第九話

 ヒペリカはベルのれた紅茶を飲み終えると、木にもたれかかりながらまどろんでいた。不慮の事故に会ったこともあり疲れていたのだろう。ヒペリカはいつの間にかうたた寝をしていた。小鳥のさえずりに、小さな寝息が入り混じる。彼はふと目が覚めると、ベルがすぐ隣の木陰で本を読んでいる姿が目に映った。大真面目な顔で何やら難しそうな本を読んでいる。……いや、よく目を凝らして見ると違う。本の表紙がメルヘンチックだ。大真面目な顔で童話でも読んでいるのだろう。ベルが初めて見せた年相応の行動に、ヒペリカは思わず笑みをこぼした。

 頭が冴えたヒペリカはその場で無意識に体を伸ばした。ポキポキと体を鳴らし、止めていた息をゆっくりと吐く。体が随分と軽い。伸びをした時には気が付かなかったが右腕の痛みも引いている。薬草の効きが良かったのだろう。これなら今すぐにでも花の探索を再開できそうだ。

 ベルはヒペリカの目ざめに気が付くと、先ほどまで読んでいたメルヘンな表紙の本をトランクケースに仕舞いヒペリカの居る場所に向き直った。

「お目覚めになりましたか。」

「ごめんね、勝手に寝ちゃって。おかげさまで調子が良くなったよ!」

「それは幸いです。」

 ベルが包帯を片手に、ヒペリカの右隣に移動する。

「もう一度、包帯を巻き直します。」

 ベルはヒペリカの腕に巻き付けられている包帯を取り外した。傷口はほぼ塞がっている。ベルは血の跡をふき取ると傷跡に薬草を塗り当てた。ヒペリカは気合を入れて身構えていたが、指の爪で軽く押された程度の刺激しか感じない。少年は拍子抜けした後、安堵の表情を浮かべていた。ベルが包帯を巻き直し終えると、ヒペリカが両腕をグルグルと回し始める。すっかり元の調子に戻ったようだ。

「全身の痛みも引いて腕の出血も収まったし、そろそろ花の探索に戻ろうか。」

 ヒペリカがその場に立ち上がり一歩目を踏み出す。途端、何かを思い出したかのようにその場でピタリと動きを止めた。彼の顔色がどんどん青くなる。

「そう言えば、洞窟から見知らぬ場所に転がり落ちてきたわけだから、今の僕たちは遭難してるようなものだよね……。」

 ヒペリカはその場で肩を落とすと、ため息交じりに呟いた。

「花を探すどころじゃなくなったなぁ……。」

「そうでもありません。」ベルは立ち上がり、スカートに付いた雑草を掃う。

「え?」ヒペリカは首をかしげた。

「現在、我々が居る場所は遺跡の入り口から建物を挟んで反対側付近です。」

 ベルはヒペリカの持っていた地図を広げると、ヒペリカが落下した位置と現在地を交互に指さした。ヒペリカがますます困惑した表情を見せる。何故、現在地が分かったのかというヒペリカの疑問が喉元から出てくる前に、ベルが理由を話し始めた。

「ヒペリカ様を追いかけた際に、進んだ方角と移動距離から我々の現在位置を予測しました。」

「よく分かるよねそんなこと……。」ヒペリカが呆れ返る。「まぁ、現在位置が分かれば遺跡の入り口までは真っすぐ戻れるかな。振り出しに戻るわけだから、花の探索は時間的に厳しくなると思うけど……。」

 今から遺跡の入り口まで戻り再び遺跡内部を通り抜けて紅い花の探索を行えば、日没までに町へ戻れない事をヒペリカは理解していた。ヒペリカは花の探索を諦める決心がついたかのように、その場で大きなため息を漏らす。半ば事故とはいえ、自身のかつな行動が招いた結果に肩を落としていた。意気消沈しているヒペリカを尻目に、ベルは表情一つ変えずに口を開き始める。

「それと、もう一つ。」ベルが地図上の現在地から程近い場所を指さす。「薬草を採取していた際、遠目に紅い色の花畑らしき光景が見えました。」

「それを早く言ってよ!」


 ベルが見つけた紅い花の咲く花畑へ向かう最中、ヒペリカは森の中を歩きながら考えていた。不幸中の幸いとはこの事だろうと。落ちた穴の先が目的地までの近道になるとは考えもしていなかった。今日の出来事を振り返ると、母の葬儀を行う為にベルがダオスタを訪れて自分の用事を手伝ってくれていることも、不幸中の幸いと言えるのかもしれない。ベルが居なければ、自分自身の身も危なかったのだから。あれこれ考えているうちに、不意にヒペリカの口から言葉が漏れ出した。

「ありがとう、ベル。君がいなかったら、この場所までたどり着けなかった。」

「私は、私の仕事を全うしているだけです。」

 ヒペリカはこの道中でベルがどのような人物なのか、おおよそ理解していた。彼女はとても不器用な人間なのだ。いつも無表情で対応もどこか事務的。だが、今日初めて顔を合わせた少年のわがままにも、自分の身を顧みず全力で臨んでくれている。不器用で不愛想だが、決して冷たい人間ではないのだ。

「相変わらずだね、君は。」ヒペリカが微笑む。

「それ程でもありません。」ベルは素っ気なく応えた。


 花畑までの道なき道を進んでいると、緩やかな下り斜面に差し掛かった。木々が邪魔で坂を下った先は見えないが、間もなく目的地に辿り着いてもよい頃合いだった。二人は緩やかな斜面をゆっくり下りながら、木々の間をすり抜ける。すると、深紅の花畑が視界一面に広がっていた。紅いガーベラの花が辺り一面を覆い尽くしている。太陽の光を浴びた花びらの一枚一枚が、光り輝く宝石のようにも見えた。

「こんなところにあったんだ、紅いガーベラの花畑……!」ヒペリカは両腕を目いっぱいに広げると、興奮気味に叫んだ。「遺跡の裏側のさらに奥なんて人っ子一人近づかないから、今まで誰も気づけなかったんだよ!」

「まさに『秘密の花園』ですね。」

「本当だよ! こんなに奇麗な花畑が当たり前のように咲き誇っているなんて!」

 興奮が抑えきれないのか、ヒペリカはその場でくるくると舞い踊っている。突然、両腕を天に掲げベルにハイタッチを求めたが、ものの見事に無視されていた。ヒペリカは肩透かしを食らったが、めげずにふたたび左腕を掲げている。少年の仕草に気付いたベルが困惑した様子を見せていた。ヒペリカが諦めずにもう一度、左腕を天に掲げると、根負けしたベルが少し顔を逸らしながら控えめに片手を掲げた。

——パチン!

 物静かな山奥に二人で作り上げた音が鳴り響く。ヒペリカはその場に寝転がると、そのまま雲一つない天を仰いでいた。ふと我に返り、神妙な面持ちで呟く。

「母さんにもこの景色を見せてあげたかったな。」

 ヒペリカは立ち上がると花畑に近づき、優しい手つきで紅いガーベラを根元から抜き始めた。合わせて三輪のガーベラを採取すると、根っこの部分に濡れたタオルを巻きつけ、花弁が傷つかないよう丁寧に束ねている。ヒペリカは採取したばかりの紅いガーベラを満足げに眺めていた。すると、ヒペリカは何か思いついたようにベルを呼びつける。自分を呼ぶ声に気付いたベルが振り向くと、ヒペリカはベルの瞳をジッと見つめて観察していた。ベルが困惑気味にヒペリカを見る。

「ヒペリカ様、どうかなさいましたか?」

「いい事を思いついた。」ヒペリカはベルを尻目に紅いガーベラをもう一輪、丁寧に採取する。「ベル、楽しみにしておいてよ。」

「?」ベルが首をかしげる。

「さて、用事も済んだし、町まで帰ろう!」

 ヒペリカは無邪気に微笑んでいた。




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