第五話

「ごめんー、お待たせ!」


 流れていた曲がサビに差し掛かって、この高揚感にバラードは似合わないかなと思い、選曲を変えようとしたところで、美鈴の声が聞こえた。それを聞いて、待ち合わせをしている時に、イヤホンを外出音モードに切り替えていたことを思い出した。声の方に目線を送ると、見覚えのある男子が、美鈴の隣を歩いている。


 目元を隠さない程度に、前髪がそのままの色で伸びていて、当時のままかけられている黒縁のメガネが、当時よりも似合っていた。


 イヤホンをケースにしまおうと、カバンを開いたその時。


「春香ちゃん大人っぽくなったね。すげー綺麗」


 久々に聞くカジュアルな褒め言葉が、イヤホン越しに耳に刺さる。


「うわ、さっき私と会った時は、お前変わってなさすぎとか言ってたくせに」

「それは中身の話だから。コンビニの中であんな大声で声かけてくるやついねーって。美鈴もメガネ似合ってるけど」


 今更言われてもねえと、分かりやすい照れ隠しをする美鈴を見ながら、照れ隠しですら、反応できないことをイヤホンのせいにした。


「松山くん、久しぶり」


 ケースをしまう私を見て、何かを察した様子で、彼の無骨な喉仏が、久しぶりだねと鳴る。


「ほんと久々、なんで正月帰ってこなかったの?」

「いや、今年は向こうの友達とスキー行っててさ、こっち戻ってくる金とかもそんな無かったし」


 細身ながら、無地のシャツでも着こなせるスタイルの良さと、黒スキニーに張り付いている筋張った肌は、私が楽器の個人練をしていた時に、バレーボール部で汗を流す彼を眺めていた時のそれと変わらない。


「そこはちゃんと計算しといてよー。まあ成田以外、日程合ったし良いけどさ」


 彼は今時の若者にしては珍しく、ツイッターもインスタグラムもやっていない。だから、前髪の長さくらいしか今時の若者へと変化していない、彼の現在も知らなければ、彼が新たに形成したであろうコミュニティは、想像の中でしか生成されない。その想像が予想通りなのか、勝手な期待はずれなのか、確認する勇気も私にはない。


「ほんと、一時間もしないで決まったね」

「俺もあんなすぐ決まると思わなかったわ」


 彼がグループに投下したメッセージが、画面上部に通知された瞬間、私はバイト帰りに立ち寄ったドラッグストアの化粧品コーナーを抜け出し、二つエレベーターを登った先にある、大型の書店に向かっていた。すぐに反応するのも憚られて、別のアイコンが登場するまで既読を付けたままにしたけれど、仮に人数が少なくても、その上で彼氏と別れていなくても、私は参加していたと思う。


「ね、まじで秒だった。今でも仲良いじゃんって思っちゃった」

「放課後ずっと一緒に居たもんね」

「自習室ほぼ占領してたもんなー」


 普段は、学校や、それぞれの課題が終わり次第、塾の自習室に集まることが多かった。けど、一度だけ松山くんの家で勉強会をしたことがある。


 黒のカーペットに、紺色のクッションが置かれ、漫画や家庭用ゲーム機で装飾された部屋は、いかにも男子の部屋という感じで、人生で初めてその空間に足を踏み入れていることに、上ずっていた。それを、周囲に悟られないように、興味本位で部屋を眺めていると、勉強机に置かれていた一冊の本に釘付けとなる。


 私の夢を生み出し、完成しつつあったアイデンティティの根源となる、あの映画。その原作となった小説の文庫本。


 まだ真新しさのあるそれは、表紙が少しだけ上にずれていて、半分あたりに栞が挟まれていた。以前、美鈴に映画の話をしたことがあったけれど、部屋に入った時に美鈴も視界に捉えたはずのそれに、何の反応も示していないのを見て、興味の度合いを察してしまい、正面に座った松山くんにも、話すことができなかった。


「そういえば、あの自習室ってまだあるのかな」


 気づかれないと分かっているのに、はっきりと浮かんでしまった脳内の特別な映像を悟られたくなくて、普段どおりを口にする。


「あー、まだあるんじゃない?後輩が使ってるのインスタで見たよ」


 あの栞の位置に、あのシーンが出てきていないことは、二つのアイコンがトーク画面に登場して、私も参加するという旨を送信しながら手に取った文庫本で、確認した。


 彼と話していると、記憶にも栞が挟まれてるかのように、その出来事がもう一度蘇ってくる。


「あ、もうみんなお店の前居るじゃん」


 ギリギリまで存在を主張していた夕焼けは段々と見えなくなり、街をアルコールで色付けだした灯りが、夜の始まりを告げている。


 松山くんはあの文庫本を最後まで読んだのだろうか。


 読んだとしたら、あのシーンをどう思ったのだろうか。


 今日はそのことを、私の本心を、どうしても話したい。


 できれば、二人で、抜け出して。

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