第九話

 さっきまでその中に居たのに、個室に入るだけで、水の中に入ったかのように騒音のデシベルは下がり、別世界に来たような気持ちになる。蓋が閉まっている便座に腰を掛けたまま、鼻と口で呼吸を繰り返す。シュノーケルゴーグルを使った時みたいな、新鮮さと対極にある空気が私の体に入ってくる。


 内扉には、所狭しと様々なポスターや広告が張り巡らされていて、思考を取り戻しつつある脳でも、その情報を取ろうという気にすらならない。


 人に対しても、こんなふうに相手の意思や情報を読み取ることを諦められたら、楽だろうか。


 今日、美鈴と共に現れた松山くんは、私がイメージしていた通りの、まさしくあの映画に出てくるような風貌をしていた。けれど、その一挙手一投足から情報を読み取ろうとすればするほど、私のイメージからは遠のいていった。


 女子を褒めるときのナチュラルさ。スムーズに取り出した煙草。早々に諦めていた私達の前で語った夢。履くのに時間のかかる運動しにくそうな角張った靴。そして、トーク一覧に表示されていた未読のままのアイコン。


 そこには、二日前の日付で、明らかに女子と分かる名前にただ一言、ありがとうと表示されていた。彼が異性と連絡を取っていることに嫉妬なんてしない。ただ、今日随所で垣間見た彼の変化していた点が、異性からの感謝の連絡に既読すらつけていないことと繋がり、彼の向こうでの生活が想像できてしまった。


 彼も今時の若者になった一人だったのだ。別に悪いことをしているわけでもないし、私のイメージを保たなければならない義理もない。彼も普通の男子大学生なんだ。


 ただ、それでも私は、今まで散々自分の本心を隠そうとしておいて、今日は素直になろうと決意しておいて、心の中で彼をちょっぴり軽蔑しておいて、振り向いた松山くんと目があった時、本心を察してもらおうとした。


 一言、一緒に行く?と問いかけて欲しかった。


 松山くんには見破ってほしかった。彼には他の誰にも触らせることのない脆弱な感情を、優しく撫でてほしかった。でも、もう、私が惹かれていたあの頃の松山くんはどこにも居ないのかもしれない。


 鞄からバイブレーションの振動音が聞こえる。スマホを取り出すと画面には、母からの着信が入っていた。当然、今は電話のアイコンをスライドさせる気になれない。大方、今日は晩御飯がいるのかどうかの連絡だろうと思っていると、暗くなった画面に予想通りのメッセージが表示された。必要が無いことをスタンプで伝えて、鞄からイヤホンケースも取り出す。


 松山くんの部屋であの本を見つけてから、夢を叶えるのは彼とだと、決めていた。薄々、そんな機会は無いだろうと思っていた。それでも、訪れたこの大チャンスで、私は自分の欲望を口にすることすらできなかった。もう、この夢は手放さなければならないのかもしれない。


 そう思いながら、最後にと、あの曲の主題歌を流した。


 相変わらず、女性シンガーが透き通るような美しい声で歌っている。もうそろそろ、美鈴あたりが心配して様子を見に来るかもしれない。だから一回だけ、約四分間だけ、夢を忘れるために、目を閉じてあの映像の中に行きたかった。


 瞼の裏側に、憧れのシーンが浮かぶ。人の少なくなった通りを、手を繋いで歩く二人。だけど、やっぱり、煙草の匂いなんてどこにも混じっていない。


 松山くんが夢を諦めたことが、私の夢を諦めることにも繋がってしまった。


 瞳を開くと、画面に一粒、雫が垂れた。


 バラードはバッドエンドによく似合う。

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