第五話
七月三一日
正直、僕は自分の名前が好きではない。『獅子』などと言う、両親の期待が前面に表れた名前が気に食わなかった。人の上に立つことを前提とした、自分たちの会社を継がせることを前提にしたような、そんな名前が。
つまり何が言いたいかと言うと、名前は『人生を左右するもの』なのだと僕は思っている。……いや、『運命を決定づけるもの』と言った方が適切だろうか? そんな『人に名前を付ける』という重要な任務が残り短い人生で降りかかるなど、僕は想像すらしていなかった。
朝、食堂で少女にスプーンの使い方を教えながら朝食を摂っていた時だ。ふと、少女の名前を呼ぼうとした時に気が付いた。まだ彼女の名前を聞いていなかった事に。
「そういえば、まだ君の名前を聞いてなかったね。」
「なまえ……?」少女が首をかしげる。
「そう。名前。」僕は頷く。
「れおんと?」
「〝レオント〟は僕の名前だ。君の名前を知りたい。」
少女はぶんぶんと首を横に振った。長い黒髪が舞い上がり、彼女の姿を覆い隠す。
「わからない。」
「え?」
どうやら、少女には名前が無いらしい。もう少し落ち着いたらイス国籍で住民登録をしようと思っていたので、正直困った。このままでは流れ的にも、僕が少女の名前を決めることになりそうだ。気が付けば、後ろをトコトコ付いてくる少女を尻目に、しばらく屋敷の中をうろうろしていた。
コンソメスープの良い香りが調理場から漂ってきた頃だ。屋敷に木箱三つ分の荷物が届いた。知り合いの女性に選別を頼んでいた少女用の服が届いたのだ。いつまでも僕のシャツを着せておくわけにはいかないからな……。着替えさせる時にかなり抵抗されて大変だったが、その甲斐はあったと思う。シンプルな白いワンピースがとても似合っていた。
昼食を摂った後、僕は少女と共に散歩へ行くことにした。この頃には少女の名前探しで頭がいっぱいだったので、少しでも名前のヒントが欲しかったのだ。外は晴天の青空から、眩しいほどに夏の太陽が照り付けている。少女に大きな麦わら帽子を被せると、紺色の日傘を片手に屋敷を後にした。とりあえず、近くにある丘の上の教会まで歩くことにする。小動物が顔を覗かせる深緑の森林。白く咲き誇るエーデルワイスの花畑。遠くに見える雄大な大山脈の景色。少女の目には、どれも新鮮な物に映っただろう。
三十分ほど歩くと、白い外壁の教会にたどり着いた。立派な鐘楼に備えられている金色の大きな鐘が特徴的だ。普段は人の出入りが少ない教会にも関わらず、出入り口から続々と人が出てきていた。男女ともに全員が明るい色をしたフォーマルな服装をしている。屋外にテーブルや食事を持ち出して、宴会の準備をしているようだ。不思議に思い、僕は近くにいた若いシスターに声をかけた。
「ごきげんよう、シスターエニシダ。」
「あら、レオント様じゃないですか。貴方がここまでいらっしゃるとは、ご機嫌そうでなによりです。」シスターがお辞儀をしている。
「静かに寝ている場合でもなくなったので……。それにしても珍しいですね。ここの教会にこれほどの人が集まるのは。」僕は改めて教会を見渡した。
「若い男女がこの教会で結婚式を行っているのですよ。静かな場所での式を希望されていたので、ここの教会はうってつけだったようです。先ほど式が終わって、これから披露宴が行われるところですね。」
「なるほど……。」僕はその場で頷いた。
「ところで、レオント様の後ろにくっついている女の子は?」
僕の後ろに隠れている少女を、シスターが不思議そうに眺めている。僕は苦笑いを浮かべながらシスターに事情を説明した。
「あぁ…、三日ほど前に森で拾いましてね……。身寄りもないので僕が預かることにしたのですよ。まだ名前も決まっていませんが……。」僕は背中に隠れていた少女を隣に立たせる。「こういう時は『ごきげんよう』と挨拶するんだよ。」
「……ごきげんよう。」少女が僕の右手を握りしめながら挨拶する。
「はい、ごきげんよう。」シスターがにこやかな笑顔で応えてくれた。
そうこうしていると、生まれたばかりの夫婦が教会から姿を現した。白いタキシードを着た花婿と、白いウェディングドレスを纏った花嫁だ。祝福の拍手が盛大に鳴り響いていた。どうやら、花嫁が白い花束を抱えているようだ。ゲストの女性が全員、一か所に集まりだす。ブーケトスと言うやつだろうか? 花嫁が背中を見せると、天高く花束を放り投げた。その瞬間、強い風が吹きつける。
——フワッ
白い花束が青空を舞っていた。人の手を逃れるように、こちらへと向かって来る。そのまま、白い花束は少女の腕の中へと静かにおさまった。まるで初めからそうなることが決まっていたかのように。
「祝福の小さな鐘、カンパニュラ……か。」
——カラァーン カラァーン カラァーン
祝福を告げる鐘の音が3度、この世界に鳴り響いた。その時だ。まるで初めから知っていたかのように、僕は彼女の名前を呼んでいた。
「ベル、よかったね。」
「うん。」
ベルの横顔が微笑んでいるような気がした。
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