第二話
「おかえりー」
玄関を開く音が聞こえたのか、私がただいまと言う前に、リビングから声だけが聞こえてくる。
「ただいま、ごめん言ってなかったけど、今日もう食べてきた」
「時間が時間だから、そのくらい分かるけど、ご飯の用意あるんだからそういう時は連絡してよ、…なんかあった?」
「え?なんで?」
冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ私の顔を、覗くようにして母が訪ねてくる。
「飲み会だったんでしょ?その割に元気ないから。あんたお酒飲んで帰ってきたら少し饒舌だし」
友達みたいな母親が良いと言っていたくせに、母は、こういう時に限って親っぽい。
「なにそれ?別に今日そんなに飲んでないし」
できるだけ、普段どおりに。
帰ってきてすぐに麦茶を飲むのは、私のルーティーンだ。それに、いくら友達みたいな母とは言え、今の心情を口にできるほど、私は大人になれていない。
「こんな時間だし、ぱっとお風呂入って寝ちゃうね。体ちょっと冷えちゃったし」
「あ、あんたこれ」
麦茶を冷蔵庫に戻し、脱衣所に向かおうとしている私に母が差し出してきたのは、三日前、駅ビルの本屋で購入した文庫本だった。
「これ、昔、春香とよく見てた映画のやつよね。春香、小さい時だったから、なんでこんな大人向けの好きなのか分かんなかったけど。ちゃんと自分の部屋に置いときなさいよ」
できるだけ、普段どおりに。
「ああ、ごめんごめん。どこやったっけって思ってたとこ。リビングに置きっぱなしだったんだ。ごめんごめん」
少し饒舌になるという言葉を受けて、無理矢理にでも言葉数を増やしながら、受け取った文庫本を、そのまま脱衣所の棚に置き、体の動作を止めることなく入浴を開始する。
少し高い位置に取り付けてあるシャワーヘッドを手に取り、メイクごと、今日生まれた敗北感と羞恥心を取り払おうとするけれど、普段よりも時間をかけて整えたメイクは、中々流れていかない。もう、軽く体を洗い流してから、湯船に浸かってしまえ。
ザプンと音を立てて、水かさが肩まで上がってくる。すでに誰か入ったのであろう湯船は、入浴剤でピンク色に染まっていて、私の体が鎮まることでお湯が溢れ出すこともない。
それでも、ふぅと息を吐いた途端に、普段どおり、という言葉で心を締め付けていた栓も気体となり、垢まみれの幼若な感情が底に鎮まって、涙が溢れた。
映画やドラマを見ても泣くことは滅多に無いが、トラウマになりかけている台詞で一日に二度も傷跡を抉られると、どうしたって体が反応する。
「綾野さんって、何考えてるか分かんないっていうか、ミステリアスなとこありますよねー」
飲み会で二つ後輩の男子に、冗談ぽくそう言われた時は、「そんなことないでしょ」と笑いながら返したが、美しさを感じるほど、一片の接着面すら残さず剥がれていったかさぶたは、ひょっとしたらもう今日の飲み会であの夢が、などという淡い期待と融合して、地面へと落ちた。
その傷跡に、もう元カレとなった男からの一言。
今くらいは、泣いてもいいはずだ。
なんとか、声は出さないように努めても、夜の住宅街は依然として静かで、文字にならない声ですら、簡単に浮き彫りにされてしまう。湯に浸かったままシャワーからお湯を出して、普段どおりを取り繕うとしても、タイルを叩く生活音には、不必要なノイズが混じって、浴室に響き渡る。
涙を流すには十分な出来事なんだ。思い切り泣いていい、悲劇のヒロインを気取ってもいいアンラッキーの重なり具合なんだ。ここまで悲劇的なら、いくら泣いたって、彼氏にフラれたから、ということにはならない。
私は、彼氏にフラれた程度で、ここまで泣いてしまうような弱い女、ということには絶対にならない。
そう自分に言い聞かせ、零れる雫がピンク色の湯船を揺らさなくなった頃には、拭ったメイクが手にこびり着いていた。
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