第四話

 七月三〇日


 捨てられた子猫の世話をする時と言うのは、こんな気分なのだろうか? いや、幼い娘の世話をすると言った方が良いだろうか? 妻はおろか恋人すらいたことが無いのに、まさか育児をすることになるとは……。正直、わき腹の痛みなど吹っ飛んでしまうほど、疲れた。

 朝食を済ませた後、少女が寝ているベッドの横で読書をしていた。少女が目を覚ました時に再び暴れられても困るので、そのお目付け役と言うわけだ。危険だからと従者には猛反対されたのだが、あいにくこの屋敷には僕と従者の二人しかいない。従者にはいつも通り家事をしてもらわないと困る。僕が家事をしたところで、従者の仕事量が倍になるだけだ。


 お昼近くになった頃だ。『天上物語』を読み終えたのでふとベッドを見ると、少女が目を覚ました。むくりと起き上がり、きょろきょろと辺りを見渡している。少女が僕の存在に気が付くと、目が合った。相変わらず宝石のような紅い瞳をしている。

「ごきげんよう。気分はどうだい?」今思えば昨日と同じ挨拶だったな……。

「……。」

 昨日と同じように少女は何も答えない。だが、昨日とは違ってこちらをジーっと見つめていた。のそのそとベッドから降りようとしている。両足を地につけ立ち上がろうとした瞬間、ふらりとよろけた。本を片手に持ったまま慌てて少女を抱き止める。綿毛のように軽い。

「おっと……。無理しないでいいからね。」

「……。」

——ぐぅぅぅ……。

 少女のお腹から盛大に音が鳴り響いた。僕は思わず吹き出してしまったが、それもそうだろう。少なく見積もっても、二日間は何も食べていないのだから。僕はゆっくりと少女をベッドに座らせた後、従者を呼び行こうとした。すると、少女は僕が着ているシャツのすそをぐいぐいと引っ張っていた。

「あ、ごめんね。君のご飯を用意をするから、手を離してもらえると……ありがたいのだけど……。」

「……。」

 少女は僕をジッと見つめていた。どうしたものかと困っていた時、扉がノックされ従者が部屋に入ってきた。

「レオント様、昼食の用意が…。おっとっと、女の子がお目覚めになられていたのですね。ごきげんよう、お嬢さん。」従者が少女に笑顔で挨拶する。

「……。」

 この時、少女が僕の後ろに隠れようとしていた気がする。ともかく、従者がタイミングよく部屋を訪れたのはありがたかった。

「さすがプラムさん。いいタイミングだ。さっそくで申し訳ないけど、この子にご飯を用意してくれないか? なるべく消化の良いものを頼む。それと、僕の昼食もここまで運んできてくれないか?」

「分かりました。今すぐ用意してきます。」

 従者が部屋を出て十五分もしないうちに、昼食がワゴンカートに乗って運び込まれてきた。少女の前にイチゴのジャムが盛られたパン粥とスプーンが用意される。少女はお椀に入ったパン粥をジッと見つめたまま動かなかった。

「……? 食べていいんだよ?」僕もスープを飲みながら食事を促す。

「……!」

 少女はお椀を両手で掴んだ。そのまま顔からお椀に覆い被さると、勢いよく顔とお椀を持ち上げた。途端、隙間から汁がボタボタあふれ出す。少女に着せていた真っ白なシャツが、パン粥の汁まみれになってしまった。ついでに、僕のベッドもびしゃびしゃになった。

「おい!? 何をやってるんだ!?」僕はたまらずその場に立ち上がる。

 少女はお椀をおろすと、口をもごもごと動かしていた。お椀の中は空っぽになっている。どうやら、スプーンの使い方を知らないようだ。おかわりを促すように、部屋の中に腹の音が鳴り響いている。何かを訴えかけるように、少女がジッとこちらを見つめていた。

「……ああ、分かったよ!」僕は呼び鈴を片手に廊下に向かって叫んだ。「おーい! プラムさーん! 大量のタオルと替えのシャツを持って来てくれ! あと、パン粥のおかわりも頼む!」


 ベッドのマットレスとシーツはすぐに取り換えた。汁まみれのシャツは、少女の体を拭いた後に新しいシャツへと着替えさせた。おかわりのパン粥は、僕が一口ずつスプーンで食べさせることにした。

「ほら。口を開けて。あ。」

 僕が口を開くと、つられるように少女も口を開いた。少女の小さな口に。おかわりのパン粥を乗せたスプーンを突っ込む。

「ん。」

 僕が口を閉じると、つられるように少女も口を閉じた。そのまま少女の口からスプーンを引き抜く。僕が口をもごもごさせると、つられるように少女も口をもごもごさせて食べ始めた。赤ちゃんに離乳食を食べさせているような気分だ。

 食事を終えると、少女が僕のシャツのすそを掴んできた。何か言いたそうにこちらを見ている。思い返してみると、少女の声を聞いた事が無かった。

「—————。」

「……ん?」

 少女の声は聞こえた。透き通るような美しい声だ。しかし、少女が何を言っているのかは分からなかった。貿易の仕事をしていた事もあり世界中の言語に精通している自信はあったのだが、聞いた事がない言語だ。強いて言うならば、極東の島国周辺で使われている言語に近いか? これでは喋ることができないのと同義だ。それでも少女の紅い瞳を見た時、感謝を伝えようとしている事だけは何となく分かった。僕は微笑むと、優しく少女の頭を撫でた。


 それから少女は寝床に就くまでの間、四六時中僕の後ろをついて回ってきた。書庫に行く時も、散歩に行く時も、トイレに行くときも……。道中、僕の言葉を真似しようとしたのだろうか? 「あー」とか「うー」とか色々と言葉にしようとしていた。可愛いものだ。しばらく聞いているうちに、言いたいことが何となく分かるようになっていた。慣れとは恐ろしいものである。

 夕食は再びお椀に覆い被さろうとしていたので、今回も僕が一口一口スプーンで食べさせてやった。それにしてもよく食べる女の子だ。僕の倍以上は食べている。

 就寝時間になり少女をベッドに入れたのだが、相変わらず僕が着ているシャツのすそをグイグイと引っ張って離さなかった。仕方がないので、少女が眠りにつくまで見守ることにした。

「あーうーあーうー。」どうやら少女が僕の名前を呼んでいるようだ。

「レオント。レオント・テトラテーマ。」

「えーおーんーおー?」目がとろんと落ちかけている。

「そうだ。レオントだ。」

 混濁する意識の中、少女は静かに呟いた。

「れ お ん と……。」少女は眠りについた。

 この時、僕はハッキリと決意した。この少女が一人前の立派な淑女に育つまで見守ってやることを。そのためには僕も生きなければいけない。余命一年などと言っている場合ではなくなった。これがきっと、今の僕がやるべきことなのだろう。




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