第42話 父と娘


「おお、フローラ。久しいな」


「そうですね。お久しぶりです」


 隣の部屋でこの部屋の会話を聞いていたけれど、そこはもともと応接室の会話を聞くための部屋なのだという。

 もちろん普段は施錠されていて、その部屋を使うには当主の許可がいるのだけれど。

 そこで聞いた話に衝撃を受けた。イレーネ夫人がライラを置いて逃げるなんて。

 二人とも憔悴しているように見えるわ。特にライラ。

 私はアルフレッド様の隣に座った。


「私をお呼びになりましたか?」


「フローラ、大変なことになったんだ。私は卑劣な犯罪者に騙され、全財産を失ってしまったんだ」


「まあ……それは大変でしたね」


 初めて聞いたような反応をする私に、ライラは無反応だった。


「そうなんだ。それでフローラからも辺境伯にお願いしてくれないか。一億オルドを前倒しで支払ってくれるように」


「契約書に支払いの日付が明記されているのでしたら、前倒しは難しいのではないかと。そもそも私が口を出せる問題ではありません」


「だ、だがガーランドは余裕があるだろう!? 一億くらい、先にくれてもいいじゃないか」


「……」


 一億くらいだなんて、ずいぶんと軽く仰るのね。

 一般的な領民には一生縁がないほどの金額だというのに。

 アルフレッド様は私に対応を任せてくださるつもりのようで、ただ腕を組んで私たちの会話をじっと聞いていた。


「頼むフローラ。その金がないと私は領地と爵位を失ってしまう。そうなれば、貴族として生まれ育った私が生きていくすべなどない。餓死してしまうんだぞ!?」


「餓死ですか。お腹が空くのはとても苦しいですね」


 お父様がぱっと顔を上げる。

 口元には笑みが浮かんでいた。


「ああ、その通りだ。さすが私の娘だ、理解してくれるんだな」


 アルフレッド様が立ち上がりそうになるのを、視線で止める。


「お願いだ、どうか哀れな私を助けておくれ、わが娘よ」


「かわいそうなお父様……。餓死なんてさせられません」


 私のその言葉を聞いて、お父様の笑みがいよいよ深まる。


「私がお父様に、食べられる草をお教えします」


「……。は? く、草?」


「よろしければクロスボウの扱いも。命中率を上げるにはコツがいりますが、普通の弓よりは各段に扱い易いですよ」


「何を……言っている」


 ぽかんとするお父様に、アルフレッド様がちいさく吹き出した。

 お父様の顔がみるみる赤くなった。


「ふ、ふざけているのか! 草にクロスボウだと、貴族として育った私がそんなみじめな生活を……!」


「私はそうやって生きてきました」


 お父様がはっと息をのむ。

 私に言われるまで気づかなかったの? 自分の手で小屋に追いやった娘がそうやって暮らしていたのだと。

 ライラは黙ってうつむいていた。


「そうやって生きてきたのです。餓死するのではないかと思ったこともありました。マリアンがいなければきっとそうなっていたでしょう」


 ライラに言った通り、私は聖人じゃない。ライラのことは憎くなくても、お父様のことは恨んでいる。

 恨んでいるのに、怒りがわいてこない。ただ淡々と言葉が口から出る。


「さすが私の娘。お父様にそう言われたのは今日が初めてです。私の娘という言葉すら聞いたかどうか。ずっと私を娘として見てこなかったのに、イレーネ夫人に言われるままに小屋に追いやったのに、今になって助けてくれわが娘と仰るのですか」


「……」


 語っていても涙も出てこない。悔しさも悲しさも湧いてこない。

 心の中がカラカラに乾いてる。

 自分の中で、もうお父様に対する気持ちは枯れ果ててしまっていたのだとわかった。


「お父様は私を娘として扱ってきませんでした。だから私もお父様を娘として助けることはできません。そしてお父様は伯爵としての責務を負ってきませんでした。だから伯爵位も失います」


「何を生意気な! 伯爵であることの苦労も領地経営のことも何も知らぬくせに!」


「そうですね。私は夫のように領地を運営してきたわけではないのでわかりません。ですが、お父様が一度も領内を視察に行ったことがないこと、お母様とビクターに経営を任せきりだったことは知っています」


「なんだと……!」


「シルドランの領民がだいたい何時に起きて何時まで仕事をし、年にどれくらいの収入になるかご存じですか? 普段何を食べているかは? 領内でとれる作物の種類と収穫量は?」


「……」


「何もご存じないのなら、お父様はシルドラン伯爵でいてはいけないのです。普段の領民の暮らしぶりを知っていたら、簡単に領地を抵当に入れ、領地の命運がかかったお金をはっきりとしない儲け話につぎ込むことなどなかったはずです」


「この……! お前など爵位を持った男に気に入られただけの女ではないか、偉そうに!」


「座れ伯爵」


 お父様が立ち上がりかけたその時、アルフレッド様が低い声でそれを制した。

 あからさまに不機嫌な顔をしてはいないけれど、怒りを無理やり抑え込んでいるように見える。

 その表情に気づいたお父様は、おとなしく座った。


「偉そうにだと? その言葉そっくりお前に返してやる。伯爵として何も仕事をしてこなかったお前にそんなことを言う資格はない。フローラはこの上ない辺境伯夫人だ。もし彼女に何か言いたいのなら、クロスボウ一つ持って魔獣の目の前に立ってからにするがいい」


「な、なんだそれは」


「使用人だけでなく騎士団も心からフローラに忠誠を誓っている。例えばお前が少しでも彼女に乱暴を働き、彼女が助けを求めたら。廊下に立つ騎士がすかさずこの部屋に乗り込んできて、お前の首を躊躇いなく刎ねるだろう」


 さすがにアルフレッド様が一緒にいるときに色々な意味でそういうことにはならないとは思うけど。

 アルフレッド様は城の皆は私の味方なのだと、私は皆に認められている存在なのだと私に伝えたかったのかもしれない。

 そう思うと、冷えていた胸の中が温度を取り戻すかのようだった。


「破産届は一日でも早く出せ。返すあてもない借金が増えるだけだ。無意味に粘ったとしても、いずれ王家から爵位返上を求められる。お前が伯爵でいられる道はもうない」


 お父様が低く喉の奥でうなる。


「私に……私に死ねというのか。爵位を無くし、ライラと二人どう生きていけばいいというんだ」


「そうだな。何もできない上にプライドだけは人の十倍くらいはありそうな男を雇いたい者などいないだろう。だが」


 アルフレッド様が懐から紙を出す。


「良かったな、優秀で人間性も優れた弟がいて。カリスト義叔父上がお前たち二人を引き取ってくださるそうだ。“あんな父親でも野垂れ死ねば優しいフローラが心を痛める、それ以上に食いつめた兄上が下手に犯罪にでも手を出せば辺境伯夫妻にも迷惑がかかるかもしれないから”と。ああ、特別待遇など期待するな。労働者として雇うと仰っただけだ」


「な、に?」


 こちらがお父様の破産に関する情報をとっくに持っていたことにようやく気付いたのね。

 顔がみるみる悔しそうに歪んでいく。


「義叔父上の手紙だ。俺が読んでやろう」


 そう言って、アルフレッド様は紙を開いた。


『辺境伯夫妻に迷惑がかからないよう、兄上および姪のライラに仕事を与える。ただし身内としての特別扱い及び金銭的援助は一切しない。商会に住み込んで働く場合は部屋だけは用意するが、他の職員と同じ広さの部屋となる。夫人の住み込みは許さないので、家族で暮らしたい場合は自分で家を用意すべし』


 手間が省けたな、とアルフレッド様がぼそりと言った。


『二人とも一番下の職員としてのスタートとなる。給与昇進その他の待遇はすべて基準通りとなる。姪のライラについては希望すれば商人として学ぶべきことを教える。兄上はいろいろと手遅れなので雑用係』


 アルフレッド様が笑いをこらえるように口元に手をやる。

 私も思わず笑ってしまいそうになった。


「カリストに……頭を下げる立場になれというのか……!」


「そうなりたくないなら自分で家と仕事を探せばいい。雇ってくれるところがあるとは思えないがな。お前がさんざん妾の子と蔑み虐げた弟だ、引き取ってくれるというだけでも神のごとき慈悲だと思うが」


「くっ……」


「さて、話は以上だ。今度こそお引き取り願おう。騎士につまみ出されたくなければな」


「くそ……くそ……!」


 お父様が立ち上がって扉に向かう。

 子供のころすがりつきたかったその背に向かって声をかけた。


「どうかお元気で、お父様」


 もう二度と会うことはないかもしれない。

 そのことに寂しさを感じない。お父様を慕う時期も、お父様に何かを期待する時期ももう過ぎてしまった。

 お父様は一瞬だけ足を止め、部屋を出て行った。

 ライラも立ち上がる。


「ライラも元気でね。叔父様はいい方だから、一生懸命やっていればきっと認めてくださると思うわ」


 私も立ち上がりつつ声をかけた。


「お姉様も元気で。それから……ごめんなさい」


 ライラがその場で頭を下げる。


「えっ?」


「お姉様の存在が怖かった。私が手にしたもの全部またお姉様が持って行っちゃうんじゃないかって怖かったから、お姉様が追いやられて喜んだ。お姉様を見下して安心したかった。私、自分のことしか考えてなかった」


「ライラ……」


「お母様に捨てられて初めて、お姉様のつらさのほんの一部でも理解できたの。だから許してくれとか助けてくれとかそういうのじゃなくて、ただ謝りたかった。ごめんなさい」


「そんな風に考えてくれてありがとう。前も言った通り、あなたのことを嫌いと思ったことはないのよ」


「ほんとお人よしよね。でも……ありがとう。平民になって、叔父様のもとで一から頑張ってみる。お父様のこともお姉様たちに迷惑をかけないようできる限り見張っておくわ」


「ええ。お願いね」


「じゃあ」


 ライラが扉まで歩いて行って、振り返る。

 アルフレッド様に向かって頭を下げると、そのまま出て行った。

 扉が完全に閉まってから、再びアルフレッド様の隣に座る。


「妹のいうとおり、君はお人よしだな」


「妹にだけですよ。姉というのは妹に甘いものです」


「そんなものかな。……父親に対しては、少しはすっきりしたか?」


「どうでしょう。お父様との心のつながりはとっくに切れていたのだと確認はできました。そして、私の居場所はもうここになっているのだなと」


「そうだな。君は俺の愛する妻で、ここの女主人だ。君のいるべき場所はここで、君の家族はここにいる」


「はい」


 うれしくて、急にアルフレッド様が愛おしくなって、自分から軽く口づけた。

 アルフレッド様が少し驚いた顔をする。


「ご不快でしたか?」


「そんなわけはないだろう。むしろ君からされるのはとてもうれしい」


「ふふ、よかった。……あ、そうです、父のことで一つだけ心配事が」


「一億か?」


「はい」


 お父様は苦労を知るべき人だと思っている。

 面倒なことは人任せだったのに権利だけは受けてきたから、お金に対する大切さもわからない。

 そんなお父様が、また簡単に大金を手に入れてしまえばどうなるか。


「思ったほど粘らずにここから出て行ったのも、どうせあと数か月我慢すれば一億が手に入ると思ってのことだろう」


「はい……」


「さて、いつ気づくかな」


 アルフレッド様がニヤリと笑う。


「?」


「契約書には、結婚一年後の日付を支払日として、シルドラン伯爵領への経営支援として、一億オルドを支払うと書いてあるんだ。グレイグ・アストリーともアストリー家とも記載していない。もちろん君との結婚の対価とも書いていない」


「! ということは」


「その頃にはシルドラン伯爵は俺になっている。伯爵領への経営支援と書いていなければ危なかったかもしれないが、この内容なら裁判を起こされても負けはしない」


「……良かったです」


「気づいた時が見ものだな。あの金さえ手に入れればと数か月待ち望んだ分、ダメージも大きいだろう」


 アルフレッド様が鼻で笑う。


「俺は性格が悪いと思うか?」


 私はにっこりと笑う。


「私も同じことを考えていましたから、私の性格もきっと悪いのでしょう」


 アルフレッド様が吹き出す。

 二人で肩を揺らしてしばらく笑っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る