第三話

 余計に水分を失ったからだろうか。いつもよりふやけている気がする。


 お風呂上がりにも麦茶を飲むという、私のルーティーンに合わせて、脳は普段どおりに戻ろうとしているのに、文庫本を掴む指先はベッドに入った今も、悲劇のヒロインを気取ったままでいる。


 そんな不幸な肩書きにいつまでも酔う資格があるのは、付き合った途端に異性の連絡先を片っ端からブロックしていくような、不吉な結末を見越さず恋愛に酔っ払ってしまう、無知な若者だけだ。店先でゲロを吐き、完全に酩酊状態だったあの後輩のように。


 その場の対応に精一杯で、あまり考えられてはなかったけれど、もしあの夢を後輩と叶えていたら、その後の展開は、それこそ悲劇のヒロインどころの話ではなくなっていたかもしれない。


 彼は、あの夢に相応しくない。


 泣かないことを、あくまで自分の中でではあるが、ある種の誇りのように思っていた割に、あれだけ涙を流したことが影響しているのか、彼氏にフラれたのはたった数時間前というのに、今日の出来事を振り返っている自分に少し驚く。


 ただ、それは今日の出来事が彼氏に振られたことと、全く無関係ではないからだと気がついた。それに、さっきまで触っていたインスタも。


 異性が居る場に参加する時は、お互いに報告し合うというのが私達のルールだった。私が飲み会に参加するたびに、口には出さずとも、参加してほしくないということを、元カレは表情や沈黙で伝えていた。自分は言葉にしなかったくせに、私に対してあの台詞を吐いたのかと思うと、お前も似たようなもんじゃねえかと言いたくなるが、私が彼の気持ちを察せている時点で、きっと違う。


 私は、言葉に出してコミュニケーションを取っていたと思う。


 ただそれは、元カレのように、自分の意思を相手に察してもらうために行うコミニュケーションではなく、今まで見聞きしてきた、対外的にその場で最も都合の良い言葉を用いることで、絶対に根本にある気持ちに触らせないための、本心を察せられないためのコミュニケーションだった。


 そんなことないでしょと、笑いながら返したあの場を思い出す。元カレに対しても、似たような言葉を何度も口にしていた。


「せっかくお酒飲める年になったし、行ってみたい」

「飲み会出ないと、バイトも出にくくなるからさ」

「最近年下の男の子入ってさ、それの歓迎会みたいな感じ」


 ふやけていた指先は、元に戻りたいという本心を悟られまいと、視線を送るたび、少しづつ膨らみを増している。


 そして、ついに今日、その言葉すら口にすることなく、私は飲み会に参加した。


 そもそも、元カレが提案したこのルールも、付き合うとはそういうものなんだと、無知な私は納得してしまったけれど、ずっと違和感があった。


 本当に信頼しあっている者同士なら、そんな報告をしまいと、安心できるものじゃないのか。お互いに報告しあうというこのルールが、お互いに信頼できていない証な気がして、ストレスになっていたのは事実だ。少なくとも、憧れたあの映画にそんなシーンは無かった。


 それでも、元カレにその気持ちを話さず、先にルールを破った私に落ち度があることは間違いない。元カレも、段々と連絡の頻度が遅くなっていた私の気持ちに大枠では気づいていながら、話をしようとしない私に対してストレスを感じていたかもしれない。


 多分、今日の内に電話がかかってきたのは、バイト内の共通の友人が、乾杯の様子をインスタのストーリーに投稿していたことが関わっている。もしあの映像を見ていたら、お互いに不信感を抱いていたカップルにおいて、別れの決定打になり得る。


 私の口からではなく、SNSの投稿で私の意思を知った彼の心境を察すると、申し訳なくなる。


 けれど、私のあの夢は、もう彼氏になった人とは叶えられないのだから、どうしようもない。


 飲み会に参加していたのは、ただお酒を飲みたかったわけでも、誰か彼氏の他に私を受け入れてくれる存在を探していたわけでもない。ただただ、あの映像、あの音声、あの輝きの一欠片だけでも感じてみたかっただけなのだ。そんな浮ついた気持ちのことを、略して浮気と呼ぶならそのとおりかもしれない。


 信頼しあえない関係に嫌気が差し大人になれたのか、欲を押し通した子供になったのか分からないけど、自分が、彼氏と幸せな日常を過ごす喜劇のヒロインにも、トラウマをほじくり返される悲劇のヒロインにもなりたいわけではなく、それこそ映画のような、戯劇のヒロインになりたかったのだと、まさしく、私が憧れたそのシーンが描かれている文庫本の表紙を見ながら、痛感する。


 この文庫本をリビングに置きっぱなしにしていたのは、失敗だった。


 昔、暇があれば母にせがんで、DVDを再生してもらい、一緒によく見ていたあの映画のことを覚えていてくれたのは嬉しかったが、あの映画を好きな理由が───気になっている男子と飲み会を途中で抜け出し、夜の街を2人で手を繋ぎ歩く───中盤を過ぎたあたりで出てくる、あのシーンがたまらなく好きで、私の夢になったからだなんて、言えるわけもない。


 ましてや、なんで今になって、この文庫本を買ったのかなんて、もっと言えるわけがない。


 柔らか過ぎた指先は、涙を流して普段どおりに戻りつつある私のように、余計な水分が抜け、いつの間にか普段どおりの硬度を取り戻している。


 その指先は、周囲に悟られることなくその姿に戻れたことを誇っているようにも、そんな自分に酔っているようにも見えた。

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