第八話
もたれかかった壁に穴が開いた事は覚えている。真っ暗で何も見えない中、何とか身をかがめながら落下していたことも覚えている。その後に何が起きたのかは覚えていない……。
ヒペリカは気が付くと、芝生の上に横たわっていた。周りを見渡すと緑の木々に囲まれており、隙間から太陽の光が降り注いでいる。いつの間にか屋外に出ていたようだ。ヒペリカは起き上がるために右腕を動かそうとした。途端、痛みが右腕を襲う。
「痛っ…!」
ヒペリカは思わず声を漏らした。刺すような痛みで右腕を動かせない。仕方がないので、ヒペリカは左腕を使って上体を起こした。辺りを見渡し冷静さを取り戻すと、徐々に全身が痛み始める。落下中に全身を打ち付けたのだろう。よく見ると二の腕に赤く染まった包帯が巻き付けられている。ただ、骨が折れてなさそうなのは不幸中の幸いであった。
「変な所から落ちて、この程度で済んだのは運が良かったのかな……。」
ヒペリカがそう呟くと、茂みからガサガサと草をかき分ける音が聞こえてきた。
「気が付かれましたか。」ベルが茂みの間から姿を現す。
「あれ? ベル? 何で?」
「開いた穴から、ヒペリカ様の後を追いました。出口にたどり着くと気を失っていたヒペリカ様を見つけたので、応急処置を行った後に薬草を探していました。」
ベルは採取した薬草をティーカップに放り込むと、ティースプーンで細かくすり潰し始めた。葉を何枚もすり潰していくうちに、
「薄々思ってたけど、ベルって知識も身体能力も凄いよね……。」
「それ程でもありません。」表情一つ変えずに、ベルは答えていた。
ベルは薬草をすり潰し終えると、太陽の位置を確認した。現時刻は午後三時頃。日没まではおよそ四時間ほどだ。ヒペリカの負傷を考慮し余裕をもった速度で歩くと、町へ戻るのに二時間はかかるだろう。それでもまだ二時間ほど時間には余裕がある。最悪、目当ての紅い花を見つけることが出来なくとも、ヒペリカの体調を優先し限界まで回復を待つ方が良いだろう。まずは彼の出血を抑えなければならない。
ベルはすり潰した薬草を手に取った。
「この薬草には止血効果があります。」
ベルはヒペリカの赤く染まった包帯を取り外し、すり潰されてゲル状になった薬草を傷口に押し当てた。薬草が傷口に触れた瞬間、ヒペリカは悲鳴を上げた。
「ギャー!」
「言い忘れていました。かなり沁みますが我慢してください。」
薬を塗った後に、ベルが何食わぬ顔で注意を促す。ヒペリカの顔面は潰れた古紙の如く、くしゃくしゃになっていた。ヒペリカがたまらず叫び出す。
「ぞういうのはざぎにいっでよ!」
ベルが包帯を巻き直す度に、ヒペリカは悶絶していた。あまりの痛みに耐えかねて反射的に腕を動かしそうになったが、その度に包帯を巻く力が強くなり余計に痛みが増していく。三回ほど同じやり取りを繰り返したところで、ようやくヒペリカはおとなしくなった。彼の目頭にはうっすらと涙が浮かび上がっている。新しい包帯が巻き終わると、ヒペリカはぐったりとしていた。
「あ…ありがとうございます……。お手数おかけしました……。」
ヒペリカが蚊の様なか細い声でお礼を述べる。ベルは至って冷静な態度で今後の予定を口にした。
「日没まで時間に余裕があります。ヒペリカ様の出血が治まるまで、この場所で休憩していきましょう。」
ベルは治療に使った道具を片付けると、紅茶を
「ダオスタには一年に一度、母親を敬う日があってね。あれは今から五年くらい前になるかな? プレゼント用の花を山へ探しに行ったんだ。その最中、段差に躓いて斜面を転がり落ちちゃって……。家に帰る頃には全身傷だらけだったよ。」
ヒペリカはどこか遠くを見つめると、話を続けた。
「家に着くと、母さんに怒られながら傷薬を塗りたくられて……。あれは坂を転がり落ちた時よりも痛かったな……。あの時は一瞬、母さんを恨んだね。けれど、母さんが浮かべた心配そうな表情を見て、すぐに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。体の痛みなんて忘れるくらい、心が痛んだ。」
「ヤコワ様は優しいお方だったのですね。」
「うん……。」ヒペリカは虚空を見つめたまま話を続ける。「その時、母さんに渡したプレゼントは紅色の…カーネーションだったと思う。紅い色の花だって、すごく喜んでた。それで、その時に母さんが教えてくれたんだ。紅い花——特に紅いガーベラの花には父さんとの思い出が詰まってるんだって。」
ベルが茶葉の入ったティーポットにお湯を注ぐと、コポコポという音色が辺りに響き渡る。ティーポットの注ぎ口から漏れ出た湯気が消え去ると、ヒペリカがハッと我に返った。
「ごめんね、急に母さんとの思い出話なんかしちゃって。ボーッとしてたら色々と思い出してさ……。自分でもよくわからないけど、誰かに話したくなったんだ。こんなこと、ベルに話すことじゃないのにね。」
「構いません。ヒペリカ様がお話したい時に、お話しておいた方がよろしいかと。」
「でも、面白い話でもないし……。」
「どのようなお話でも、私は聞いています。」
ベルはティーポットにティーコゼーを被せると、正座してヒペリカに向き合った。ヒペリカがおずおずとベルの目を見る。紅い瞳が真っすぐにヒペリカの瞳を見つめていた。——あぁそうか、この人はいつだって真剣なんだ。ヒペリカはぽつりぽつりと言葉を漏らし始めた。
「最近、色々バタバタしてたからさ、あまり実感がなかったんだ。今でも、家に帰ると母さんが出迎えてくれるんじゃないかって、そう思ってた。けど、今こうして冷静になって話していると、そうじゃないんだなって、そう思う。家族三人で過ごした時間は決して消えないよって、母さんは言ってたけど、それでもやっぱり、寂しいよ。それに怖いんだ……。葬儀が終われば、父さんが
気が付くと、ヒペリカの両目から涙が溢れていた。両手で目元をぬぐうが、溢れる青い涙が頬を伝って緑の芝生へと零れ落ちる。
「ごめんね……。いきなり……。」ヒペリカが
「ヒペリカ様は強い御方です。」
ベルが白いハンカチを手渡す。ヒペリカはハンカチで目元をぬぐうと、泣き顔を誤魔化すように笑っていた。
「そんなことないよ……。現にこうやって泣いちゃってるし……。あぁ、恥ずかしいなぁ……。」
「涙を流せる人は、現状を認めて前に進むことが出来る人だと聞いた事があります。」
「へへっ。僕もそう出来るといいけどね。」
ヒペリカが盛大に鼻水をすすっていると、ベルがうわ言のように呟いた。
「私は涙を流すことが出来ませんでした。」
「え? 何か言った?」
ヒペリカの問いに、ベルは何も答えなかった。
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