一章②

 目当ての教会を見つけたのは、王都を出てから三日ってのことだった。エミリアは、ほっとかたの力をき、笑みを漏らした。

「ねぇ。あれがそうかな」

 ぽくぽくと馬が鳴らす足音にエミリアの声が交じる。すぐそばでづなにぎるローガンが、ちらりといちべつをくれた。

「ああ。多分、あれだな。はい教会だと言っていたが……。状態はいいな」

 まだ遠目に見える程度だが、今後自分の住まいになる家が見えてくると、新生活に向けての期待に胸がふくらんだ。

 ふわりと風がエミリアのはちみつ色のかみを揺らして過ぎていく。髪先が宙に流れるままに視線をただよわせた。一面、視界に入るのは緑の海だ。小麦らしい。まだ、はつけていないが、いずれも状態はよさそうだ。

(……しようき出しがひんぱつしているって聞くけど……。この辺りは違うのかしら)

 きょろきょろと見回していると、農作業をしているらしい村民と目が合った。しやくをすると、あわてて頭を下げてくれるが、その後、げるようにどこかに行ってしまった。

(……けいかい、されてる……?)

 ぽりぽりとあごき、なんだか苦笑する。こわがられたとしたら、絶対にローガンのせいに違いない。この強面の騎士に逆らう男は、道中一人もいなかった。きっと、エミリアがひとりで旅をしていたら、こうはいかなかっただろう。

 しん殿でんを出発してからのことをり返り、エミリアは内心ため息をつく。本当に彼がいてくれて助かった。自分ひとりでは、宿すら取れなかった。

 不慣れなことにまどうたび、ドヤ顔でいやなことを言う彼だが、腹が立って言い返したりしているうちに、時折、間欠泉のように噴き上げる今後の不安や、聖女になれなかったみじめさがまぎれたことは確かだ。

 だが、ローガンに甘えっぱなしではいけない。彼には彼の人生があるのだ。

 これからは、自分だけでがんらなくては。

 ぺしぺしと両手でほおたたいて気合を入れ、それから一本道の先を見た。

 間近に見えてきたのは、二等辺三角形のようなかわら屋根の建物だ。

 れている感じはなく、小麦畑の真ん中にぽつん、と建っている様は愛らしい。

 周囲をめぐるいしがきは随分と低く、建屋自体が道から丸見えだ。

 一階に広く建物はび、二階部分にあたるものは見当たらない。独立して、もう一つ建物が見えるが、倉庫だろうか。庭らしい空き地には、かつしやや洗い場のためのいしだたみが見え、そのそばには、何故なぜだか二頭のヤギが草をんでいる。

てき、素敵、素敵!! なんか、スローライフって感じ!)

 思わずさけびだしそうになった時だ。

 乗っている馬の耳がぴくり、とふるえる。背後を気にするようにせられた様子に、ローガンが、振り返った。

「……なんであいつが……」

 乗馬用の革ぶくろをつけた手で、額をおおってうめく様子にエミリアは首をかしげる。どうしたの、とたずねようと開いた口に、いきなり声が飛び込んできた。

「間に合った───っ!!」

 エミリアだけではなく、馬も首をねじる。同時に体勢をくずしかけたが、とつにローガンが手を伸ばして支えてくれた。

「団長──────っ」

 つちぼこりを盛大に巻き上げながらばくそうしてくるのは、くりの馬だ。じようの青年は鞍の上から伸びあがり、手綱も持たずに、器用に両手を振っていた。

「……あれ、ジョンだよね」

 青竜騎士団でローガンのしようのような役目をしていた青年だ。くりいろのくせ毛や、若葉色の大きなひとみが、非常に愛らしい。ローガンのような武骨さや厳めしさがないからか、きゆうていでも神殿でも彼に好感をいだく人間は多い。

ひとちがいだろう」

 ローガンはあっさりと言い切ると、くるりと背を向ける。馬の手綱を引いて歩き出そうとしたところを、ジョンの悲鳴が追いかけて来た。

「ぼくだよ────っ! 団長っ」

 鞍から飛び降りるやいなや、まろびながらもローガンのこしに背後から取り付く。その後ろを彼の馬がのんびりと並足で近づき、エミリアの乗っている馬にあいさつするように鼻を押し付けていた。

「ええいっ! じやだっ!」

「お久しぶりですっ! ぼくに会えなくてさびしかったですか!? ぼくは寂しかったです!」

 じやけんに振りほどかれながらも、ジョンの顔は喜色にあふれている。

「寂しくなどない。非常にのんびりと心豊かに過ごした」

「またまたぁ。団長は照れ屋なんだから。あ、エミリアじよう! ごきげんよう!」

 にぱり、と微笑ほほえみかけられ、苦笑するしかない。

(なんというか……。ローガンのことが好きすぎるのよね……)

 ぞんざいにあしらわれながらも、ジョン自身は満足そうな笑みをたたえている。年の近い兄弟がじゃれあっているようにも、子犬が大型犬にまとわりついているようにも見える。

「お前、なんでここにいるんだ。今は、マッケイつきになったはずだろう」

 ぜんとローガンが問う。マッケイきようは青竜騎士団の副団長だったはずだ。ローガンが辞任したことを受け、きっと彼が団長にり上がったのだろう。そのため、ジョンも彼つきの小姓になったようだ。

「いや、それがですね。王太子殿下より特務を命じられまして」

 ジョンは、えっへんとばかりに肩をそびやかせた。

「すごいじゃない」

 エミリアがはなやいだ声を上げると、ジョンは、もっとめてとばかりにローガンに視線を送る。だが、ローガンは無言で先をうながした。

「まあ、その内容なんですが、王太子殿下からの手紙を、すみやかに団長のところにお届けせよ、と。で、団長からの返事やきんきよう報告を、また王太子殿下のところに……」

「ようするにでんしよばとか」

「特務って、言ったじゃないですか」

 む、とジョンは口をとがらせたが、すぐに上着の内ポケットから、一通の真っ白な手紙を取り出した。

「ということで、記念すべき最初のお手紙です」

 ローガンに差し出された手紙のふうろうは、ほうじゆを抱くりゆう。王太子のもんだ。受け取るや否やふうを開き、手紙に視線を走らせる。

「なんて書いてあるの?」

 こうしんから尋ねたものの、しまったと口を手で覆う。王太子殿下直々の手紙だ。内容を問うなど軽率だったかもしれない。

「……ったく。俺の退団については保留。今現在、俺は長期きゆうあつかいになっているらしい」

 ローガンが舌打ちしながら返事したことにも、その内容にもおどろいた。

 自分で団長の地位を退いたが、王太子が認めなかったようだ。

「言っとくが、王都にはもどらないからな」

 先を制し、エミリアをじろりとにらんで、ローガンは手紙をしまう。そして、再びづなを手に取って馬を引いた。

「何も言ってないじゃない。ねぇ」

 エミリアは頬を膨らませ、ジョンに声をかける。

「ねー。団長って、そういうとこありますよねぇ。ぼくもね……」

「うるさいな、お前ら」

 ぴしゃり、とローガンが話を断ち切るが、慣れているのかジョンはあっさりと話を変えた。

「あれが今回、おふたりがお住まいになるお家ですかぁ」

 愛馬の手綱を引き、ジョンはローガンに並ぶ。

「お前、帰れよ」

「そんな言い方ないじゃない。ねぇ、ジョン」

いんです。照れ屋なんです、団長は。本当はうれしいんです。ぼくにはわかるんです」

「わかってない。まったくだれも彼も、俺の気持ちなどじんもわかっていない」

「どんなお住まいか見てくるように、殿でんから言われてますので」

 口からの出まかせなのか本当なのか。しれっとしたジョンの顔からは判断がつかない。

 ローガンはもう反論するのもわずらわしいのか、大きなため息をひとつらしただけだ。

 二頭並んで、ぽくぽくと、はい教会に向かって歩いた。

ぼうがあればいいんだが……」

 小さく積んだ石垣のそばで馬を止めると、ローガンがきょろきょろとしき内を見回す。馬の気配に気づいたのか、二頭のヤギが小さく鳴き声を上げて、中庭の奥に入って行ってしまった。

「ヤギがいるってことは、なんらかの小屋はあるでしょう」

 ジョンも周囲を見回す。

「とりあえず、降りろ」

 エミリアに対してローガンが無造作にりよううでを伸ばして見せた。横座りしていたエミリアは、くらくくりつけられている荷物を支えに、体勢を整える。

 よいしょ、とばかりに上半身を彼に向けてかたむけた。

 ふわり、と宙にく感じが、いつしゆん身体からだを包む。だが、すぐに、がっちりと腰をローガンにつかまれ、鞍からおろされた。

「……あの」

 同時に、聞きなれない声に三人は反射的にり返る。

 背後にいたのは、数人の男性だ。かつぷくのいい中年の男性が、ぼうを取ってぺこりと頭を下げた。

「わしは、この村で村長をしております。この教会に今日からお住まいになる、というのは、みなさまでよろしいですか?」

 ローガンを見た男たちは一様に目を見開き、身体をこわばらせるが、エミリアとジョンに対してはまるでみをするような視線を向けて来る。なんとなくいたたまれなくなって、身を小さくしていると、ローガンがその視線をさえぎるように立ち位置を変えてくれた。

「今日からしばらく世話になる。よろしくたのむ」

 ローガンが愛想のかけらもない挨拶をしてくれることに、ほっとすると同時に落ち込んだ。そうだ、まずは挨拶をしなければいけなかったのだ。なんだかおどおどしていたら、さらに自分を見る村人の目が冷たくなったような気がした。

「こちらこそ。王都からいらっしゃるお客様のために、お住まいを準備するよう、となりむらの神官様に申し付かっておりました。どうぞ、中をご案内させていただきます」

 村長をふくめた男たちはへいふくせんばかりに頭を下げ、それから、先に立って教会へと歩き出す。

「馬を馬房に連れて行きましょうか」

「ああ。案内してくれたら、ぼくが連れて行きますよ」

 申し出てくれた男と共に、ジョンが二頭分の手綱を引いて中庭の方に歩いて行った。

「飼い葉は後で持ってきましょう。も使えるようにしていますので」

 その背を見送りながら村長が言う。

「それは助かる。あと、あのヤギはなんだ」

 ローガンがたずねると、村長はにっこり微笑んだ。

「乳がとれますよ。要らないのなら引き取りますが……」

「いるっ」

 引き取ってくれ、と言いかけたローガンより先にエミリアが答える。明らかにめいわくそうにローガンは顔をしかめた。

「世話なんてできんだろう、あんた」

「するするするするするっ」

「子どもか。絶対、ちゆうで投げ出して、おれがめんどうを見る気がする」

 ぶつぶつとローガンが文句を口にしている間に、村長がとびらを開いた。

「おふたりとも、どうぞ」

 促され、ローガンに続いて、エミリアも建物内部に足をみ入れた。

「……わあ」

 思わず声を上げる。

 見事なステンドグラスが見えたからだ。

 ながが五つほど並んだだけの小さな礼拝室だが、真正面にあるさいだん上部には、ヒナゲシをいしようした大型のステンドグラスがはめ込まれていた。ヒナゲシは大神フェアリージュを意味する花だ。

 エミリアはてんじようを見上げる。高い。大きな二等辺三角形の屋根は、明り取りのためでもあったらしい。色付けガラスが放つ様々な色合いの光が室内前方をいろどっている。

 小さく聖句を唱え、目を開くと、村長と目が合った。

「あの……。おじようさまは教会関係者の方なのでしょうか?」

 ためらいがちに問われて、思わずローガンを見上げた。

「お前たちはなんと聞いている?」

 逆に尋ねると、村長たちもたがいに視線を交わし始めた。

「王都から……、尊いお方がいらっしゃる、と。その……、それはだん様のことでしょう?」

 うわづかいに村長がローガンを見る。無言で促すと、おそるおそるまた口を開いた。

「黒いかみと黒いひとみの方は、王都でも特別に尊い方とお聞きしますので」

 黒髪こくとうは王家の血を引く者のとくちようだ。村長たちがローガンの容姿を見て驚いた原因はそれらしい。

「このむすめのことは?」

「ちょっと、指ささないでよ」

 ローガンの人差し指をパチリ、とたたいてやると、村の男たちがおそれおののく。

「特になにも聞いておりません。ただ、教会からのらいでしたので、その関係者かと思っていました。ここは長らく廃教会でしたので、新しい神官様がいらっしゃるのか、と」

「……まあ、教会関係者ではあるが」

 ローガンはあごをつまんでエミリアを見下ろしたが、特に何を言うでもない。どうやら、エミリアが王都を出された元聖女であることは知らないらしい。現に、ローガンに対してはの念をいだいているようだが、エミリアについては、「貴族のむすめ」程度の認識のようだ。

「この教会で、薬局を開こうと思うんですが……」

 村長に申し出ると、ぽん、と太くて分厚い手を打たれた。

「ああ! りよう関係者でしたか。この村には神官もいなければ、医者もいませんからなぁ。なるほど、これは助かります」

 ぺこりと村長は頭を下げるが、男たちは相変わらずさんくさそうにエミリアを見た。

「金持ちの道楽か」「薬があっても高ければ買えねぇよな」

 ひそひそと話す声がエミリアの耳にも聞こえてきた。

(……薬局うんぬんより、まずはしんらいしてもらわないと……)

 けいかいされるのは仕方ない。見た目で判断されるのも仕方ない、と自分自身に言い聞かせながらも、次第に顔が下を向く。

「ジョン。こっちだ」

 不意にローガンが声を上げた。

 扉付近で興味深そうに周囲をうかがっていたジョンは、にぱり、と笑顔を浮かべてけ寄って来る。ローガンは彼をむかえ入れるふりをしながら、視線を村の男たちに向けた。目が合うと、男たちは気まずそうに顔をらす。

「居住区はこっちか?」

 ローガンはぶっきらぼうに言い放ち、エミリアの手を引いて近寄せる。

(……かばって、くれたのかな……?)

 彼を見上げてそんなことを考える。そういえば、しん殿でんでも神官たちがエミリアに対して鹿にした態度を取った時も、さりげなく話しかけてくれたり、軽口をたたいて笑わせてくれたりもした。

「ええ、どうぞ、どうぞ」

 村長はせきばらいをり返して男たちに目配せをすると、礼拝室のさいだんわきに設けられた扉をけた。エミリアもあわててその後を追う。

 やはり、この教会には一階部分しか部屋が存在しないらしい。

 礼拝室の裏手に、ずらりと部屋が並ぶ形になっている。

 客室、居間、しんしつがふたつ。神官職部屋、食器保管庫、リネン室、浴室、ちゆうぼうという並びだった。

 神殿から送った荷物や、メイソンに頼んでこうにゆうしてもらった器具については、神官職部屋にぎゅうぎゅうにめられている。

「どの個人部屋もせまいですねぇ」

 多少こんわくしたようにジョンが言う。ローガンもうなずき、エミリアに尋ねた。

「あんた、だいじようか」

 ふたりとも心配をしてくれているようだが、全く問題はない。

 もちろんはくしやく家や神殿に比べればうんでいの差ではあるが、前世に暮らしていたアパートと似たようなものだ。戸建てになっただけ、広い。

「私は平気よ」

 胸を張って頷き、それから笑って見せた。

「じゃあ、ほどきからやっていきましょう!」



 その晩のこと。

 居間の扉が開く音に、エミリアはソファにそべったまま、目だけ動かした。

「……寝るなら部屋で寝ろ、部屋で」

 そこに立っていたのはローガンだ。を使った直後なのだろう。頭から大判のタオルをかぶり、ずいぶんとくつろいだ格好をしている。

「もう無理。もう、一歩も動けません。私のことは放っておいて。今日はここで寝ます」

 クッション性がいいとはお世辞にも言えないソファにうつせになり、エミリアはぼやく。

 張り切りすぎた。

 ローガンに「ひとりでも自分はうまくやっていけるのだ」と見せつけてやろうと考えたのがちがいだった。

 口から言葉といつしよに、うっかりたましいが出るのではないかと思うほどつかれ切っていた。

「まだ、ホーロウにとうちやくして一日もっていないぞ」

 あきれた声に、うう、とうめき声で返事をする。

 そう。

『まだ、団長のそばにいるんだ』とごねるジョンに、急ぎ書いた返信を持たせて追い出したのが、正午前だった。

 そこから、荷解きをしたぐらいまでは良かった。

 だが、お昼ご飯の準備をするためにかまどを使ったあたりから、だんだんと田舎いなか暮らしのごくが見え始めてきた。

 火をくべるために、まきを割ろうとなたり上げたたん、その重さでよろめいててんとう

〝ローガンの悲鳴を聞く〟という貴重な体験をする。

『あんたはものを持つなっ! 薪は俺がする。火種を作れ』

 火打石の使い方を教わり、なんとか火種を作ろうとあくせんとうするのだが、数十分経ってもうまくできない。ローガンが薪を準備し終わっても、火ができない。

 見かねたローガンが、自分の小刀に鉄鉱石を打ち付けて火種を作ってくれた。その間、わずか数秒。自分が要したあの時間はなんだったんだ、とがくぜんとする。

『……こっちはもういいから、水を運んで来い』

 ローガンに命じられ、水をから運ぼうと思って、つるおけに移すのだが、重すぎて運べない。仕方なく、桶ではなく、平桶にするが、それでも中庭から建屋に入るまでに大半がこぼれた。最終的に、たらいに水を入れて厨房のローガンに持参すると、『……もういい』と、残念な子を見る目で言われてしまった。

 その後、ローガンが用意してくれた昼食を食べた後、今度は、部屋をそうしようとしたのだが、とにかく、何もかもが体力勝負だ。

 馬の世話や薪のじゆうなど、ローガンが着々と物事を済ませていく中、エミリアはというと、モップと桶を持って、屋内をよろめいていたにすぎない。

「掃除機が欲しい……。全自動のやつ……」

 うらめしげにつぶやくと、ぎしり、とソファがかしぐ。わずかに頭を上げ、足元を見るとローガンが座っていたので、のろのろと横向きに寝位置を変え、ひざを曲げた。

「あんた、それでよく『田舎で一人暮らしする』って言えたもんだな」

 言われて、むっと来た。

「今日で要領はわかったから。もう、明日あしたからは大丈夫だもん」

 勢いだけの強がりは、ローガンも気づいているらしい。小馬鹿にしたように笑われ、さらに言いつのろうと口を開いたのだが。

「明日から、じゃなくて、のんびりやればいい。急いでなにもかも習得する必要はない」

 やわらかく、ぽんぽんと大きな手で頭をでられる。

 若干子どもあつかいされたような気がしないでもないが、その手つきや声音に、くすぐったくなるような優しさがふくまれていた。

「今後、この村のだれかを使用人としてやとおう。あんたのことがあるから、女性の方がいいだろ」

 ローガンが、背もたれに上半身を預けながら、エミリアに言う。

 ひとみがこちらに向けられる。つるり、とした黒曜石のような瞳だ。そこにいま、室内の明りが映りこみ、温かな色を宿していた。

「そうね。誰かお手伝いの人に来てもらえるようになったら、ローガンは王都にもどって」

「あんたを置いてか?」

 はは、とローガンはかわいた笑い声をらす。

「自殺こうだぞ、それは」

「それまでには、なんとか生活力をかくとくするわよ」

 相変わらず寝そべったまま、エミリアはローガンを見上げる。うすのせいで、彼のがっしりとした上背が見て取れた。なんだなぁ、とぼんやりと思う。

 きっと彼は、地道なたんれんと訓練によって、あの体格と筋肉を手に入れたのだろう。

(……ちゃんと、努力してきた人の身体からだだなぁ)

 れとするものの、心のどこかでくやしさもある。

 自分も王都では必死にがんってきたのに、と。

 それなのに。

 聖女にはなれなかった。

 それは自分の〝役割〟ではなかった。

「……私がちゃんと生活できるようになったら、本当にローガンは王都に戻ってね」

「なぜそこまで念押しするんだ」

 ばさり、とタオルを頭から外し、ローガンがわずかに首を傾げた。夜やみのようなくろかみが、とろりと室内の空気にける。

「王都には、あなたの居場所があるからよ。役割がある。戻った方がいい」

 くるり、と背を丸め、エミリアは膝をかかえる。その手に力がこもった。

「誰かに……。うばわれる前に」

 視線をローガンから外す。ひように結いもせずに流しているかみほおを流れ、顔をかくした。

 本当にそうだ、とエミリアは内心で苦く笑う。

 前世でも、現世でも。自分の居場所だと思った席は、誰かのためのものだった。

 聖女だと思って座っていた席は、シエナのために用意されたものだった。

「……あんたの居場所はここなのか?」

 ぎしり、とまたソファがきしんだかと思うと、長くてしなやかな指がエミリアの髪をき上げた。

 視界に現れたのはローガンだ。

「そうね。きっとそうなのよ」

 見慣れた騎士に、微笑ほほえんでみせる。

 両親の期待に応えられなかった以上、実家には戻れない。そもそも、聖女でないのであれば、王都にいる意味もない。

「そうか」

 ぎし、とまたソファが鳴る。視線だけ動かすと、ローガンが再びソファの背もたれに上半身を預けているところだった。

 彼のれ羽色の髪に、室内のだいだい色の光が宿るのをぼんやりとながめていたが、不意に気づいた。

(……よく考えたら、これからローガンとふたりの生活が始まるのよね……)

 昼間のせいせい小言を思い出してうんざりしたが、そうじゃない、と思い至る。

 ジョンが帰ってしまった今、この家には、彼とエミリアしかいないのだ。

 ぎしり、とソファがまた鳴った。ローガンが座りなおしたのだろう。エミリアの足裏に彼の身体がれる。

「うひぃぃ」

 みような声を張り上げて、エミリアは起き上がった。じたばたと手足を動かし、ソファのひじけにすがりつく。

「……どうした」

 あつにとられた顔で、エミリアを見ている。

「な、ななななな、なんでもないっ」

 言いながらも、視界に入ってくるのは、彼の広い胸であったり、しっかりと筋肉の張ったうでだ。さっきまで、「努力の結果」だなどと思っていたが、それはなにより男性らしいとくちようでもあった。

 自分だけでは持ち上がらない家具を軽々と移動させたり、みずおけを持ってよろけるエミリアを支えたり、とローガンは昼間、力仕事を随分と手伝ってくれた。

 あれは、自分に向けられた優しさではないのか、と気づいた途端、顔が熱くなる。

「……なあに、赤くなってんだか」

 ローガンがこうたんを上げて意味ありげに笑うから、さらに耳まで熱くなってきた。

「赤くなってないしっ! っていうか、近いしっ! はなれてっ」

「あんたをおそうほど女に不自由してない」

 言うなり、額を指ではじかれた。

った!」

「早くろよ」

 ローガンは立ち上がると、さっさと居間を出て行く。あとには、ゆでだこのように真っ赤になったエミリアだけがソファでひたすら熱を発散させていた。

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