第三話

 七月二九日


 わき腹が痛い。今日は大変な一日だった。正直、このままベッドにもぐりこんで寝てしまいたいが、三日坊主で日記を終わらせるわけにもいかない。僕自身、今日の出来事を整理する必要もある。重い筆をるしかあるまい。

 朝、少女の様子を見に行くと、従者が新しい包帯を巻き直し終えたところだった。従者が言うに、全身の傷は跡形もなく治っていたそうだ。これには驚きを隠せない。まさか一晩で傷跡すら消え去るとは……。驚異的と言ってもよい回復力である。町の病院まで移送することも考えていたが、どうやらその心配はなさそうだ。未だに少女は目覚める気配を見せなかったので、僕はゆっくりと朝食を摂ることにした。

 問題が起きたのは朝食を終えた後だ。少女の様子を確認するために寝室の扉を静かに開くと、宝石のような紅い瞳と目が合った。いつの間にやら、少女が目覚めていたようだ。ベッドから上半身を起こしている。窓の外に広がる景色でも眺めていたのだろうか?

「ごきげんよう。気分はどうだい?」僕は笑顔であいさつした。

「……。」

 少女は何も答えなかった。ベッドの白いシーツを握りしめながら、こちらを睨み付けている。紅い瞳に見とれている場合ではなかった。少女は明らかにこちらを警戒している。今にもベッドから飛び出しそうだ。少女との間に緊張感が走る。

「大丈夫、僕は君の敵じゃない。」僕が口にした、その時。

——ドンッ!

 突然、廊下へと吹っ飛ばされた。少女が弾丸の様に突進してきたのだ。何とか受け身をとって体勢を立て直したものの、みぞおちを強打した影響でお腹が痛い。少女はおぼつかない足取りで食堂のある方向へと駆け出して行った。まだ完全に体力が回復していないのだろう。僕も腹部を抑えながら少女の後を追った。


 食堂にたどり着いた時には、部屋の中が無茶苦茶に荒らされていた。白いテーブルクロスはぐちゃぐちゃになり、机上にあったカトラリーや蝋燭が四方八方に吹っ飛んでいる。割れた壺の破片も辺りに散らばっていた。部屋の隅には椅子で組み上げたと思わしきバリケードが屹立している。引きちぎられた赤色のカーテンがバリケードの上に被せられていた。

「レオント様! いったい何事ですか?」従者が慌てた様子で食堂に入ってきた。

「少女が目覚めるなり食堂に逃げた。多分、隅っこのバリケードに隠れてると思う。僕が行くから、プラムさんはそこにいて。」脱走した獣を相手にする気分だ。

 僕は意を決してバリケードに近づく。兎にも角にも、まずは彼女を安心させてやらなければ。僕はバリケードの前で静かに語り掛けた。

「安心してくれ。僕は君に危害を加えない。」

 月並みな言葉しか出てこなかった自分が恥ずかしい。少女からの返事は無かった。代わりに、少女がバリケードの中から僕に向かって突っ込んでくる。右手にはテーブルナイフが握られていた。テーブルにあったものを一本くすねたのだろう。銀色の刃物が僕のわき腹に突き刺さった。おろしたての白いシャツが赤く染まる。正直、かなり痛かった。しかし形はどうであれ、やっと少女が近づいてきたのだ。

「大丈夫。君は大丈夫だから。」

 僕は少女を優しく抱きしめた。彼女の体がこわばり、ナイフに込められた力が強くなる。腹部に突き刺さるナイフが震えていた。少女の体も小さく震えている。抱きしめる力を少しでも強くすれば、はかなく砕け散りそうだった。

——この少女は一体、何を体験してきたのだろう。

 いつの間にか、僕の両目から涙がこぼれていた。僕は自分の懐に収まっている少女の頭をポンポンと二度、優しく叩いた。ナイフに込められていた力が徐々に弱くなり、フッ…と少女から力が抜け落ちる。僕はとっに少女を抱き止めた。

「レオント様! お腹の傷が…!」従者が慌てて駆け寄ってきた。

「そんなことはどうでもいい。まずは、この子をベッドまで運んでいく。」

 僕はわき腹にナイフが突き刺さったまま、少女をベッドまで運び込んだ。理由は分からないが、彼女は精神的にもダメージを負っていたのだろう。こういう場合、まずはゆっくり休むことが大切だ。無事に彼女をベッドに寝かしつけた後、寝室を出た時に強烈な痛みが襲ってきた。いや、〝思い出した〟と言ったほうが適切なのかもしれない。着ていた白いシャツに目を向けると、ものの見事に赤と白のツートンカラーへと変わっていた。薄れゆく意識の中、従者に支えられながら客室にあるベッドで横になった後の事は、よく覚えていない。


 目が覚めると、窓から赤い夕焼け空が見えた。いつの間にか腹部の痛みが控え目になっている。どうやら僕が気を失っている間に、従者が医者を呼んで治療を施してくれたらしい。おかげで随分と楽になった。従者には「無茶をするな!」と怒られてしまったが……。なあに、人間には無茶をしなければいけない時もある。今回がたまたまそうであっただけなのだ。ご容赦願いたい。

 少女は今も僕の寝室にあるベッドでスヤスヤと眠っている。昨日よりは寝息が穏やかになっているような、そんな気がした。だが結局、今日も彼女の事はほとんど分からないままだ。従者が言うには、都市部でも黒髪かつ紅い瞳をした少女の行方不明者など存在しないとの事だ。よくよく考えれば当たり前の事だろう。貿易業の傍ら世界中にいる様々な人間を見てきたが、紅い瞳の人間を見た記憶は無い。彼女は本当に天の使いなのかもしれないな。

 何もかもが謎だらけだが、それでも、一つだけ分かったことがある。彼女はきっと孤独だったのだ。信じるものが何もない世界で、人の温もりを知らずに生きてきたのだろう。僕が知らずに済んだ世界……、彼女はそんな世界しか知らないのだろう。そんな少女に対して、今の僕に何ができるのだろうか? あと一年で黒い世界へと向かうことになる、今の僕に……。



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