第2話

     *

 ちょうど隣に停車したその車に視線を持っていかれたのは、渋谷駅前の信号につかまっていたときだった。

 真っ黄色なボディ。―――それに惹かれたわけではない。

 右前に見える特徴的なボンネットの形。それが、途端に懐かしさを呼び起こしたから。

 フィアット500。

 こういう仕事をしていても、まず出逢うことのなかった車種。もちろんニューモデルは幾度も目にしたことはある。しかし、五〇年代から七〇年代にかけてつくられたシリーズ二代目のその旧型は、はじめてだった。

 感じた視線に、つい首が動いた。

 目が合ったのは、左ハンドルを握る若い女。

 すぐさまドアに肘をつき、戻した顔を隠すようにして、俺は依然赤いシグナルに視線を据えた。

 車には詳しくはない。しかし、そのフィアットに関してだけはべつだった。なぜならそのコンパクトカーこそ、結婚と同時に乗り始めたものだったから。―――といっても、購入したのは妻のほうだ。

 アニメ映画の主人公が乗っていて、とても可愛かったから。というのが理由だったか……。

 当然中古車。ただ、レストアされたものだったので、新車の国産大衆車が優に手に入る金額だったと思う。そんなものをぽんと買えたのは、ひとえに彼女が裕福な家の娘だったから。

 妻の運転は、よくいうと男っぽかった。悪くいうと、荒い。だから彼女がドライバーズシートに座るとき、たいして馬力のないエンジンは常に悲鳴をあげていた。これでは車どころか、乗っている人間の寿命も縮まると思い、同乗の際にはほとんど俺がハンドルを奪った。

 車が流れ始めた。

 こっちよりも少し早目に動きだした黄色いフィアットは、六本木通り方面へそれていった。

 俺はそれを視界から外すと、そのまま真っ直ぐ246をいく。

 わずかばかり進んで、明治通りを前に信号につかまるのは、日中ではお約束のタイミング。JR、東横線の高架が、陽射しをさえぎる。

 背中の凝りに、上体を反らした。その拍子に目に入ったバックミラーには、フロントシートに並ぶ若い男女の、楽しげに揺れる半身。それが思考を再びさかのぼらせた。


 大学の同じクラス。そこが妻との出逢いの場だった。

 そこそこのルックスを誇っていた彼女に言い寄った男は、噂を信じれば少なくはなかったようだ。

 しかし彼女は、恋愛対象を俺に向けた。とくに彼女と接することもなく、もてる要素などどこを探せど見つからないと思っていた俺なので、彼女の気持ちがまったく理解できなかった。

 ただ、あえて理由をつけるなら―――クラスメイトとの交流などもほとんど持たず、空いた時間を見つけてはノートPCのキーを叩いているという、まわりの中では異質な姿に興味を抱いて……だったのかもしれない。

 いずれにしろ、真意は永遠にわからない。―――妻を、そして同時に、娘を失くしてしまったからには。

 あれから一〇年―――。

 その間問い続けた、「俺がいけなかったのか……」との疑問に、答えは未だ出ず。そしておそらくこれからも……。

 信号が変わった 。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る