1話
これといって仕事が出来るわけではないが、会話の上手さから常に重宝されている。
今日は女性向け健康食品についての打ち合わせで、大手製薬会社に来ていた。
担当はベテラン社員の田中先輩であったが、持病の痛風が悪化したために急遽手の空いていた那緒が指名されたのだ。
「あぁ......」
憂鬱だ。
目の前には見上げるだけで首が痛くなりそうなほど高いビル。今からここに入ると思うと緊張で胃が痛い。レベル1で魔王城に単身挑むことになった勇者の気分だと、那緒は死んだ魚のような目でビルを見上げた。
それも「あそこの社長はおっかない」としおれた子犬のような声で電話越しにアドバイスしてくれやがった田中先輩のせいである。
不安を煽るような真似をしやがって、契約が済んだらただじゃおかない。
那緒は脳内で田中先輩が箪笥の角に小指をぶつける様子を想像する。声にならない悲鳴をあげて床をのたうち回る姿に自然と口角が上がった。心も落ち着く。
「........さて、いきますか」
約束の時間も近い。
気を取り直して自動ドアに手を伸ばした。
その時だった。
ドンッ
背中に強い衝撃。
勢いよく人がぶつかったような衝撃が背中を襲った。驚いて振り返ると、見知らぬ男が真後ろにいた。帽子を目深く被った小太りの男。声をかけようとして、鋭い痛みが全身を駆け抜ける。
「ーーーーひぃっぐっ!?」
痛い。
痛い。
熱い。
立っていられずに、痛みに呻きながらズルズルと那緒の身体は崩れ落ちた。
熱い、背中が焼けるように痛い。
上手く呼吸が出来ない。
息をするたびに身体が軋んで痛みを発するせいで呼吸が乱れる。痛い、これはなんだ。痛い、熱い、ただただ痛くて気持ちが悪い。グルグルと視界が回っている。
「お前が、お前が悪いんだ.....これで妹も」
ケヒュと独特な笑い声。
突然の出来事と痛みとで訳がわからず、ただ声のする方へと視線を向ける。
薄汚れた運動靴、黒い染みのあるスボン、赤いナイフを握り締める手、三日月形の口元に、帽子の影に隠れた満足気な男の血走った歪んだ瞳。そこではじめて那緒は自分が、この男に刺されたのだと理解した。
「キャァァァア!!?」
「誰か!救急車!」
「おい、大丈夫か?!しっかりしろ」
「そいつまだナイフ持ってるぞ!」
「警備員!取り押さえろ、早く!!」
痛い、痛い、寒い、苦しい。
周りがザワザワと騒がしいのに、酷い耳鳴りで上手く聞き取ることは出来ない。
息が苦しい。吸っているのに上手く呼吸ができない。荒い呼吸音が聞こえる。痛いくて熱いくて寒いはずなのに、感覚がどんどんと薄れていく。
「た、す..........て」
恐ろしくなって手を伸ばした。
その手に気付く者はいない。
視界に映るのは己を置いて逃げ惑う人々の姿だけ。痛いはずなのに目は冴えない。それどころか次第に瞼が重くなっていく。
(ああ、死ぬのか)
身体に力が入らない。視界が暗くなって、ゆっくり、ゆっくりと意識を飲み込んでいく。
「那緒さん!」
完全に飲まれる前に、名前を呼ばれた気がした。
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