一章③
エミリアが教会領ホーロウに
洗い終わった薬草ターナルの束を手に、教会の
そこに、人がいたからだ。
「
くるりと振り返り、お久しぶりです、と
「でしょう? まだ、開店したばっかりなんだけど」
笑いながら、エミリアは礼拝室の中を見回した。
窓にカーテンを
正直、これだけでだいぶん、〝礼拝室〟から〝
食器保管庫の
「本当はカウンターが欲しいんだけど……」
苦笑いを
そこには、長机が二つ。
一つの長机には実験器具を並べて薬の作製用にしており、もう一つの机は、本来カルテ管理用にするつもりだったのだが、現在そこまで
ターナルの束を空いた場所に置き、エプロンを外した。ついでに、ハンガーにかけていた白衣に手を
コルク
(しっかり
むう、と口をへの字に曲げると、
「あ───!! 団長……っ。って、ちょっと待って! なんで出て行くのっ」
「うるさい。ええい。まとわりつくなっ! 手紙だけ置いてさっさと帰れっ」
「相変わらず、照れ屋ですねぇ。素直にこの再会を喜んでくださ……」
「返事は
「なんでっ!! もう少し、ぼくをねぎらって!!」
ケンカしているのか、仲が良いのか。エミリアはくつくつと笑いを
「ねぇ、団長。この棚に並んでいるのはどんな薬なんですか?
「俺に聞かれても知らん。あいつはどこに行ったんだ。そして早く帰れ」
「
テーブルの上に三角フラスコを置き、棚に近づく。油紙で封をした小さな
紫雲膏は本来セイヨウムラサキから作るのだが、似た成分を持つターナルという花で代用している。
「へえ。そっちのガラス
ジョンが指さすのは、セリンの樹皮だ。こちらは西洋
「そう。あの樹皮には
エミリアがジョンに
「妃殿下に、ですか?」
「ずっと片頭痛で悩んでおられるでしょう?
なるほど、とジョンが
「聖女としては役に立てなかったけど……。妃殿下に、何かご恩は返したくて……」
エミリアの言葉に、ジョンは
「では、明日団長の手紙と共に受け取りに上がります。妃殿下はきっとお喜びになりますよ」
ほ、とエミリアは
「石鹸も作ったから、これも
棚の一番下に置かれた四角い石鹸を
「それ、石鹸ですか。うまくできているじゃないですか」
「そう、なのよ……」
エミリアは右手で石鹸を持ったまま、左手で
これはちょっと自分でも予想外なぐらいの仕上がりなのだ。
石鹸とは、油を水酸化ナトリウムで鹸化させたもののことだ。
水酸化ナトリウムがまだ発明されていない現状では、他のもので代用するしかない。
仕方なく、前世の
学生時代に実験で作った時、米油を加えると
「予想以上にうまくできたのよね……。絶対液体石鹸になると思ったのに」
「あれだけ必死にかき回して、『失敗しました』だったら、俺は
まじめにローガンに
「そうね。きっとローガンが
言ってから、しまった、と口をつぐむ。
ジューサーもミキサーも、まだこの世界には
だが、ふたりとも
「これ、売れてるんですか?」
「これしか、売れないんだ」
断言するローガンに言い返したいのだが、事実なのだからどうしようもない。
薬局開設当初、客寄せのために石鹸のデモンストレーションをしたのだ。
いきなり、薬を売りつけるよりも、こういった日常的に使う製品の方が受け入れやすいだろうと、深く考えずに村長に説明をし、村人に薬局に集まってもらった。
『固形石鹸ですか』
エミリアが差し出した石鹸を、村人たちはしげしげと見つめた。
『そうなんです。これだとほら、液体石鹸と
営業用スマイルを浮かべて説明をしたが、主婦らしい女性が
『……でも、石鹸の量が少ないと、結局
そうだそうだ、と女性
『実際、どんなものかやってみたらどうだ』
ローガンに言われ、エミリアは石鹸を小さめに切り分けた。ナイフにある程度の
これなら、泡立つだろう、と思うものの、ここで失敗すれば宣伝にならない。
どうか、どうかフェアリージュ様、よろしくお願いします。薬局の存亡にかかわります、と心の中でひたすら
『じゃあ、この汚れを落としてみましょうか』
こわばった笑みを浮かべながら、あらかじめ用意していた
エミリアはテーブルの上に置いた
小さく切り分けた石鹸を、その布巾にこすりつける。
ふわり、と甘い花の香りがした。
『……ん?
思わず
『おおっ。すごい……っ』『こんなに泡立つ
いや、私だって見たことない、と、桶からあふれ出す泡を見て、エミリアは
『汚れはどうですか?』
主婦に
水と泡をしたたらせる布巾を見た
『その石鹸、買いますっ!』『うちも!』
それほど劇的に、石鹸は布巾の汚れを落としていたのだ。
(……泡立ち成分とか、汚れを分解する
当時のことを思いだし、しげしげと、石鹸を見つめる。
なんの
「思うに、高いんだろうなぁ」
ローガンが
「
「……………そう、なのよ」
がっくりとエミリアは
『薬があっても、高ければ買えねぇよな』と。
石鹸だってそうだ。村長や
「王都とは
「
ローガンとジョンの会話に、
「えー……。どうしよう。量を減らして値段を下げようかなぁ」
「それで利益が出るのか?」
ローガンに指摘され、うう、と
「なぁ。不思議だったんだが」
腕を組み、ローガンがエミリアに
「あんた、こんなことに興味があったのか? 石鹸作りとか、薬作りとか」
改めて問われ、エミリアは息を
「……そ、……う、なのよ。うん。でね。……利益率を計算しなくちゃね……」
もごもごと言葉を
「帰れ」
「冷たいっ。冷たいけど、そこもいい!」
「気色の悪いことを言うな。早く視界から消えろ」
「じゃあ、
(……なにはともあれ、一度、ちゃんと紙に書いて利益を計算してみよう)
自分自身に気合を入れた時、かさり、と軽い音がする。
見やると、ローガンが
かさり、かさり、とローガンは次々に紙をめくる。
長い
ただ、手紙を読んでいる、という姿なのだが、
それなのに、目が
それは、
その
気まずさにたじろいだが、ローガンは手紙の内容に興味があると思ったのだろう。
「王太子殿下からの手紙だが……。どうも、最近の王都は
「物騒?」
表面上は平静を
「
エミリアは
「でも、神官が聖具を使って
「ああ。負傷した人間については、シエナが回復させている」
ほ、と顔を
「ほら、ね? シエナ嬢は聖女だもの。瘴気の噴き出しが頻発しても、そのことで
だが、ローガンは険しい
「植物も、どんどん
「植物が?」
エミリアは目をまたたかせて問い返す。
「花は
ローガンは封筒を上着の内ポケットにしまうと、
「これも瘴気の頻発に関わっているのか?」
「私に聞かれても……」
言ってから、肩を
「でも大丈夫よ。本物の聖女が王都にいるんだもの。私と違って、きっとうまく解決してくれるわ」
エミリアは力なく笑う。シエナは自分とは違う。〝
「……本物の聖女、ね」
ローガンが誰ともなく呟いた時だ。
がたり、と大きな音を立てて扉が開いた。
「あ、あの……」
入ってきたのは夫婦とおぼしき若い男女だ。
女性の方は腕いっぱいにターナルの花束を抱えて
「どうかしましたか……?」
エミリアが尋ねる。
「テオが……」
そう言って男性は
「……これは」
ローガンが
「
男性の語尾が
知らずにエミリアはローガンの
「あの、あの……。お願いです」
子どもを見ようとした矢先、視界いっぱいにターナルの花束が広がる。
「これ……、あの」
戸惑うエミリアの前に、女性が花束を押し付けてくる。ローガンが腕を差し込み、無言で見やると、
「王都からいらっしゃったお
テオの泣き声に負けぬよう、女性は必死に声を張っている。小刻みに
「これで、薬を……。
「お願いします、お願いしますっ」
その
「馬を出してやろう。一番近くの医者はどこだ」
「そんなお金……っ! それこそありませんっ」
ローガンと若い夫婦のやり取りを聞きながら、エミリアはテオを見る。
(だけど、この傷……。もう、血は止まっているのかも……)
目を
なんとかしてやりたい。
どくん、と強く心臓が
〝癒しの力〟はないが、自分には前世で
できるかもしれない。役立てるかも。
その気づきと判断が、エミリアの
「ローガン、
いつの間にか、きつく彼の
「出来るだけたくさん」
お願いします、お願いします、と
「なんとかなりそうか?」
静かにローガンが確認する。
エミリアは彼の
「だって、お代を持参された患者さん第一号じゃない。なんとかしなくちゃ」
そう言って女性がかき
「それ、使わせてくださいね」
「水だな。持ってくる」
ローガンがエミリアの隣を
「い、いったい、どうしたら?」
「その子の服を
「痛いよね。ごめんね。傷を見ようね」
エミリアは机の上に置いた三角フラスコの
「持ってきたぞ」
ローガンが盥になみなみと
「傷口を洗おうね」
声をかけるが、
エミリアはテオの腕に一気に水をかけ、血や草葉の汚れを洗い落としていく。
(やっぱり……)
傷口が
ローガンに
火が付いたように泣くテオに、ローガンが優しく声
「これ、
若い夫婦に見せる。セイヨウムラサキにトウキやごま油を混ぜて作製する昔からある軟膏だ。
「材料は、奥さんが持って来てくださったターナルです。
青い顔で母親が
「お子さんの傷口に
「お願いします」
父親がきっぱりと言い、エミリアは床に両膝をつく。
ローガンが塗りやすいようにテオの左腕を
「痛いよね。よくなるようにお薬を塗ろうね」
エミリアはテオに言い、薬瓶から紫雲膏を
(フェアリージュ様。どうか、あなたの加護をこの子に)
目を閉じ、聖句を
エミリアは軟膏を指に
その時だ。
絹糸のような光は、
その後、再びの
だが、まばたきを二度する間に、光は消え失せた。
「……な……っ」
息を
無言で
途端に、テオが泣き
「テオ……」
母親が
母親だけではない。父親もだ。
エミリアは地面に両手とお
「……なんてこと……」
唇から言葉がこぼれ出た。
さっきまで熱を持ち、ざくりと赤い傷口を
「治った……」
目を見開いて呟く父親に、エミリアは
ないのだ。傷口が。
軟膏だけ残し、
「もう、痛くない」
泣きすぎたからなのか、
それに続くのは父親の号泣と、エミリアへの感謝の言葉だ。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
女性は夫に抱き付き、彼の腕の中のテオに
「ど、……どういうこと」
事情が吞み込めないエミリアは、ただただ、喜び合う親子を見る。
なにが起こったのだ。これは、どういうことだ。
そんなことばかりが頭をぐるぐると
「……フェアリージュの聖女」
茫然と親子を
首をねじり、自分を背後から支える彼を見上げる。
彼もまた、自分を見ていた。
黒い瞳で。
「あ、あの……。本当に、お代はこれでよろしいんですか……」
母親の声に我に返る。
「ええ。あの……。お大事に」
ぎこちなく笑って受け取ると、母親と父親はそろって深々と頭を下げ、テオを
ぱたん、と。
「あんたはやっぱり聖女だ! すぐに王都に
「何言ってんの! そんなわけないじゃないっ」
エミリアも立ち上がり、ローガンに向かい合う。身長差が大分あるから、ほぼ
「聖女は、シエナ
「だけど、あんたは今、
「なにかの
「偶然って……。ありえないだろう、
「やめて! もう、
両手で耳を
「私が聖女であるはずがないのっ!」
胸の空気を一気に
そう。
自分が何かに選ばれることなんてないのだ。
いつだって、なんだって、一番に欲しいものは〝
前世も、そう。就職を希望したところは
常連客の笑顔を見て、「これでよかったんだ」と自分に言い聞かせていただけだ。
その後の
友達の
そこでも、自分は、「これでよかったんだ」と場を去ることしかできなかった。
現世だってそうじゃないか。
神官たちに無能だと
だが、その地位は、あっさりと、
自分は、ただ、席を
誰かにとっての〝本物〟が現れるまでの、代役でしかないのだ。
期待したくない。これ以上傷つきたくない。
いや、
誰かを失望させたくないのだ。
祖父を。両親を。神官を。
(ローガンにまで、がっかりされたら……。期待させておいて、『ああ、やっぱり、こいつは
不意に、ぼろり、と目から
「……エミリア……」
ローガンの声を
ばたり、と音を立てて後ろ手に扉を閉める。
ぽろり、とまた涙が頬を伝い、丸めた
(……え……?)
その、涙で
そこに、見知らぬ男がいた。
この辺りでは
エミリアは
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