一章③

 エミリアが教会領ホーロウにとうちやくして一か月がとうとしていた。

 洗い終わった薬草ターナルの束を手に、教会のとびらを開いて、思わず足を止める。

 そこに、人がいたからだ。

ずいぶんと、店らしくなりましたね」

 くるりと振り返り、お久しぶりです、とあいさつをしたのはジョンだ。

「でしょう? まだ、開店したばっかりなんだけど」

 笑いながら、エミリアは礼拝室の中を見回した。

 窓にカーテンをかざり、さいだんを移動させてついたてで区切った。

 正直、これだけでだいぶん、〝礼拝室〟から〝てん〟らしくなるのだから不思議だ。ステンドグラスさえ、てきなインテリアに見えてくる。

 食器保管庫のたなを持ち込み、とりあえず作ってみたやくざいびんをいくつか並べると、自分の中ではもう、かんぺきに〝薬局〟だった。

「本当はカウンターが欲しいんだけど……」

 苦笑いをかべ、木靴サボを鳴らして、衝立の奥にターナルを持っていく。

 そこには、長机が二つ。

 一つの長机には実験器具を並べて薬の作製用にしており、もう一つの机は、本来カルテ管理用にするつもりだったのだが、現在そこまでかんじやが来ない。というか、せつけんしか売れない。薬局なのにこれでいいのだろうか、と最近なやみ始めている。

 ターナルの束を空いた場所に置き、エプロンを外した。ついでに、ハンガーにかけていた白衣に手をばし、手早く羽織ると、空気が動いたからだろう、昨日試作した消毒用アルコールのにおいが鼻先をかすめる。

 コルクせんをした三角フラスコを手に取り、目の前にかざしてみた。無色とうめいなそれからは、いアルコールの匂いがする。昨日、ワインの蒸留をり返して作ってみたのだ。

(しっかりふうをしてるんだけど……。すぐ成分がけちゃいそうだな)

 むう、と口をへの字に曲げると、ついたてしに、ジョンとローガンの声が聞こえて来た。

「あ───!! 団長……っ。って、ちょっと待って! なんで出て行くのっ」

「うるさい。ええい。まとわりつくなっ! 手紙だけ置いてさっさと帰れっ」

「相変わらず、照れ屋ですねぇ。素直にこの再会を喜んでくださ……」

「返事は明日あした、用意する。また来い。帰れ」

「なんでっ!! もう少し、ぼくをねぎらって!!」

 ケンカしているのか、仲が良いのか。エミリアはくつくつと笑いをらす。

「ねぇ、団長。この棚に並んでいるのはどんな薬なんですか? 殿でんに聞かれるんですよ。うまくいっているのか、とか。ちゃんと生活できてるの、とか」

「俺に聞かれても知らん。あいつはどこに行ったんだ。そして早く帰れ」

 たんたんとしたローガンの声に、エミリアは三角フラスコを持ったまま、衝立から出た。

とうびんに入っているのは、うんこう。傷口とか火傷やけどなんこうなの。さっき持ってたターナルから成分をちゆうしゆつしてるのよ」

 テーブルの上に三角フラスコを置き、棚に近づく。油紙で封をした小さなとうつぼを持ち上げる。てのひらに乗るほどのサイズだ。

 紫雲膏は本来セイヨウムラサキから作るのだが、似た成分を持つターナルという花で代用している。

「へえ。そっちのガラスびんはなんです? ハーブですか?」

 ジョンが指さすのは、セリンの樹皮だ。こちらは西洋しろやなぎと非常に似ている。

「そう。あの樹皮にはちんつう効果をもたらす成分が入っているの。水で出して使うんだけど……。あ。そうだ。妃殿下にポプリを作ったの。わたしてくれる?」

 エミリアがジョンにたずねると、彼はぱちぱちとまばたきをした。

「妃殿下に、ですか?」

「ずっと片頭痛で悩んでおられるでしょう? かおりで落ち着くらしくて……」

 なるほど、とジョンがうなずく。

「聖女としては役に立てなかったけど……。妃殿下に、何かご恩は返したくて……」

 エミリアの言葉に、ジョンはひとなつっこい笑みを浮かべた。

「では、明日団長の手紙と共に受け取りに上がります。妃殿下はきっとお喜びになりますよ」

 ほ、とエミリアはあんの息を漏らし、それからこしをかがめた。

「石鹸も作ったから、これもいつしよにどうかな」

 棚の一番下に置かれた四角い石鹸をまみ上げると、ジョンがおどろく。

「それ、石鹸ですか。うまくできているじゃないですか」

「そう、なのよ……」

 エミリアは右手で石鹸を持ったまま、左手であごを摘まむ。

 これはちょっと自分でも予想外なぐらいの仕上がりなのだ。

 石鹸とは、油を水酸化ナトリウムで鹸化させたもののことだ。

 水酸化ナトリウムがまだ発明されていない現状では、他のもので代用するしかない。じゆうそうがあればいいのだが、天然重曹は今までのところ、この世界で見たことがない。ということは、水と塩を電気分解して重曹を作らなくてはいけないのだが、その電気がない。

 仕方なく、前世のおくたよりに、灰汁あくと油で作ってみることにした。

 学生時代に実験で作った時、米油を加えるとかくてき簡単に固まったことを思いだして加えてみた。ローガンにたのんで交代でかくはんを数時間行ったところ、ちゃんと鹸化が起こったのだ。しかも、固形化した。

「予想以上にうまくできたのよね……。絶対液体石鹸になると思ったのに」

「あれだけ必死にかき回して、『失敗しました』だったら、俺はおこる」

 まじめにローガンにてきされ、エミリアはほおく。

「そうね。きっとローガンがいつしようけんめい攪拌してくれたからだと思う。つうはジューサーとかミキサーで、がーっとやるから」

 言ってから、しまった、と口をつぐむ。

 ジューサーもミキサーも、まだこの世界には欠片かけらもないのだ。

 だが、ふたりともかんはなかったようだ。実験器具の一つだとでも思っているのだろう。聞き流している。

「これ、売れてるんですか?」

「これしか、売れないんだ」

 断言するローガンに言い返したいのだが、事実なのだからどうしようもない。

 薬局開設当初、客寄せのために石鹸のデモンストレーションをしたのだ。

 いきなり、薬を売りつけるよりも、こういった日常的に使う製品の方が受け入れやすいだろうと、深く考えずに村長に説明をし、村人に薬局に集まってもらった。


『固形石鹸ですか』

 エミリアが差し出した石鹸を、村人たちはしげしげと見つめた。

『そうなんです。これだとほら、液体石鹸とちがってけいたいも保存もしやすいでしょう? 小分けにして量り売りも対応しますよ』

 営業用スマイルを浮かべて説明をしたが、主婦らしい女性がまゆを寄せた。

『……でも、石鹸の量が少ないと、結局あわたないし、よごれも落ちないでしょう?』

 そうだそうだ、と女性じんがそろって頷く。

『実際、どんなものかやってみたらどうだ』

 ローガンに言われ、エミリアは石鹸を小さめに切り分けた。ナイフにある程度のていこうを感じるほど、石鹸はしっかりと固まっている。

 これなら、泡立つだろう、と思うものの、ここで失敗すれば宣伝にならない。

 どうか、どうかフェアリージュ様、よろしくお願いします。薬局の存亡にかかわります、と心の中でひたすらいのった。

『じゃあ、この汚れを落としてみましょうか』

 こわばった笑みを浮かべながら、あらかじめ用意していたどろよごれのついたきんを取り上げる。その汚れ具合までじろじろと見られたが、文句が出なかったということは、「あれが落ちるのなら合格」といったところなのだろう。

 エミリアはテーブルの上に置いたおけに、布巾をける。じわり、と水にどろにじんだ。

 小さく切り分けた石鹸を、その布巾にこすりつける。

 たんに。

 ふわり、と甘い花の香りがした。

『……ん? こうりよう、入れてないんだけど……』

 思わずつぶやき、もむようにして石鹸を水の中でこすった途端、ぶわり、と大小さまざまなあわった。

『おおっ。すごい……っ』『こんなに泡立つせつけん、見たことない』

 いや、私だって見たことない、と、桶からあふれ出す泡を見て、エミリアはあつにとられた。

『汚れはどうですか?』

 主婦にうながされ、エミリアは我に返る。泡が多すぎて桶の中が見えないので、手探りでエミリアは布巾を引っ張り出した。

 水と泡をしたたらせる布巾を見たしゆんかん、村人の数人が、勢いよく手を上げた。

『その石鹸、買いますっ!』『うちも!』

 それほど劇的に、石鹸は布巾の汚れを落としていたのだ。


(……泡立ち成分とか、汚れを分解するこうとか入れてなかったんだけどなぁ……)

 当時のことを思いだし、しげしげと、石鹸を見つめる。

 なんのへんてつもない、ただの四角い石鹸。村人はそのせんじよう能力と泡立ちに驚いていたが、だれよりきようたんしたのは実はエミリアだった。

「思うに、高いんだろうなぁ」

 ローガンがうでを組み、顎で薬の並ぶたなを示した。

やすやすと手が出せる商品ではないだろう、この値段」

「……………そう、なのよ」

 がっくりとエミリアはかたを落とす。村に来た当初、男たちも言っていた。

『薬があっても、高ければ買えねぇよな』と。

 石鹸だってそうだ。村長やかくてきゆうふくそうな身なりをした村人はこうにゆうしてくれたが、うらやましそうにそれをながめるだけの人が大半だった。

「王都とはちがって、正直、まだへい自体を持っていない人もいるんじゃないんですか?」

ぶつぶつこうかんで事足りる部分もあるぞ、この村」

 ローガンとジョンの会話に、さらに、ずーんとしずむ。

「えー……。どうしよう。量を減らして値段を下げようかなぁ」

「それで利益が出るのか?」

 ローガンに指摘され、うう、とうめく。そうなのだ。そこなのだ、と頭をかかえる。

「なぁ。不思議だったんだが」

 腕を組み、ローガンがエミリアにこくとうを向けた。

「あんた、こんなことに興味があったのか? 石鹸作りとか、薬作りとか」

 改めて問われ、エミリアは息をむ。まさか、『前世の記憶がよみがえったもので』と言えるわけがない。

「……そ、……う、なのよ。うん。でね。……利益率を計算しなくちゃね……」

 もごもごと言葉をにごしている間に、ローガンはジョンをどん、ととびらの方に押しやった。

「帰れ」

「冷たいっ。冷たいけど、そこもいい!」

「気色の悪いことを言うな。早く視界から消えろ」

「じゃあ、明日あしたまた王太子殿でんの返事を受け取りに来ます。エミリアじようー。さよならー」

 あわててしやくをすると、ローガンにたたきだされるようにジョンは出て行った。

(……なにはともあれ、一度、ちゃんと紙に書いて利益を計算してみよう)

 自分自身に気合を入れた時、かさり、と軽い音がする。

 見やると、ローガンがかべにもたれて手紙を読んでいた。はっきりと見えないが、ふうとうに押されたふうろうは王太子のものだ。さっきジョンが運んできたものだろう。

 かさり、かさり、とローガンは次々に紙をめくる。

 長いまつげせられ、瞳は一心に文字を追っていた。

 ただ、手紙を読んでいる、という姿なのだが、みようきつけられる。

 きゆうていにいる時のようにごうしやな服を着ているわけでも、えのいいはいけんをしているわけでもない。周囲に部下を従えているわけでもなかった。

 それなのに、目がはなせない。

 それは、の姿だからだと気づいて、胸が高鳴った。

 しん殿でんでも、王都でもすきのない彼が、なにも取りつくろうことなく、ただ無心に自分の前で手紙を読んでいる。

 そのじようきように、ぱくり、と心臓が大きくひとつ、はくを打つ。

 どうが聞こえたかのように、ふ、とローガンが顔を上げた。視線が合う。

 気まずさにたじろいだが、ローガンは手紙の内容に興味があると思ったのだろう。

「王太子殿下からの手紙だが……。どうも、最近の王都はぶつそうらしい」

「物騒?」

 表面上は平静をよそおってたずね返すと、ローガンは手紙をていねいに封筒にもどした。

しようき出しが、ますますひんぱつしているそうだ」

 エミリアはまどいながらも尋ねる。

「でも、神官が聖具を使ってじようしているんでしょう?」

「ああ。負傷した人間については、シエナが回復させている」

 ほ、と顔をゆるませ、エミリアは笑う。

「ほら、ね? シエナ嬢は聖女だもの。瘴気の噴き出しが頻発しても、そのことでをした人をいやすことができるからだいじようよ」

 だが、ローガンは険しいかおくずさなかった。

「植物も、どんどんれていっているらしい」

「植物が?」

 エミリアは目をまたたかせて問い返す。

「花はつぼみのまましぼみ、実は熟すことなく落ちる、と」

 ローガンは封筒を上着の内ポケットにしまうと、まゆを寄せる。

「これも瘴気の頻発に関わっているのか?」

「私に聞かれても……」

 言ってから、肩をすくめた。

「でも大丈夫よ。本物の聖女が王都にいるんだもの。私と違って、きっとうまく解決してくれるわ」

 エミリアは力なく笑う。シエナは自分とは違う。〝にせもの〟ではないのだ。

「……本物の聖女、ね」

 ローガンが誰ともなく呟いた時だ。

 あらあらしく複数の足音が近づいてきた。

 とつにローガンが左手でエミリアを引き寄せ、右手で佩剣のつかにぎる。

 がたり、と大きな音を立てて扉が開いた。

「あ、あの……」

 入ってきたのは夫婦とおぼしき若い男女だ。

 女性の方は腕いっぱいにターナルの花束を抱えてふるえており、男性の方は子どもを抱えていた。

「どうかしましたか……?」

 エミリアが尋ねる。

「テオが……」

 そう言って男性はゆかりようひざをついた。ごつん、とにぶい音を立てたが、男性は意にかいしていない。真っ青な顔で差し出すように腕の中の子どもをエミリアに見せている。

「……これは」

 ローガンがついえさせた。開け放した扉からき込む風に乗り、い血のにおいがエミリアのところまで届いてくる。

くさりをしていたんです。十分にきよを取っていたのに……。いや、取っていたつもりだったのに……。むすの腕を切ってしまって……」

 男性の語尾がなみだで濁る。それにかぶさるのは女性の悲痛な泣き声だった。それにつられたのだろう。テオと呼ばれた子どもが、大声で泣き始める。

 知らずにエミリアはローガンのそでを握りしめ、若い夫婦に近づいていた。

「あの、あの……。お願いです」

 子どもを見ようとした矢先、視界いっぱいにターナルの花束が広がる。

「これ……、あの」

 戸惑うエミリアの前に、女性が花束を押し付けてくる。ローガンが腕を差し込み、無言で見やると、はじかれたように距離を置き、今度は床に両膝をついた。

「王都からいらっしゃったおじようさまが、毎日ターナルやガルシャをんでおられると聞きました。それをせんじて薬にするのだとか……。お金は……、お金はないんです。だけど、これで……」

 テオの泣き声に負けぬよう、女性は必死に声を張っている。小刻みにくちびるが震えるたび、目から涙があふれていた。

「これで、薬を……。ゆずってもらえませんかっ」

「お願いします、お願いしますっ」

 そのとなりで男性も必死で頭を下げる。ローガンがちらりとエミリアをいちべつした後、口を開いた。

「馬を出してやろう。一番近くの医者はどこだ」

「そんなお金……っ! それこそありませんっ」

 ローガンと若い夫婦のやり取りを聞きながら、エミリアはテオを見る。

 ひだりうでの傷だ。草刈りがまで切った、という通り、じようわんからひじまでまつな服がけ、血でよごれている。

(だけど、この傷……。もう、血は止まっているのかも……)

 目をらす。肘からしたたっているようには見えないし、衣服にしみ込んだ血も量を増しているように感じない。

 なんとかしてやりたい。

 どくん、と強く心臓がはくどうした。

〝癒しの力〟はないが、自分には前世でつちかった知識がある。

 できるかもしれない。役立てるかも。

 その気づきと判断が、エミリアの身体からだき動かした。

「ローガン、の水をたらいんできて」

 いつの間にか、きつく彼のそでぐちを握りこんでいたらしい。離そうと思うのに、指がかじかんでいる。仕方なく、左手で右手の指を引きはがし、彼を見上げる。

「出来るだけたくさん」

 お願いします、お願いします、とり返す夫婦の声がえる。薬局内には、子どもの泣き声だけが一層強くひびいた。

「なんとかなりそうか?」

 静かにローガンが確認する。

 エミリアは彼のひとみを見つめ、大きく首を縦にった。

「だって、お代を持参された患者さん第一号じゃない。なんとかしなくちゃ」

 そう言って女性がかきいだく花束を指さし、ほほ笑む。

「それ、使わせてくださいね」

 たんに、若い夫婦がえつらした。

「水だな。持ってくる」

 ローガンがエミリアの隣をはなれ、出て行った。

「い、いったい、どうしたら?」

 ついたての向こうに取って返すエミリアに、父親が尋ねてくる。

「その子の服をがしてください。とりあえず、応急処置をしましょう」

 調ちようざい用の長机の上から清潔なきんを数枚ひっつかんで戻るころには、父親は母親と手分けしてさけぶテオの服を脱がせていた。

「痛いよね。ごめんね。傷を見ようね」

 エミリアは机の上に置いた三角フラスコのせんき、自分の手に振りかけた。

「持ってきたぞ」

 ローガンが盥になみなみとみずを汲んで戻ってきたので、テオのすぐそばに置いてもらう。

「傷口を洗おうね」

 声をかけるが、おびえたようにテオは悲鳴を上げ、父親に右手一本でしがみつく。父親は、よしよしとその背をで、エミリアに目配せをした。こうそくしてくれるらしい。母親は、というとこちらは震えていて動けそうにない。

 エミリアはテオの腕に一気に水をかけ、血や草葉の汚れを洗い落としていく。

(やっぱり……)

 傷口があらわになるにつれ、ほ、とかたのこわばりがゆるむ。血はもう止まっている。血管を大きく傷つけているわけではないようだ。親も子も、いきなりの出血量におどろいただけだろう。

 ローガンにわたされた布巾で水をぬぐい、次に、消毒用アルコールで傷口を洗い流した。

 火が付いたように泣くテオに、ローガンが優しく声けをする。エミリアは立ち上がり、たなからくすりびんを取り上げた。

「これ、うんこうというなんこうなんです」

 若い夫婦に見せる。セイヨウムラサキにトウキやごま油を混ぜて作製する昔からある軟膏だ。

「材料は、奥さんが持って来てくださったターナルです。どくこうきん作用がありますから、むことを防げると思います」

 青い顔で母親がうなずき、父親は額にあせをにじませて子どもをきしめている。

「お子さんの傷口にってもいいですか?」

「お願いします」

 父親がきっぱりと言い、エミリアは床に両膝をつく。

 ローガンが塗りやすいようにテオの左腕をつかんだ。父親がどうを強く抱く。

「痛いよね。よくなるようにお薬を塗ろうね」

 エミリアはテオに言い、薬瓶から紫雲膏をすくいだした。

(フェアリージュ様。どうか、あなたの加護をこの子に)

 目を閉じ、聖句をつぶやく。ふわり、と花のほうこうを感じて目を開くが、特に異変はない。

 エミリアは軟膏を指にせ、それから傷口にたっぷりと塗り込む。

 その時だ。

 きようれつな光が傷口から立ち上った。

 絹糸のような光は、つる植物に似た動きで子どもの腕を包み込む。

 その後、再びのせんこう

 だが、まばたきを二度する間に、光は消え失せた。

「……な……っ」

 息をんだのは、他でもないエミリアだ。

 無言でしりもちをつく。うっかりてんとうするところを、ローガンに背後から支えられた。

 途端に、テオが泣きむ。

「テオ……」

 母親がぼうぜんと、我が子の左腕を見ている。

 母親だけではない。父親もだ。

 エミリアは地面に両手とおしりをついたまま、その視線を追った。

「……なんてこと……」

 唇から言葉がこぼれ出た。

 さっきまで熱を持ち、ざくりと赤い傷口をさらしていたテオの左腕。

「治った……」

 目を見開いて呟く父親に、エミリアはあいづちすら打てない。

 ないのだ。傷口が。

 軟膏だけ残し、れいに消えている。

「もう、痛くない」

 泣きすぎたからなのか、ずいぶんといがらっぽい声でテオが父親を見上げる。

 それに続くのは父親の号泣と、エミリアへの感謝の言葉だ。

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 女性は夫に抱き付き、彼の腕の中のテオにほおずりをして泣きくずれる。

「ど、……どういうこと」

 事情が吞み込めないエミリアは、ただただ、喜び合う親子を見る。

 なにが起こったのだ。これは、どういうことだ。

 そんなことばかりが頭をぐるぐるとめぐる。

「……フェアリージュの聖女」

 茫然と親子をながめていたエミリアの耳に入ってきたのは、ともすれば聞きのがしそうなほど小声の、ローガンの声だ。

 首をねじり、自分を背後から支える彼を見上げる。

 彼もまた、自分を見ていた。

 黒い瞳で。

「あ、あの……。本当に、お代はこれでよろしいんですか……」

 母親の声に我に返る。

 はじかれたように身体をふるわせると、エミリアに向かって申し訳なさそうに花束を差し出していた。

「ええ。あの……。お大事に」

 ぎこちなく笑って受け取ると、母親と父親はそろって深々と頭を下げ、テオをかかえて教会を出て行った。

 ぱたん、と。

 とびらが閉まる音が聞こえた途端、ローガンは立ち上がり、口を開いた。

「あんたはやっぱり聖女だ! すぐに王都にもどるぞ!」

「何言ってんの! そんなわけないじゃないっ」

 エミリアも立ち上がり、ローガンに向かい合う。身長差が大分あるから、ほぼあごが上がるほど彼を見上げてにらみつけた。足元に花束が散る。

「聖女は、シエナじようよ!」

「だけど、あんたは今、せきを起こしたじゃないか! 傷を治した。しかも、かんぺきに」

「なにかのぐうぜんよ、あんなの!」

「偶然って……。ありえないだろう、つうに考えて!」

「やめて! もう、だまって!」

 両手で耳をふさぎ、ローガンにりつけた。

「私が聖女であるはずがないのっ!」

 胸の空気を一気にき出す。

 そう。

 自分が何かに選ばれることなんてないのだ。

 いつだって、なんだって、一番に欲しいものは〝だれかのもの〟だった。

 前世も、そう。就職を希望したところはぜんめつ。仕方なく祖父亡き後の薬局をぐことにしたにすぎない。

 常連客の笑顔を見て、「これでよかったんだ」と自分に言い聞かせていただけだ。

 その後のれんあいもそうだ。

 友達のしようかいで知り合った拓斗は、こんやくまでしておきながら『ぼくのことを本当にわかってくれるのは、彼女だけだ』と、拓斗のこうはいを連れて来た。

 そこでも、自分は、「これでよかったんだ」と場を去ることしかできなかった。

 現世だってそうじゃないか。

 神官たちに無能だとさげすまれても、両親に見放されても、必死に聖女としての務めを果たそうと努力した。きっと、いつか〝いやしの力〟が発動すると信じてがんってきた。

 だが、その地位は、あっさりと、とつぜん現れたシエナ・キシルという女性に持っていかれた。

 自分は、ただ、席をゆずるしかない。

 誰かにとっての〝本物〟が現れるまでの、代役でしかないのだ。

 期待したくない。これ以上傷つきたくない。みじめな気持ちを味わいたくない。

 いや、ちがう。

 誰かを失望させたくないのだ。

 祖父を。両親を。神官を。

(ローガンにまで、がっかりされたら……。期待させておいて、『ああ、やっぱり、こいつはにせものだった』って思われたら……)

 不意に、ぼろり、と目からなみだがこぼれおちた。

「……エミリア……」

 ローガンの声をはらうように、エミリアは外に出た。

 ばたり、と音を立てて後ろ手に扉を閉める。

 ぽろり、とまた涙が頬を伝い、丸めたこぶしで乱雑にぬぐった。

(……え……?)

 その、涙でにじむ視界に、みような〝赤〟が混じった。

 とつに首をねじる。教会と農道を区切る、低いかきの向こう。

 そこに、見知らぬ男がいた。

 この辺りではめずらしい赤毛だ。商人なのかもしれない。荷を積んだロバを引く男に何か指示をしていたが、エミリアと目が合うと、愛想笑いをかべてあいさつをしてくる。

 エミリアはしやくもそこそこに、泣き顔を気取られぬように、走り去った。

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