちゃの思考がゆっくりと男を認識し、詰めていた息が次第に抜けていく。

那緒はようやく目の前にいる男が、刺した男とは別人であることを理解した。


「安心してください。ここにはあなたを害するものはなにもありません」

「.........ここは、どこですか」

「僕の自宅です」

「自宅....?どうして」

「覚えていませんか?会社の前で背中を刺されたんですよ」

「さされた...」


実感は湧かない。なんなら未だに夢の中のような気さえしていた。背中の痛みがなければ、きっと夢だと寝直しただろう。男は那緒を気遣ったのか、ひどくゆっくりとした調子で続ける。


「内臓に損傷はありません。安静にしていれば1ヶ月ほどで日常生活に戻れるでしょう。歩行は少し違和感を感じるかもしれませんが、2ヶ月ほどでそれも消えますので今はとにかく安静に」

「.......はい」

「薬を服用していれば痛みは和らぎますので、忘れずに飲むようにして下さい」

「はい」

「最初は歩行にリハビリは必要になると思いますが、ここにいればもう......安心で、から.....へいきで....」


しゃっくり。嗚咽。途切れる言葉に顔を上げれば、瞳から大粒の涙を流す男がいた。ぼろぼろ、温かな滴が膝を濡らしている。


「........ご無事で、よかっ.....」


伸ばしていた背が次第に丸くなり、やがて両手で顔を覆ってしまう。


「まにあわなかったらどうしようって、もし、もし死んでしまったらって、こわくて。よかった....よかった.....」


鼻をすする音。泣き出した男を那緒はぼんやりと眺めていた。どうやら心配されているらしい。よかった、と呟く男に自然と目元が下がった。胸の奥が温かい。不謹慎かもしれないが、心配してくれるのは嬉しかった。


(他人に心配されたのは初めてだ)


ぬるま湯に浸かるような感覚に、痛みで強張っていた身体から力が抜けていく。

安心したせいか妙に眠たい。

壁にもたれかかる。瞼が重い。

今度こそお迎えが来たらしい。那緒はふっと微笑む。刺殺され痛みに苦しみながら生涯を終えることがなくて良かったと安堵した。長年の夢であった“眠るように生涯を終える“を歪な形ではあるが叶えることができたのだ。それも国を傾けられそうなイケメンに看取られて。

ゆるりと瞬きをする。


(人生、なにがあるか.....分からないものね)


この時間が終わってしまう予感をほんの少しだけ残念に思いながらも、那緒はじわじわと迫ってくる眠気に身を任せた。





焦ったような悲鳴は那緒の耳に届かない。

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