3話

目を覚ますと痛みは随分と引いていた。

身体を自由に動かすことは出来ないが、気絶する程の痛みはもうない。


(ここは、どこだっけ.....?えっと、刺されて、それで誰かの家に......)


頭が痛い。

うっかり12時間寝てしまったときに感じる謎の頭痛と似たそれに、那緒は呻いた。状況を把握しようとゆるゆると脳を回していると、隣でカシャンと物が落ちる音。

視線をそちらに向ける。

隣には男がいた。

蜜のある黒髪、雪のように白い肌、青みがかった黒真珠の切長の瞳。絵に描いたような端正な顔立ちの青年だ。


(だれ.....)


椅子に座って書類を捲っていたのか、膝の上には紙の束が置かれている。

医者だろうか。

ぼんやりと眺めていると目が合う。眼鏡の奥で細まっていた瞳が徐々に開いていく。


「.............?」

「な、おさ.............あっ、え、」


ふらっと立ち上がる彼。膝に置いていた書類がバサバサと床に落ちて広がった。


「なおさん、起きて....おぎで....」


ひっぐり。

しゃくり上げたのを皮切りに、青年はボロボロと大粒の涙を零す。続いてセイウチのようにおうおう豪快に泣き始めると、崩れるようにベッドに縋り付いた。


「なおざん、なおさんおぎで....ぼくは、ぼがぁ.......」

「.......??」

「那緒ざん“ん“ん“ん“よ“がっだぁぁ“」


名前はなんと言っただろうか。

端正な顔を残念なほど歪めて、大粒の涙を流す青年に那緒は首を傾げる。

残念なことに那緒の頭から「宇久森 真」という名前はすっかり抜け落ちていた。意識も曖昧な状態で覚えたそれは、生命活動を優先した脳により不要と判断され弾き出されていたのだ。だから目の前にいるのは号泣する見知らぬイケメン。


(知らない天井、号泣する見知らぬイケメン、刺されたわたし.....)


日常ではまずあり得ない状況に那緒は必死に脳を回した。理解しようと似たようなパターンを探して、ふっとある考えが頭に降りてくる。


(この状態は転生系ものにありがちな展開......。つまり、わたしは女性向けゲームに転生を果たしたってことか!)


那緒は寝ぼけていた。

ついで非日常な環境に年甲斐もなくはしゃいで思考がメルヘン方向に加速する。


(刺された時点で金花那緒としての人生を終え、ゲーム世界の金持ちに転生した。なるほど、やんごとなき身分だからこんな国宝レベルのイケメンに泣いてもらえるのか)


前世の自分に賞賛を送る。徳を積んだおかげで顔のいい友達のいる金持ちに転生できたよ、と那緒は内心でガッツポーズを決めた。

繰り返すが、那緒は寝惚けている。


「ごの“ま“ま“お“め“ざめ“に“な“ら“な“い“がどお“、お“ぼぃ、ま“じだぁぁあ“」

「お、おぅ」

「ごぉ、こきゅうごんなんに、なっでぇ.....だ、だいへん、だったのでずょお!」

「それは、その、すみません」

「ほんどうでず!これいじょうし、じんぱいざぜないでくだざい!し、しんぞうがもだなっ......!」


勢いが、勢いが凄い。

青年は床を水浸しにしそうな勢いで泣いている。こんなに誰かに泣いてもらうのは初めてで、嬉しいやら恥ずかしいやらでむず痒く那緒は頬を染めた。胸がポカポカと温かい。

泣き止ませるのは惜しいが、いつまでも泣かせていては枯れてしまいそうだ。背中でもさすってやろうと青年に手を伸ばす。厳ついベルトの付いた右手で背中を、左手で頭を撫でてやろうとして、動きを止めた。



ガシャン。


(んっ?)


違和感。

青年から目を逸らし、那緒はそっと己の手首を見た。そこには赤いベルトがあった。ぐるりと手首を覆う厳つい鎖の付いたベルトが。そろそろと視線を下げる。

太い鎖を視線だけで追って行くと、その先はベッドの足に向かって伸びていた。


「え、なに、」


硬く目をつむって目を開く。

ベルトは変わらずそこにある。

両の頬を抓ってみる。

痛い。ベルトは変わらずそこにあった。

深呼吸を一回。

肺に空気を入れた瞬間にチャリと音がした。まるで現実逃避は許さないと言わんばかりに、音と重さで自らを主張するそれに那緒はスッと腹の底が冷えていくのが分かった。

“監禁”の二文字が頭を過ぎる。

眼前の青年が“善良なイケメン”から“顔のいい犯罪者”へと姿を変えていく。


(あはは、あはは、はは......まじか。監禁....へぇ、助けられたけど助かってない感じか、うん)


死亡転生からの監禁は笑うしかない。

酷い、これは酷すぎる。それとも犬用ゲージで目覚めるパターンもあるようだから、ベットで目覚めた幸運を噛み締めるべきなのか。どちらにしろ命の危機に変わりはない。ここから逃げ出す算段を立てねばならぬ。

那緒は悔しさに唇を噛み締めた。

どうせならべったべたに甘やかされて、動物とか妖精と戯れる系に転生をしたかった。


(ひとまず否定的な言葉は言わないようにしよう。「◯◯はそんなこと言わない!」とか叫ばれて刺されるのとか目に見えてるし)


監禁されている以上、相手はヤンデレだと見てまず間違いない。となれば、取るべき手段は無理にここから脱出することではなく、自分はここから逃げないという信頼を得ることだ。

好感度が低いとなにを言っても殺される可能性が高い。もう一回刺されるなんてごめんだ。軽率な発言でせっかく拾った命を溝に捨てるわけにはいかない。己の発言には重々注意しようと、那緒は唾を飲み込んだ。


「あの、看病、ありがとうございました」

「ごぢらごぞぉお」

「えっと、もう大丈夫なので泣きや」

「だいじょうぶなわげないでじょう!?」

「すみません!」


荒げた声に心臓をすくみあがる。

無難にお礼と労りの言葉をかけたが、逆効果だったようだ。怒らせてしまったと真っ青になったが、包丁を握る様子はない。今すぐに殺されるということはないようだ。

心許ないことに変わりはないが。


(セーブ。セーブどこ?コントロールバー無い?せめてオートセーブなのか、そもそもセーブが無いのかを教えて......)


上、下、右、左。

それらしいものは無い。

常にナイフが首元で固定されているような緊張感が那緒を襲う。画面の向こうの主人公は毎回こんな気持ちで相手と対峙していたのだと思うと、今更ながら尊敬の念が湧き上がる。できるならこんな気持ちは、一生知らないままでいたかった。


(転生特典とかないかな.......相手の好感度が見えるとか、選択肢が見えるとか、前世でこのゲーム遊んでたとか、聖女的な魔法パワーが備わってるとか!じゃないと死ぬ)


おもむろにグッと手を握る。

じゃらりと音が鳴るだけで残念ながら魔法的なパワーは湧き上がらなかった。

転生特典は備わっていないらしい。

那緒は顔を顰めた。


(こんなことなら真面目に乙女ゲームを履修しておくべきだった........)


相手の口説き文句の糖度の高さにゲラゲラと笑ったり、あまりのホラー展開に悲鳴をあげて主人公を心配しまくった日々を悔いる。

こんな時こそ文明の力に頼りたいところだが、本人の前で「ヤンデレイケメン 号泣 気の利いた会話」で検索を掛けるわけにはいかない。そもそもスマホが存在するのか。あったとしても自分よりスマホを優先したと思われて刺されるのではないか。

心配事が山のように積み上がる。ストレスだろうか。先ほどから頭は痛いし胃も痛いしついでに背中も痛い。

青年が嗚咽をあげるたびにベッドが振動し、ちくちくと背中に響くのも原因のひとつだ。ひとまずこれだけでも止めてもらおうと、那緒はあのと呟いた。


「はぃ」


彼と目があう。

涙に濡れてびしゃびしゃの顔をしているのに、変わらずイケメンな青年にできるたけ優しい声で那緒は話しかける。

瞳を真っ正面から見据える。


「手を離してくれませんか?ベッドが揺れて背中に響くんです」


青年はきょとんとした顔をする。

泣き過ぎて聞こえなかったのだろうか。


「..........いま、なんと?」

「振動が背中に響いて痛いのでベッドから手を離して下さいと」


その後に言葉は続かなかった。

ずるりと青年の顔から表情が抜け落ちたのだ。

ヒュッと喉奥で声が漏れる。


「離して下さい?離せではなくて?」

「え、」

「まだ意識がはっきりしていないのか....?」

「あの」

「那緒さん」

「はい」

「はい?気安く呼ぶな、ではなくて?」

「え?」


え?


「那緒さん、僕の顔がどう見ていますか?」

「とても整って見えますが....」

「『相変わらず顔だけは素敵ですね。心はゴミカスなのに』ではなくて?」

「あなたの中でわたしのイメージってそんななんですか!?言いませんよ、初対面の方にそんな、こ......と」


この身体の持ち主は、日常的に暴言を吐き相手を罵って悦に浸るドSの国の女王様キャラなのか。すでに毒牙にかかったであろう青年の発言に、那緒は反射的に思ったことをそのまま口にしてした。して、しまった。


「......しょたいめん?」

「あ」


身体の持ち主の性格を把握しているということは、青年は顔見知りのはずだ。気付いたときにはもう遅い。震える声を耳が拾う。

ギジリとベッドが嫌な音を立てる。


「どうしてそんな嘘付くんですか」

「ヒッ!?」


青年に腕を掴まれる。

条件反射でびくついた身体を押さえ付けるように手首を握られ、那緒は悲鳴を漏らした。

見上げた青年の瞳からは光が消え、その顔からは電池が切れたように感情が削ぎ落とされていた。

ごくりと唾を飲み込む。

夏のホラー番組よりもよほど恐ろしい光景が目の前にはあった。恐怖で距離を取ろうと後ずさるが、腕の力が強すぎて強張らせるだけに終わる。

逃がさない、と言われている気がした。


「初対面?誰と那緒さんが?」


二つの黒真珠が那緒を見る。

内側まで見透かそうとするような視線。逃れようと顔ごと逸らすが、顎を取られ強制的に視線を合わせる形になる。ぶわりと全身に鳥肌がたつ。


「逸らさないで」


あなたが怖いから無理です!

那緒は本音を飲み込んだ。

美人の真顔は怖い。那緒は初めてその言葉の正しさを理解した。怖い。精巧に作られた人形を相手にしているような不気味さが恐怖を煽る。


「真です。宇久森真うぐもり しん、聴き覚えは?」

「うぐもり.....」


宇久森、宇久森....

ぐるぐると記憶を辿るとそんな名前を何処かで聴いた気がした。たしか刺されて.....マスコミ対策でここに居るとか.....。

彼から聴いたような、今朝のニュースで聞いたような、思い出せる記憶はひどく曖昧だ。自分の記憶なのかすら正確に判断できない。


「那緒さん」

「.......っ、ごめんなさい」


促すように名前を呼ばれ、謝罪の言葉が口をつく。

ここでの謝罪は肯定と同義。

しまった、と思った。悪手だったと。


「ほ、ほんとうに?本当に覚えていらっしゃらないのですか?僕のことを......?」

「.............」

「おぼえていない」


感情のこもらない声で青年が呟く。

その表情は前髪に隠れて見えない。

ただ傷付けたことだけは感じ取れた。だが、それを心配する余裕などない。


(間違えた間違えた間違えた.....死ぬ、刺されて死んでしまう)


選択肢を間違えたのではないかという恐怖。極度の緊張で胃が気持ち悪い。

間違えた選択肢の先に待っているのは、黒い笑顔で武器を構える攻略対象しにがみ。


(那緒、知ってる。何度も選択肢を間違えて刺される疑似体験したもん....うふふ)


笑い事ではない。

真っ赤に染まる画面が脳裏を過ぎった。

奥歯がガチガチと震え、手のひらから尋常では無い量の汗が出る。握りしめたシーツはおそらくビショビショだ。


「覚えてない....」


状況を打開し戦況を立て直す必要がある。

頭では理解していても、口ははくはくと動くだけでフォローの言葉は出てこない。

それはそうだ。青年との記憶など那緒の中にはないのだから、言い訳も慰めの言葉もましてや打開しうるだけの言葉なんて出てくるはずがない。

沈黙。

ばくばくと壊れそうなほど脈打つ自分の心臓の音が耳を支配する。この煩わしい喧騒が次の瞬間には止まるのではないか。そう思わずにはいられなかった。だってほんの少し前に、この心臓は鼓動を止めたのだから。

ギュッとシーツを握る。

なにか、なにか言わなくては。

ぐるぐると回る。

打開策を立てなければまた死んでしまう。

なにか、なにかないか。なんでもいい、とにかくなにか出さなくては。沈黙よりはずっといい。

乾いた喉に喝を入れるように息を吸い込む。瞳を涙の膜が覆う。ひくりと震える胃を無視して、那緒は思いの丈を吐き出した。


「..................い」

「え?」

「き、ぎもぢわるぃ.....」


本音だった。

極度の緊張と背中の痛みで、空っぽのはずの胃ごと戻ってきそうなほど気持ちが悪くなっていた。言葉と共に胃酸で喉が焼かれる。

ぐるぐると視界が回る。

座っているのも辛くて前屈みになると、胃が持ち上がるような感覚がした。


「ンッ、むり.........出そう」

「わー!那緒さん待って!」

「ヴッ」

「トイレ、は間に合わない!ならこれ、このゴミ箱に吐いてくだぅわぁぁぁぁぁああアアアアアアアアアアアアア!!?」






こうして、図らずとも那緒はヤンデレの追求を回避したのだった。大切なナニカと引き換えに。


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