第十話

「春香大丈夫?ちょっと心配しちゃった」


 座敷に腰掛けて鞄を置き、靴を脱いでいると、美鈴に声をかけられる。あの曲をリピートしないで正解だった。


「全然。ちょっと眠くなっちゃっただけ」


 そう言いながらも、靴を脱ぎ終えて、座敷に足を上げると、鞄を倒してしまった。

「ほら、やっぱり酔ってるじゃん」


 確かに、酔いは回ってきている。今の精神状態じゃ、普段通りに戻れないかもしれない。でも、もう、それでもいいかも。


「金山くん久しぶり」


 おー!という声とともにやってくる元気な返事は、昔の彼のままだけど、見た目がそうでないことは、SNSで既に知っていた。


「いつぶりだろ?あんまり金山くん集まりに来れなかったから、二年位?」

「そーだなー。松山とかその前もタイミング合わなかったから、めっちゃ久々だし」


 自分から話していける。もう純粋にこの飲み会を楽しめばいいんだ。


「そーいや、金山聞いた?松山、部活もうやってないって」

「それ、もうここ来るまでに話したから」

「そーそー聞いた。春香ちゃんも戻ってきたし、二軒目行こうよ」

「え、私待ちだったんだ。ごめん」

 二軒目という言葉に戸惑いつつ、謝罪を口にできた。


「金山の友達がバイトしてるとこあんでしょ?」

「そうそう。ここから歩いて行ける。そいつ店長と仲良くてさ、席取ってくれてるらしい」

「じゃあ、行きますか」


 誰かが放ったその言葉が合図となって、皆がスマホや財布などの小物類を手に取る。


「お会計どーする?」


 会話に参加できるようになりかけていたというのに、気持ちに迷いが生じる。


「適当に払っといて、後で合わせよ」


 二軒目に行って、純粋に楽しめば良いだけだ。もう、他に私を迷わせるものは無いはずだ。


「歩いてどれくらい?」


 普段の飲み会と変わらずに過ごせば良いだけの話だ。


「ほんと五分くらい。しかも」


 もう、夢のことは忘れてしまわないと。


「ちょい広めの喫煙ブースあるからさ、店内で煙草吸えんだよ」

「ごめん私、明日朝早いから帰んなきゃ」


 数人が私の声に反応して、こちらに視線を向ける。


「そーなの?せっかく集まれたのに」

「待っててもらったのにごめんね。先に言っとけば良かった」

「バイトとか?」

「そう、丸一日入ってる日だしさ」


 ならしょうがないかーと、さして残念でもなさそうに、あっさりとその視線はまばらに散っていった。私の発言が本当かどうかにも、たいして興味のない様子で。


 財布を開いて美鈴に千円札を三枚差し出すと、美鈴は二枚を抜き取った。


「今日あんまり楽しくなかった?全然喋ってなかったしさ。なんかごめんね」


 そう小声で囁く美鈴の声に、涙が出そうになった。なんで謝るのかはわからないけれど、旧友が丸眼鏡越しに見つめる瞳は、私の心を見透かしているようだった。


 店を出て、今時の若者の集団に手を振り、反対方向へと歩き出す。もうすっかりと、通りは夜に溶け込んで、昼の面影は見当たらない。音楽を聞かずにはいられず、鞄を開くと、イヤホンケースが開いていることに気づいた。右耳のイヤホンが無い。鞄の中に手を入れてもそれらしきものは見当たらない。トイレで音楽を聞いた時まではあったから、そこか、座敷か。思い当たる節はあるけれど、もうあの店には戻りたくないという思いが勝った。


 夢を諦めたあの店には、もう行きたくない。私の知らない松山くんが居たあの集団には戻りたくない。そして、二軒目で彼が煙草を吸っているところを見たくは無かった。


 左耳だけでも音楽に占有されたくて、スマホでノイズキャンセリングモードに切り替える。流れてきたのはさっきまで聞いていたあの曲。脳は拒否反応を示したけど、視界に映る町並みに似合いすぎていて、曲を変えることはできなかった。この曲を彼とコード付きのイヤホンで片耳づつ聞きながら、手を繋いで歩けたらどんなに良かっただろうか。今からでも二軒目に行けば、1%位は可能性があるだろうけど、そのころの彼の手には煙草が挟まれているのだろう。贅沢だけど、それじゃ私の夢は叶わない。


 私の夢を作り上げたサビが流れる。憎たらしい気持ちさえ芽生えながら、角を曲がって、みんなの視界から完全に遮られたところで立ち止まった。


 夢を叶えられなかった悲しさが、濁流のように押し寄せる。悲劇のヒロインを気取らないよう、涙だけはこらえて壁にもたれかかった時、右耳も音楽に占有された。


 気配と驚きを感じて振り返ると、口で息を切る松山くんが立っていた。

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