第5話
「失礼」
煙草に火をつけた。
落ち着かせてくれ!
ニコチンに願いながら、煙を大きく吸い込んだ。
木製のベンチから伝わるはずの冷たさは、なぜか感じなかった。
「今、テニスサークルに入っていて、ここのコートでもやったことあるんです」
後ろをふり返りながら口を開いた彼女は、吸い殻入れを真ん中にし、大人ひとりぶんほどの間隔をもって座っている。
車道に向かって設置されたベンチの後方、植え込みの奥にあるテニスコートからは、歓声や打球音が断続的に聞こえていた。
「テニスは高校から硬式やってたんですけど、大学は部に入るのやめようって考えてたんです。だって、せっかく高校よりも自由の利く生活になったんだから、もっといろいろなことやる時間持ちたいし」
それからも彼女は、変わらずのほがらかな口調で語った。―――現在通っている大学や、アルバイト先の書店でのこと。さらには、恋人はおらず、当分つくるつもりもないということ。などなど。
そして、煙草を口に持っていく動きが思わずとまったのは―――、
「昔、誕生日には必ず、父と車でここへきていたんです」
の言葉を聞いたときだった。
「将来絵描きさんになりたい、なんていったのがきっかけだったんだと思います。たぶん、幼稚園かなにかで絵を褒められたからじゃないかしら。そしたら毎年、絵画館へ連れてきてくれて」
だが、そのころの自分には難しかった。そう頬を緩めた彼女は、微風に乱された前髪を直しながら、
「でもそのあと、この並木道散策したり、落葉集めたり、かけっこしたりするのが楽しくて―――」
添えた。
指は静かに灰を叩いた。
「父、作家なんです。売れてはいませんけど」
横顔がいった。
「今、離れたところに暮しているんです。
当時、どうしてそうなったか母に訊いたんですけど、ただ、別れたからっていわれただけで詳しくは教えてもらえませんでした。小学三年生にはまだ理解できないって思われたんでしょうね」
でも中学にもなると、薄々実情がわかってきた。と続けた彼女の物言いに、まったく湿り気はなく―――。
そしてそれを知らせたのは、主に、一緒に住むことになった祖父母だったという。
「私が生まれてからしばらくは、父がアルバイトでも母はなにも文句はいわなかったそうです。でも、小学校へあがるころには就職を迫って。―――世間体を考えてのことかもしれませんし、おじいちゃんやおばあちゃんからのプレッシャーもあったのかもしれません。それまでは養育費の援助をおじいちゃんたちに受けていたそうで、でもそれ、いつまでもは続けられないっていわれたようだから」
元々良好な関係とはいい難かった義父母からの通達だったので、真に受けた父親は、妻の要求を飲んだ。
「それから父は、仕事以外の時間はすべて自分のために使うようになりました。PCに向かってずっと執筆。
いう通り就職したのだからいいだろうって考えがあったからよって、母はいっていました。いわゆる、家庭を顧みなくなった、という母の不満が、別れの原因だったみたいです。
でも私は、父に対して憤りなどちっとも持っていませんでした。怒られたり厳しく注意されたりしたこともなく、息抜きしているようなとき話しかければ、遊んでくれもしました。それに、仕事以外の時間、ほぼどこにも出かけず家にいる父が嬉しかったし、第一、自分の夢を追い求めている姿が、とてもかっこいいって思っていました。
今となると、母の想いはわからなくもありません。でも、誕生日には仕事も執筆もまるまる休みにしてここへ連れてきてくれた父を憎む気持など、逆立ちしたって出てきやしません」
声に柔らかな笑いが滲んでいた。
父の居所は教えてもらえなかった、と打ち明けた彼女は、
「でも、今日の誕生日、ここへやってくれば逢えるかもしれないって思って……。
約束があったから」
「約束……」
「はい。だけど、たとえ逢えても、嬉しさと緊張が入り混じっちゃって、たぶんうまく話せないだろうから、他人として、といったら変ですけど、そんな感じで向き合おうって決めたんです」
ずいぶんイメージトレーニングしました。そういって口角をあげると、
「父もそのほうが接しやすいんじゃないかな、とも思って。父、恥ずかしがり屋だったから」
彼女はつけ加えた。
どこからか、チャイムの音が流れてきた。
コートのポケットから携帯をとりだした彼女は、タップした画面を見て、「あ、いけない」つぶやいた。
「ちょっとでも遅くなると、おじいちゃんたち、めちゃくちゃ心配するんです」
いいながら立ちあがった彼女の躰は俺に向き直って、
「私の夢、出版社に入って編集者になることなんです。そして父の作品を担当して、大作家に押しあげること。
絵描きになりたいという夢は、ずいぶん前に変更されました」
「……」
「だから
語尾を崩した彼女は、
「すいませんでした。ひとりでぺちゃくちゃしゃべっちゃって」
という台詞を残し、背中を見せた。
夕陽を受ける小柄な影を見送りながら、あのときのシーンが甦った。それは今日に限って、セピアではなくカラーで網膜は映し……。
『免許とったら、誕生日、今度は私が運転してくる。だからお父さんは助手席』
『それは怖いからな~』
『じゃあいいよ、ひとりで運転してくるから。お父さんはほかの車できて』
―――彼女の、約束。
突如、つんと痛みが走った鼻。鼻梁に妙なでっぱりを持つそれは、彼女のとまったく同じ形をした鷲鼻。
失くしていなかった……。娘だけは、失っていなかった……。
コートのまま運転席へ乗り込む姿に、気持ちで語りかけた。
そんな過去を語らなければ、気づかないと思ったか……?
渋谷で隣り合わせたあのときに、俺は―――。
ただ、「他人の空似」の疑念は、頭のごく片隅に生まれた。
それを解消したのがそのナンバー。
[・・24]
きみが誕生した二月四日と同じ数字。―――奇しくもの偶然に、当時、夫婦で喜んだことなどは、さすがに教えてもらわなかったか。
だが、右足はアクセルを踏み込んだ。そこには「怖れ」があったから。
万が一バックミラーを介し気づかれれば、君の胸中に「恨み」「憎しみ」「蔑み」が、きっと再燃する。―――それを勝手に怖れたから。
重みのないエンジン音をともない、[・・24]が視界をゆっくり横切った―――。
しかし臆することなく声をかけてきたきみは、気づいていたんだ。
今思えば、同じときだったのか……。
自分とそっくりな鷲鼻をした年配男の横顔。ボディに移した目には、あのころから変わっていない勤務先のマークが映った……。
フィルター部分で燃え尽きていた煙草を吸い殻入れに落とした。
仕事終わりの休憩場所として、俺はたびたびここへ立ち寄る。しかも、立春の日は必ず。
再会は、お互い約束を守ったから……。
車に戻ると、寒さなどすっかり忘れていた手で、クリップボードから抜いた絵ハガキを裏返す。
差出人住所のない宛名面。
子どもと逢うこと。そして、連絡先がわかるようなことは一切しない。―――それが慰謝料養育費、免除の条件。
いい歳をし、叶わぬ夢を見続けている愚者に、これ以上父親面をさせたくはなかったのか。親がそうだから自分もダメなんだ。といった考えの出芽を危惧したのか。
しかし年一回のお祝いぐらいは……。との思いが、身元の記入を省けるハガキにさせた。
『誕生日おめでとう。元気でいますか? 進路は大学になったかな? それとも専門学校? もしくは就職したかな? いずれにせよ、毎日を大切にすごしてください。そしてもし、あのころの夢をまだ持っていたなら、決してあきらめずにいてほしいです。くれぐれも身体には気をつけて。頑張って。―――』
毎年ただ、こっちの希望だけを綴った文章。そして、はたして娘の目に触れているかわからない文面。
文末には必ず、
『―――ダメ父より』
自虐的な結びは、突如父を失くした娘への懺悔の気持からだった。
そんなメッセージの返事を、図らずも一足先に、今日もらった。そして彼女は、俺があきらめていないことを信じてくれていた。
と―――、
「返事」
その二文字が、頭を強打した。
「やっぱりダメ父だ!」
吐き捨てるようにいって、すかさずキーをまわした。
彼女は帰宅するといっていた。であれば、ナビは神宮球場をまわり込むよう指示し、再び246に導くはず。
俺は片側三車線の並木道をUターンした 。
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