第14話 フローラの過去


「十三歳の頃、母が亡くなってわずかひと月で、父の愛人だった人とその娘……一歳下の妹が家に来ました。妹は父の子です。見た目も似ていました。イレーネ夫人……父の後妻となった人は私をひどく毛嫌いしました」


 よくある話ですね、と視線を向けると、アルフレッド様は複雑な表情をしていた。

 お父様は領地経営をお母様と家令に丸投げしていた。

 お母様が領地を立て直そうと必死になっている間、お父様は愛人のところに行って子供まで作っていたのだとわかって衝撃を受けた。


「最初は嫌味を言われる程度だったのですが、最終的には手をあげようとするようになりました。この目のおかげで平手打ちは当たらずに済んだのですが。ただ、いくら目がよくても身体能力は特別優れてはいないので、騎士に私を捕えさせたり殴らせたりしようとしなかったことは幸いでした」


「後妻がそんなので、父親は何をしていたんだ」


「父は主に黙って見ていましたし、一緒になって私を罵ることもありました。後で知ったことですが、父は結婚前からイレーネ夫人に夢中だったようです。ですが父方の祖父の命令で婚約者だった母と結婚しましたから、母とその娘である私のことはどうでもいい、むしろ邪魔な存在だったのでしょう」


「……」


 お父様がお母様のことも私のことも愛していなかったのは知っていたしその事実を受け入れていた。それでも、お父様がイレーネ夫人とライラに愛情を向ける様を見て胸が痛んだ。

 そこで初めて、自分の中にお父様の愛情を求める気持ちがあったことに気づいた。


「お父様は私の“病弱”を理由に妹を後継者に指名し、私の婚約者だった男性はそのまま妹の婚約者になりました。男性側から婚約者変更を申し出たようです」


「俺が言えた義理じゃないが、ろくでもない男だな」


「彼にとっては女伯爵の夫になることが大事だったのでしょう。もともと彼に対して気持ちがあったわけではないので、それに関しては思うところはありません」


「……そうか」


「そして四年前、お父様とイレーネ夫人に敷地の外れにある森の管理人の小屋へと追い出されました」


「何!? まさかそこまで……! それは立派な虐待じゃないか。いやそれ以上だ」


「そうなのでしょうか」


「当然だ。そんなひどい扱いを受けて、頼れる親族などはいなかったのか?」


「母方の親族は関係が途切れてしまっています。母の兄は子供ができず従弟に家督を譲って奥様とどこかへ移り住まれたとか。幼い頃に数度お会いした父方の叔父は、私をかわいがってくださったし、とてもいい方だったのですが……」


「ですが?」


「父がもともと叔父を毛嫌いしていたようで、屋敷に出入り禁止にしてしまったそうです。それでも私に毎年誕生日プレゼントを贈ってくれました。十三歳の誕生日にプレゼントとともにもらった手紙には事業のためにしばらく外国を転々とする予定だと書かれていました。なので今どこにいらっしゃるのか……」


 屋敷を追い出されたばかりの頃、マリアンに頼んで密かに叔父様に手紙を出したことがある。住所は十三歳の誕生日にいただいた手紙にあったものを書いたけれど、その手紙は宛先不明で届かなかった。

 プレゼントをもらってすぐにお礼状を出したときは届いたけれど、その後転居してしまったのね。

 それ以降の誕生日にもプレゼントや新たな住所が書かれた手紙が届いていたのかもしれないけれど、その頃にはすでに屋敷はイレーネ夫人に支配されていたから、それが私に届くことはなかった。


「でも小屋での生活はかえって幸せでした。小屋にはロンおじいさまがいましたから。森の管理人であるロンおじいさまはとても優しくて、私に森の恵みとともに生きていく術を教えてくれました」


「そこでクロスボウの扱いを覚えたわけか」


「はい。狩りの仕方も、動物のさばき方も干し肉の作り方もすべてロンおじいさまが教えてくれました。感情を殺して生きてきた屋敷の中とは違い、そこでは笑ったり泣いたりすることが許されて、ようやく呼吸ができたような……そんな気持ちになりました」


 なつかしい白いお髭のロンおじいさま。

 彼を思い出すと、自然と笑みが浮かんでくる。

 アルフレッド様は、少しうつむきがちに私の話を黙って聞いていた。


「乳母のマリアンも、屋敷の厨房で働きながら自分のお給料で私にパンなどを買ってきてくれました。病気で働けない夫と年老いた母がいて自分の家族への仕送りだけでギリギリな生活なのに、自分の好きなものや身の回りの品など一切買わず……」


 ぐっと喉の奥がつまる。

 あんなにも私を助けてくれた彼女に、私はまだ少しも恩返しができていない。


「そして二年前、ロンおじいさまが突然亡くなって、そこからは一人暮らしに。きっと休みのたびに来てくれるマリアンがいたから耐えられたのだと思います」


「君のような若い女性、しかも自分の娘をそんな場所で一人で暮らさせていたというのか。おまけになんの手助けもせず。……許せないな」


 アルフレッド様の眉間にしわが寄る。

 私のために怒ってくださるの?


「森の恵みのおかげで生きてはいけましたので」


「だからといって平気なわけはないだろう。失礼だが、ここに来た時の君の様子からすれば、食料も十分ではなかったはずだ」


「マリアンの助けもありましたし、食料がまったく手に入らないことは滅多になかったのです。ただ、切り詰めて食べていたので……」


「そうしなければ生きていけなかったからだろう。滅多にということは、食べられない時もあったのか」


「本当に餓死するのではないかと思ったのは一度だけです」


「……」


 アルフレッド様が長く息を吐く。 


「伯爵家の長女として受け取るべきものをすべて奪われ、そんな環境の中で生きてきたとは……。俺にこんなことを言う資格はないのかもしれないが、胸が痛む」


 まさかアルフレッド様にそんなふうに仰っていただけるなんて思ってもいなかったから、戸惑ってしまう。

 同時に、うれしさとも切なさともつかない感情が私の心を揺さぶった。


「私は不幸ではありませんでした。ロンおじいさまとマリアン……私を心から思ってくれる二人がいましたから」


「だとしても、決して平気ではなかったはずだ。特に一人で暮らすようになってからは、心細かった日も、つらかった日も、寂しかった日もたくさんあっただろう」


 あまりにも優しい言葉と声が、胸を締め付ける。


「そう、なのでしょうか」


 笑顔をつくったつもりだったのに、ぽろりと涙がこぼれてしまった。

 どうして。不幸ではなかったのに、むしろ気楽に生きてきたはずなのに。

 けれど、そんな優しい言葉をかけられてしまうと、心の奥にしまい込んだ弱い心が顔を出してしまう。


 亡くなったロンおじいさまを、泣きながら小屋の裏に埋めたあの日。

 マリアンが熱病で倒れて数日で食料が尽き、幾日も草だけを食べてこのまま餓死をするのではないかと怯えたあの日。

 滅多にないほどの寒波と粗末な小屋を揺らすほどの強風の中、冷たい隙間風に震えながら薄い布団にくるまり、お母様の温かい腕に包まれていた日々に思いを馳せたあの日。

 そんな日々とその時に感じた思いが鮮明によみがえって、涙はつぎつぎとこぼれてしまった。


「申し訳ありません、こんな……」


 ぬぐってもぬぐっても、涙は止まってくれない。


「何も謝ることはない。むしろ謝るべきはこちらのほうだ。君の父親にこの結婚話を持ち掛け、君のようなつらい思いをしてきた女性をふざけた契約結婚に巻き込んでしまった。自分の都合だけを考え、君がどういう経緯で、どんな思いでここに来たかを知ろうともせず……本当にすまなかった」


 アルフレッド様が、私に向かって頭を下げた。


「どうか謝らないでください。私はアルフレッド様に救われたのです。ここに来なければ私は金持ち老人の妾にでもされていたかもしれません。それに、こんなに良くしていただいて、今本当に幸せなんです」


「そこまでいい待遇ではないと思うが」


「いいえ。周囲の人は皆優しくてくれますし、食事はとても美味しいです。お風呂もお部屋も私には贅沢すぎるほどです」


 ふ、とアルフレッド様が笑う。


「それは君が受けるべき当然の扱いだと言っても納得はしないのだろうな。ここにいる間はもちろん、君がこの城を離れても君が美味いものを食べ快適に暮らせるようにすると約束しよう。君には幸せに暮らす権利がある。もちろん伯爵領には帰さない」


 アルフレッド様の優しい言葉に、胸が温かくなる。

 いつの間にか涙も止まっていた。


「ふふ、それはありがたいです。ですがそこまでしていただかなくても。領内のどこかに住ませていただければそれだけで」


「いいや、俺がすべきことなのだからそうさせてくれ。もともと契約上、離婚後に五千万オルドを君に支払うことになっていることだし」


「えっそんな大金を!?」


 それに関してはお父様は何も仰っていなかったわ。

 ということは、そのお金も自分の懐に入れるつもりだったのね。


「金に関しては伯爵は何も話していなかったんだな。まったく……」


 アルフレッド様がいらだった様子で髪をかきあげる。


「五千万オルドは伯爵ではなくちゃんと君自身に支払う。それとは別に君が幸せに暮らせるよう尽力するつもりだ」


「何から何までありがとうございます」


 なんだか申し訳なくてうつむいてしまう。

 そんな私を、アルフレッド様はじっと見た。


「不思議だ」


「はい?」


「普通なら女性とこうして二人きりで話しているだけでも緊張感と嫌悪感を感じるんだが、君とこうして話していても不思議と嫌悪感は感じない。多少緊張してはいるが」


「そうなのですか」


「だから、君が提案してくれた通り、俺の女性恐怖症を治すのを手伝ってくれないだろうか」


「……! はい、もちろんです! お役に立てるのでしたらうれしいです!」


 たくさんのものを与えられるだけの立場に引け目を感じていたから、自分にできることがあるなら本当にうれしい。

 アルフレッド様は当然の報酬だと仰っていたけれど、自分は何もせず人に何かをしてもらうというのはどうも苦手みたい。


「私にできることはなんでもしますね」


「ああ。ありがとう」


「早速ですが、アルフレッド様はどういうことを恐ろしいとお感じになられますか?」


 アルフレッド様が苦い表情になる。


「性的ではなく普通に触れているだけでも体が強張る。ずっと触れてはいられないから、女性とダンスも踊らない」


 だから女性嫌いとして有名だったのね。

 結婚式でも、あんなにスタスタ歩いていたのは私が触れている状態が苦しかったからなのね。嫌われていたわけではないと知って、少し安心したわ。


「何よりも恐ろしく感じるのは、女性の裸だな。冷汗が止まらない。それで迫られようものなら……」


 アルフレッド様が口元に手を当てる。

 きっと、以前そういうことで恐ろしい思いをしたことがあるのね。


「そうだったのですね。先ほどは申し訳ないことをいたしました」


「いや、あれは君が悪いわけじゃない。俺の不注意だった。それよりも、情けない男で驚いただろう」


「情けないなどと少しも思いません。何か理由があってそういった体質になったのでしょうし」


「いいや、自分でも情けないと思うんだ。もっと凄惨な目にあっていながらもそれを乗り越えている人も多数いるはずのに、俺は……。いや、愚痴になってしまった」


「つらい気持ちを少しずつ吐き出すことも大事です。それに、アルフレッド様も先ほど私の気持ちに寄り添ってくださったではありませんか。本当にうれしかったです」


 ありがとうございますと笑顔を向けると、アルフレッド様は少し驚いたような顔をした。

 そしてふっと視線をそらす。


「ところで、この症状を克服するために何が必要だと思う?」


「一緒にいる時間を少しずつ増やしていくのはどうでしょう。触れたりはしませんので。まずは一緒にお食事ができるとうれしいのですが」


「いつも執務室で食べやすいものを適当にとっているからな……。それでは体に悪い、騎士なんだから体が資本だとシリルにいつも言われているし、この機会にダイニングルームで食事をするようにしよう。忙しいことには変わりないし、ひとまず夕食のみでもいいだろうか」


「はい、もちろんです!」


 ここでの食事はとても美味しいのだけれど、その美味しさを共有できる相手がいないのを少し寂しく感じていた。

 それも贅沢な悩みだとは思うけれど。

 でも、アルフレッド様が一緒に食べてくださるなら、食事の時間がもっと楽しくなりそう。


「今日はこれで失礼しますね。たくさんお話ができてよかったです」


「ああ。いろいろと……すまなかった」


「ふふ、アルフレッド様が謝るべきことなど何もありませんよ。ではおやすみなさいませ」


「ああ、おやすみ」


 ふわふわとした足取りで部屋に戻り、ベッドにもぐりこむ。

 アルフレッド様に近づけたような気がしてうれしかったけれど、気を引き締めなければ。

 あの方の問題は根深そうだから、浮かれている場合じゃないわ。

 それでも、明日の夕食の時間がとても楽しみ。一緒に美味しいものを食べたいわ。

 そんなことを考えていると、お腹がまたぐぅぅと鳴った。

 ……アルフレッド様に聞かれなくてよかった。

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