第6話 ここは天国


 応接室を出ると、シリルが廊下で待っていた。

 そして私がこれから住む部屋に案内してくれたのだけれど、その豪華さに思わず口が開きっぱなしになってしまった。

 広い部屋の中には天蓋つきの大きなベッド、白を基調とした上品な家具。ソファもテーブルも一級品だと一目でわかる。床もきれいに磨いてあって、少しの埃も見当たらない。誰かに部屋を掃除してもらえるありがたさを思い出した。

 シリルが去ったあとに、靴を脱いでベッドにあがってみる。はしたないとは思うけれど、どうしても感触をたしかめてみたかった。

 ごろんと寝転がってみると、その寝心地のよさに驚いた。決して硬くはないけれど柔らかすぎず、ほどよく体を支えてくれる。

 そして掛布団をかけてみると、そのあまりの軽さに驚いた。これは……中に水鳥の羽毛が入っているお布団かしら? 軽いのに温かくて、あああもうこれは人をダメにするベッドだわ。

 うれしくてゴロゴロと左右に転がっていると、ノックの音が響いた。

 あわててベッドから下りて布団を整え、返事をする。

 入ってきたのは、私より少し年上らしきの女性だった。あごくらいまでの長さで切りそろえられた栗色の髪に、アイスブルーの瞳のきれいな女性。


「本日より奥様のお世話をさせていただきますラナと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


 感情をあまり感じさせない表情と声だけれど、丁寧だし私に何か悪い感情を持っているわけではなさそうね。

 きっともともとこういう人なのでしょう。


「丁寧にありがとう。よろしくね、ラナ」


 笑顔を向けると、ラナはぺこりと頭を下げる。


「遠いところからいらしてお疲れのことと思います。ただいまお茶をお淹れしますね」


 ラナが手慣れた仕草で準備を始める。

 カップに紅茶を注ぐ音、ふわりと漂ういい香り、カップからたちのぼる湯気。

 どれもが心地よくて、うっとりとしてしまう。

 お茶菓子の小さなイチゴのタルトもとても美味しそうで、見ているだけでお腹が鳴りそうになる。

 紅茶もお菓子も昨日の宿でのものが数年ぶりだったから、連日となるととんでもない贅沢をしているような気持ちになってしまうわ。


「ありがとう。いただくわ」


 ああ……なんて美味しい紅茶なの。すっきりとした味わいながらも奥深さもあって。

 そしてタルト。甘酸っぱいイチゴと甘いカスタードクリーム、香ばしいタルト生地が絶妙なハーモニーを奏でてもう絶品としか言いようがない。


「紅茶もお菓子もなんて美味しいのかしら。素晴らしいわ」


「お気に召していただいたようで何よりです。お風呂はこのお部屋にあるものか、一階の大浴場もご利用いただけます」


「大浴場?」


「はい、近くにお湯が湧き出ている川があるのです。そこからお湯を引いています」


「まあ、温泉ね! 私、入るのは初めてだわ。是非入ってみたいわ」


「では一緒に参りましょう。お背中をお流しいたします」


「ありがとう!」


 大浴場へ向かう途中、ラナはお風呂やお城についていろいろと話してくれた。

 今から向かう大浴場はグランヴィル家の人間だけが使えるものだということ。

 騎士は敷地内の別棟に住んでいて、魔獣の対応のほかに警護も交代で行うこと。

 魔獣は北の山脈からやってくるので、その麓に大防壁と騎士が常駐する砦があること。


「魔獣は北の山から来るのよね」


「はい。北に広がる、人が踏み入れぬほど険しいバルドラ山脈の奥地で魔獣が生まれていると言われています」


「魔獣が防壁を越えてくることはあるの?」


「そういうことはめったにありませんのでどうかご安心下さい。北の砦の騎士たちの手にあまるほどの強さや数の魔獣が現れたら、城からも騎士が出動することになっています」


「そうなのね」


 アルフレッド様や騎士の方々が命をかけて魔獣を討伐してくださっていたから、このガーランド辺境伯領より南に住む私たちは魔獣の脅威にさらされることなく安全に暮らしていられたのよね。

 そんな方のお役に立てるなら、一年で離縁になるくらいなんでもないわ。


「奥様、着きました」


 ラナが扉を開けてくれると、その奥に壁が見えた。あの壁の向こうが脱衣所かしら? 扉を開けたときに脱衣所が見えないようになっているのね。

 靴を脱いで一段高いところに上がり、壁の向こうまで歩くと広い脱衣所が見えた。

 ここなら子供と一緒にゆったり着替えることができそうね、という考えがよぎって、思わず苦笑してしまう。

 子供ができることなんてないのに。

 ラナが服を脱ぐのを手伝ってくれるけれど、なんだか恥ずかしい。

 痩せすぎな体はやっぱり貴族らしくないし、そもそも裸を見られるのも大人になってからは初めて。

 もちろんラナは「痩せすぎですね」などと言うわけもなく、恥ずかしそうにしている私に大きなタオルを巻いてくれた。優しい人だわ。

 ラナが開けてくれた扉の向こうには、広い洗い場と大きな浴槽があった。温泉の匂いなのか、独特な香りも漂ってくる。


「わぁ……なんて素敵」


 美しいタイルで彩られた浴槽は床に埋まっていて、とにかく大きい。普通のバスタブ十個分くらいはありそう。

 ああ、早く浸かってみたい。温かそうな湯気が立つお湯が私を呼んでいる。

 でもその前に髪と体を洗わなければ。


「お手伝いいたします。そちらの椅子に体を預けてください」


 背もたれが水平に近い状態の椅子に座り、言われたとおり体を預けて仰向けになる。

 なんだかもうこれだけでいい気持ち。浴室の中はほどよく温かいんだもの。

 髪にお湯をかけられ、思わず声が出てしまいそうになる。

 ラナが持っていた瓶のふたを開け、私の髪に塗り込んでいった。


「これは何?」


「はちみつを少し薄めたものです。髪にいいのですよ」


 私の髪がパサパサだから気を使ってくれたのかしら。

 はちみつを洗い流さず温かいタオルで髪をくるまれ、小さな木の椅子に移動して体を洗われる。

 タオルで優しく体をこすられ、そのあまりの気持ちよさに裸を見られて恥ずかしいという気持ちも消え去った。

 もう一度背もたれつきの椅子に移動して髪を洗い流してから石鹸で丁寧に洗われ、力強くも優しい手つきにだんだんと力が抜けて意識が……


「奥様、洗い終わりました」


 ラナの声にはっとして体を起こす。


「お待たせして申し訳ありません」


「いいえ、ありがとう。湯舟に浸かってもいいかしら」


「もちろんでございます」


「じゃあ失礼して……」


 タオルを取り払い、ゆっくりと浴槽の中の階段を下りる。

 少し熱く感じる。

 さらに下りて、体を完全に沈めると思わず「あぁ……」と声が漏れた。


「熱くはありませんか?」


「最初は少し熱く感じたのだけれど、今はとても気持ちがいいわ。はぁ……最高の気分よ」


「それはようございました。このお風呂はいつでもお入りいただけますし、私もいつでもお手伝いいたします」


「まあそうなの? こんな贅沢をしていいのかしら。恐ろしいくらいだわ」


 ラナがクスッと小さく笑う。


「……失礼いたしました」


「ふふ、気にしなくていいわ。ラナの笑顔が見られてうれしいもの。笑いたいときに笑うのは大事よ」


 イレーネ夫人とライラが屋敷に来てからは、私はいつも無表情だった。

 笑っているとイレーネ夫人に敵意を向けられたから。

 森の小屋に移るまでは、笑うことも泣くことも忘れていた。

 侍女として仕えているからラナは気軽に感情をあらわにすることはできないでしょうけど、それでも誰かの笑顔を見るとほっとする。

 ラナを見ると、ほんのわずかに口元に笑みを浮かべていた。笑うととてもやさしそう。


「ラナはこの結婚の事情を知っているのよね?」


「はい」


「一年間よろしくね、ラナ。いい主人でいるよう頑張るわ」


「……こちらこそ、未熟者ですがよろしくお願いいたします」


 そう言う彼女の表情は、少し悲しそうだった。



 夕食はダイニングルームに用意された。

 アルフレッド様はもっと遅い時間に食事をとられるらしいので、一人での食事となった。

 あまり寝る間際だと消化に良くないけれど、大丈夫なのかしら……?

 ああ、でも。

 このお料理を前にして、アルフレッド様への心配はどこかへ吹き飛んだ。

 特に仔牛のステーキは絶品で、とても柔らかく噛むほどに旨味が口の中にあふれていく。赤ワインベースのソースととても合うわ。

 付け合わせのジャガイモは油で揚げてあるらしく、外側はカリッとしていて中はホクホク、自然な甘さが感じられた。

 同じく付け合わせのアスパラはバターでよく炒めてあって香ばしい。

 他にも新鮮な春野菜のサラダ、酸味が食欲をそそるトマトスープ、少し柔らかくしたバターが添えてあるふわふわの白パン、デザートにはチェリーパイまで。

 美味しい。美味しすぎる。

 美味しさのあまりガツガツ食べてしまわないよう気を付けながら、心ゆくまで料理を味わう。

 あぁ……なんて幸せ。


 正直なところ、この結婚について少し寂しく感じていた。

 期限が決められていることよりも、私自身は求められていない、相手は誰でもいいのだとわかっていたから。

 けれど。

 侍女は親切でベッドの寝心地は天上の雲のごとし、お風呂は体を芯から温めてくれてしかもいつでも入れる、食事は唾液腺が壊れそうになるくらいに美味しい。


 なんというか、もう……ここは天国だわ。

 天国としか言いようがない。

 ああ、ここに来てよかった。

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