第41話 シルドラン伯爵


 帰路でも毎晩幸せな拷問を受け続け、ようやくガーランドに帰ってきた。

 もうフラフラだ。

 体力は人一倍あるはずだが、寝不足はいかんともしがたい。

 俺もフローラも、今日は話も手短に早々にベッドに入った。もちろんそれぞれの部屋の、それぞれのベッドだ。

 ああ、ようやくあの柔らか攻撃から解放されてゆっくり眠れる。そう思うのに、フローラが隣にいないベッドが何か物足りない。

 陛下に紹介もしたし、ガーランドにも戻ってきた。

 もう同じベッドで朝を迎える関係になってもいい頃だとは思うが、戻ってきたとたんがっつくようにソレかという気がしないでもない。

 とりあえず今日は眠ろう……。


 陛下からの手紙は、帰宅翌日の夕方に届いた。早いな。

 舞踏会の翌日に俺だけ登城し、陛下及びその側近に俺がシルドランを買いたいと思っている旨を話した。

 本来なら伯爵が破産届を出してから話すべきことではあるが、そこはガーランド辺境伯の強みだ。王家に大いに顔がきくので、内々にそういう話ができる。

 そもそも王家も既に伯爵家の事情は把握済だ。領地を抵当に入れるなんてことをすれば、当然王家はその貴族周辺を詳しく調査する。

 たとえ伯爵が粘って破産届を出さなくても、詐欺師に金を丸ごと持っていかれるようでは管理能力なしとしてどのみち爵位の返上を近々求められるだろう。

 多少無能でも領内を回していれば王家も口を出してはこないが、自力では立て直せない事態になれば傷がさらに深くなる前に介入してくる。


 夜になってフローラの部屋を訪ね、陛下からの返事が来たことを告げた。


「それで、お返事は……?」


 フローラが緊張した面持ちで尋ねる。


「現シルドラン伯爵が爵位を返上したのち、シルドラン伯爵を名乗る権利を与えるそうだ。まだシルドラン伯爵位が浮いていないのでただの内定だが」


「シルドラン伯爵を名乗る権利、ですか」


「つまりシルドランの地は五億払って買えということだ。おまけにガーランドとして併合するわけではなくシルドランはシルドランとして持つからガーランドに適用されている税金の軽減もない。それでも良ければ買えというわけだ」


「ガーランドにとってあまりいい話ではありませんね……」


「ああ。それくらいじゃないと諸侯も納得しないと踏んでのことだろう。だが、俺はシルドランを買おうと思う」


「!」


 フローラが顔を上げる。


「つまり俺はガーランド辺境伯兼シルドラン伯爵になる。名乗るときは今までと同じくガーランド辺境伯だが」


「シルドランを買うことはご負担になるのではありませんか?」


「オウルとも色々試算し、ガーランド領主として考えた結果だ。シルドランの経営は数年は赤字になるが、そこを乗り越えれば黒字に持っていけるはずだ。長い目で見ればガーランドのためにもなる」


「なんと言ったらいいのか……ありがとうございます」


 フローラはどこかほっとした顔をしている。

 俺の判断に従う、自分の出身地だということは気にしないでと言っていたが、シルドランを救いたい気持ちが多々あるのはわかっていた。


「君の出身地ということを差し引いても、俺にもシルドランの領民を救いたい気持ちはある。新たな領地を得ることで諸侯に警戒されることがないわけじゃないが、まあ……こう言ってはなんだがシルドランなら大丈夫だろう。妻の出身地を救うという大義名分もあることだし」


 フローラは心底安心したように微笑んだ。

 なんて綺麗な笑顔なんだろう。毎日見ていても見とれてしまう。

 シルドランの領地そのものの問題はこれで片付いた。あとは全力で運営していくだけだ。

 だが。

 フローラの実家であるアストリー家の問題はまだ残っている。


「フローラ。水を差すようで申し訳ないが、伯爵は近々ここに来るのではないかと予想している」


「アルに助けを求めてくると? ……あり得ますね」


「はっきり言うと、俺は君の父親を助ける気はさらさらない」


 冷たい男だと思われるかな、と少し心配になったが、フローラは静かにうなずいた。


「承知しています。むしろそのほうがありがたいです」


 そう言うフローラの顔から、強い決意が見てとれる。

 金を貸したところであの父親では無駄になるだけだとわかっているのだろう。

 そして中途半端にされるよりは、伯爵が少しでも早くシルドランと爵位を手放すほうが領民のためだと。


「君の父親が来たら俺が対応する。そのまま俺に任せてくれてもいいし、父親と決着をつけたいのならつけていい。応接室の隣の部屋で話を聞けるようにしておこう」


「何から何までありがとうございます」


「俺は君の父親に敬意を払うつもりは少しもない。長い間領民を苦しめ、領地を立て直そうと必死だった君の母君を裏切り、何より君を虐待してきた人間だ。殴り掛からないので精一杯だと思う」


「はい。それで構いません。むしろ私のために怒っていただくのが申し訳なくて」


「大事な君を苦しめた人間だ。君のためというより俺が許せない」


「そんな風に感じていただけて、幸せです」


 フローラが微笑する。

 けれどその表情はどこか切なげで、あの伯爵を本気で殴りたい気分になってきた。


「君が納得できる形でおさまるといいんだが。ああ、ガーデンパーティーのあとにも義叔父上と話したんだが……」


 フローラの実家に関する話し合いは、日付が変わるころまで続いた。



 予想通りと言うべきか。

 フローラと話し合ったその三日後に、先ぶれもなく伯爵がやってきた。

 しかもなぜかフローラの妹まで連れてきているという。

 応接室でしばらく待たせたのち、俺はノックもなしにそこに入った。

 どっかりと椅子に座って足を組み、向かいに座る伯爵を見据える。

 無礼な、とでも言いたげな顔をしていた。無礼はお前だ馬鹿めが。


「先ぶれもなく突然来るとは、伯爵は礼儀を忘れたようだ」


 もちろん敬語なんぞ使わない。こいつには不要だろう。

 伯爵は一瞬いらだった表情を見せたが、すぐに愛想笑いを浮かべた。

 こいつがこのアホ面でフローラを長年にわたって虐待してきたのだと思うと、その顔に拳をめり込ませたくなる。

 妹はというと、不気味なほど静かだ。俺と視線は合わせず、人形のように動かない。その表情はどこか憔悴しているようにも見えた。


「無礼をお許しください。なにぶん緊急事態でして」


「ほぉ、緊急事態」


「は、はい……。実は、私めは卑劣な手段で金を奪われまして」


「はぁ」


「それがたいそうな大金でして、このままでは領地と爵位を失ってしまいます」


「へぇ」


 俺は退屈そうに顎に手を当てた。

 伯爵の愛想笑いが引きつる。そうだ、怒れ怒れもっと怒れ。もっとイラつけ。

 この程度のことでフローラにしたことの何万分の一も贖えないだろうが、とりあえず不愉快な気分くらいは味わっておけばいい。

 これはいわば前菜だ。


「で。伯爵は私に何を望んでここに来たんだ」


「は、はい! フローラとの結婚一年後に支払われることになっている一億オルドを、前倒しでいただきたく……。そうすれば王立銀行にある程度返済できますので、差し押さえは免れます。その間、領地の立て直しを……」


「ほぉ。どのように立て直すんだ?」


「へ?」


「だから立て直しの計画だ。話してみろ」


「え、ええ。ですから……まずは税を上限まで引き上げて」


「却下」


「……はい?」


「論外だ。一億の前倒しはできないな。お帰りいただこう」


「へ、辺境伯!」


「金がなければ税を上げればいい? 単純だな。これ以上税を上げれば領民の多くが逃げ出すか……ああそうだ、暴動も起きかねないな」


 暴動と聞いて伯爵が顔色をなくす。

 なんだ想定すらしていなかったのか? 実際にシルドラン領内には怪しい動きがあるようだが、それも把握していないのか。

 おそらくまだ様子を見ながら準備を整えている段階だろうが、何か一つ大きな出来事があれば領民の我慢は限界に達するだろう。


「伯爵のところにも一応騎士団はあるのだったな。さて、どれほどの騎士が伯爵を命がけで守ってくれるかな? 沈みゆく船からネズミが逃げ出すのは早いぞ」


 口元に笑みをのせて伯爵を見据えると、伯爵は小刻みに震えだした。

 不気味なのは妹だ。相変わらず人形のように動かず、視線は伏せたまま。おびえている様子も怒っている様子もない。


「む、娘の前でそのような……そのようなことは……」


「ならこういう場に後継者とはいえ娘を連れてくるな。娘を連れてくるくらいなら夫人を連れてこい」


 そうすれば一緒に思い知らせてやったのに。


「妻は……」


 伯爵が言い淀む。何かあったのか?

 そこで初めて妹が口を開いた。


「母は宝石類を持って一人で逃げました。私が領地に着いた時にはもういませんでした。手紙一つ残さず出て行ったので、私にも行方はわかりません。離婚届だけは置いて行ったようですが」


「……」


 呆れて言葉も出ない。

 実の娘すら置いて一人で逃げた?

 だから王宮の舞踏会でこの妹は何も知らなかったのか。夫人は娘に何も知らせず領地に帰り、伯爵が寝ている隙にでも貴金属を持ち出して逃げたんだろう。おそらく協力者もいたのだろうが。

 つまりこの妹は実の母親にあっさり捨てられたというわけだ。あとで娘と落ち合うつもりなら領地に帰る前に打ち合わせておくはずだ。

 舞踏会での様子からしても、この妹が夫人の計画を知らなかったというのはおそらく事実だろう。

 とんでもない女狐だな。実の娘すら贅沢をするための道具に過ぎなかったのか。


「まさか伯爵夫人ともあろうものが、何一つ責任をとらずすべてを捨てて自分だけ逃げ出すとはな」


 妹の体がぴくりと揺れるが、哀れみなど感じない。

 フローラは妹も大人の事情に巻き込まれたのだと言っていた。妹もまた環境を選べなかったし、つらい目にもあってきたと。

 百歩譲って後継者の地位やボンクラ婚約者を奪ったのはまだ理解できる。奪ったというよりは手の中に転がり込んできたものだろうから。

 だが、積極的に加害しなかったにしても、フローラを見捨てていたことに変わりはない。

 この妹の立場なら、使用人とは違いフローラをこっそりと助けたとしても母親あたりに咎められはしかたもしれないが追い出される危険などなかった。

 それでも助けなかったのは、フローラを邪魔に思う気持ちがあったからだ。

 フローラは小屋に追い出されてもたくましく生きてきたが、動物に襲われて死ぬ可能性も、餓死する可能性もあった。

 そんな状況にある姉を見捨てた女にかける同情心などない。だからといってフローラが許しているものを積極的に攻撃してやろうという気も起きないが。

 つまり興味がない。

 伯爵と仲良く一緒に没落して平民の仲間入りをすればいい。

 贅沢ができなくなるだけで働きさえすれば食べてはいけるし、フローラが味わったつらさや寂しさと比べればそんなもの苦痛のうちにも入らない。


「さて、話は以上だ。お帰りはあちらだ」


 顎で出入り口を示す。


「フ、フローラと話をさせてください」


「断る。虐待しておいて今さらどの面下げて会おうというのだ。ああ、念のために言っておくが、私たちは一年で離婚などしない。だからお前が離婚慰謝料五千万オルドをフローラから奪うこともできない」


 伯爵の顔が歪む。

 なんだ、フローラの優しさに付け込んで本当にその金を受け取る気でいたのか?

 どこまでも図々しいクズだな。フローラにこいつの血が半分流れているなんて到底信じられない。


「お願いです、どうかフローラと!」


「もうやめようよお父様……」


「フローラ! いないのかフローラ!」


 そろそろ騎士につまみ出させようかとしたその時、扉が開いた。

 静かに部屋に入ってきたのは、フローラ。

 その瞳は、凪いだ海のごとき静謐せいひつをたたえていた。

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