第10話 或る家令の憂い


「旦那様、お願いです。支出をもう少し抑えてください」


 執務室の机の向こうにいる旦那様にそうお願いをすると、いつものように旦那様が不快そうに顔をしかめた。


「わかっておる。イレーネやライラにもそう伝えてある」


「そう言い続けて減った支出はほんのわずかです」


「一人食い扶持が減ったところだし問題あるまい」


「フローラお嬢様にかかっていたお金など元々ありません」


「……。まあ安心しろ。フローラには言っていなかったが、離婚後にここシルドラン伯爵領への支援として一億オルドが辺境伯から支払われることになっている。さらに離婚後にフローラ個人に支払われる五千万オルドも合わせれば一億五千万だ。なかなかの額だろう」


 フローラ様を売った金、か。ため息をつきたくなるのをこらえる。

 しかもなぜフローラ様に支払われる分まで旦那様が受け取るつもりでいるんだ。

 旦那様に支払われる一億はたしかに大金だが、それがどれほど領地経営に回されるか。贅沢な生活のために使われるんじゃないのか。


「しかしお金が入ってくるのは一年後でしょう。今現在経営が厳しいのです」


 旦那様が机を強く叩く。


「それをどうにかするのが家令の仕事だろう、ビクター!」


 いいえ本来は伯爵の仕事ですよ。

 そう思っても、口に出すことはできない。


 奥様が生きておられた頃はまだ良かった。旦那様は愛人とその子供の存在を隠していたから今のように大っぴらに金を使うことはなかったし、奥様は堅実な方で旦那様が遊び惚けている間にも熱心に領地経営をされていた。

 領内各地に視察に行き、フローラ様とともに領民の仕事も手伝っていた。伯爵夫人と伯爵令嬢がここまで気にかけてくれていると、領民たちも希望を持っていた。

 先代伯爵が投資事業で成功してその頃に覚えた贅沢が抜けきらないせいか旦那様は浪費癖が激しかったが、それも奥様がうまく抑えていた。

 だからこそ旦那様は奥様に反発し、その子供であるフローラ様のことも冷遇したのだろう。

 身勝手極まりない。

 そもそも旦那様のたっての願いだった男爵家出身のイレーネ夫人との結婚を反対し、フローラ様の母君であるフレデリカ様との結婚を推し進めたのは先代伯爵だ。

 先代伯爵はわかっていたのだろう。この旦那様が領地経営などろくにできない男であることを。

 だからしっかり者と評判のフレデリカ様と結婚させた。

 そんなことをするくらいなら、長男である旦那様ではなく頭が良かった次男のカリスト様に継がせれば良かったものを。

 いや……カリスト様もまた愛人の子だった。跡継ぎを決めた頃はまだ先代伯爵夫人もご存命だったし、それも無理だったのだろう。

 旦那様が結婚と同時に伯爵位を継いだ頃、投資事業で稼いだ金などとっくになくなっており、凶作も重なって伯爵領の財政状況は厳しかった。

 それを自らの持参金も投入して徐々に立ち直らせたのが奥様だったというのに、それに感謝するどころかフローラ様にもあの仕打ちだ。

 奥様は天の国で泣いておられるだろう。


「旦那様。せめてドレスや宝石をもう少し控えてほしいのです」


「ふん、そういうものを領主が買ってこそ経済が回るというものだ。フレデリカはケチだったからな」


「それは経済が健全である時の話です。それで潤う領民などごくごく一部で、大半は上限近くまで引き上げた税のせいで苦しみあえいでいます。しかも王都で買ってこられることも多いため領内に恩恵はほぼないと言っていいでしょう。領民は税が高く生きるだけで精いっぱいで、生活に必要な最小限のものしか買わないため、経済は冷え込んでいます。もう少し税率を抑えなければ取り返しのつかないことになってしまいます」


「えーい、フレデリカのように口うるさいやつだ!」


「申し訳ありません」


「それに私はただ遊び惚けているだけじゃないぞ。ちゃんと儲けのことも考えているんだ」


 何?


「それはどのような」


「まだ具体的なことは何も決まっていない。だがちゃんと考えている」


「……。旦那様。もし新たな事業や投資などをお考えでしたら、必ず事前に私にご相談ください。決して一人で進めることなどないよう」


「本当に口うるさい。わかっている」


「どうかお願いいたします」


「わかっていると言っているだろう、くどい!」


 旦那様は勢いよく立ち上がり、そのまま執務室を出て行った。

 商才など微塵もない旦那様が、どんなことをして金を稼ごうというのか。

 嫌な予感しかしない。

 だがあれ以上強くは言えない。不興を買いすぎれば、媚び上手な執事のジェームズにとって代わられる恐れがあるから。 

 あんな男が家令になって今のように領地経営を丸投げされたら、この伯爵領は本当に終わってしまう。

 それだけは避けなければならない。私はなんとしてでもこの領地を立て直したい。先祖代々住んできたこの地を、ただの荒れ地にはしたくない。

 だが、結局今の領内はひどい有様だ。

 高い税に耐えかねて、土地を捨てて逃げる者も増えてきた。税収はさらに減るだろう。

 ここは伯爵領とは名ばかりの狭い領地で、海に面しているわけでもなく鉱山があるわけでもない、流通の要所でもない。

 農業を基盤に徐々に力をつけていかなければならないのに、奥様が力を入れていた灌漑工事も頓挫したままだ。

 旦那様もイレーネ夫人もライラお嬢様もなぜあんなに楽観的なのだろう。領内の景気が良くなるまで贅沢を控え、その金を少しでも農業振興に回すということがなぜできないのか。ドレスも宝石も山ほどあるというのに。

 奥様がもう少し長く生きられ、当初の予定通りフローラ様が後継者となっていたら、きっとこんな悩みなどなかっただろう。

 フローラ様を見捨ててまでこの地位にしがみついたことは、はたして正しかったのかと今さらながらに思う。


 だが善人面をするつもりなどない。

 お世話になった奥様の娘であるフローラ様が屋敷から追い出されても、私は見て見ぬふりをしてきたのだから。

 乳母マリアンを除けば、使用人は私を含め皆同罪だ。

 フローラ様をお気の毒に思ってはいたが、旦那様やイレーネ夫人の意に反すれば簡単に解雇されるとわかっていたから、マリアン以外にお嬢様に手を差し伸べる者はいなかった。

 己の身を削るようにフローラ様を助け続けたマリアンだけが、この屋敷の良心だろう。

 そして同時に旦那様に残されたほんのわずかな良心の証でもある。

 イレーネ夫人はたびたびマリアンを追い出すよう旦那様に進言していたが、旦那様はそれを受け入れなかった。

 フローラに死なれるのは厄介だ、使い道もある、マリアンが自分の金で勝手にしていることだから放っておけと。

 だからといって最低な父親であることに変わりはないが。


 フローラ様は今はどうされているのだろう。小屋に押し込められていた頃よりはお幸せなのだろうか。

 ライラお嬢様が相手は同性愛者だ、一年で捨てられると触れ回っていたが。

 ……いや。私にはフローラ様の幸せについて考える資格などない。

 私はせめて、この領地のためにできることを精一杯やっていかなくては。

 だが。

 後継者がライラお嬢様になると見るやフローラお嬢様からライラお嬢様にあっさり乗り換えたアーサー様と、ライラお嬢様がこの伯爵家を継いでいくのか。

 せめてアーサー様が女性に誠実でないながらも金銭面で堅実な方だといいのだが、そうは見えないところが不安でならない。


 この伯爵領は、いったいどうなってしまうのだろう。

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