第36話 軍神の乙女心
上杉謙信という女性は、越後国の守護代、長尾家の第五子として生を受けた。
当時、武家に生まれた下の子は、兄たちが戦場で人を殺す代わりにと、仏門に入れられることが多かった。五番目の子である謙信もその例に漏れず、幼い頃から寺に預けられ、仏道に身を捧げた。
――世界が平和でありますように――人々が幸せでありますように。
――ただただ……人が人愛せますように……誰も、泣かずに済む世でありますように。
そんな彼女に、かつての家臣たちが訪ねてきた。
兄たちが内乱で失脚し、代わりに当主になって欲しいと言うのだ。
謙信は理想に燃えていた。
理想に国を作ろう。自分が願い続けた、誰も泣かずに済む世を作ろう。
だが、彼女に従う家臣はいなかった。
家来たちは、長尾家や領民のことなど考えていなかった。ただ、内乱を治められず失態続きの兄たちを失脚させ、自分たちの好き勝手ができるよう、謙信を招聘しただけだった。
謙信がどれほど善政を指示しても、家臣たちは謙信の声を握り潰し続けた。
『素人の謙信様にはわからないのかもしれませんが、これが政治というものです』
『謙信様は長く仏門に入られ、政治には疎いのですよ』
『まぁまぁ、あとのことは我々家臣団が上手くやっておきますから』
それでも、謙信は生まれながらの軍神だった。
内乱や敵国の侵攻の際に、謙信は自ら戦場で指揮を執り、勝利の山を築き上げた。
その実力は戦国の世にあっても比類なく、誰もが軍神と持てはやした。
それから守護代長尾家と、国主上杉家は併合され、謙信は上杉家の家督を継承。名実ともに、越後国全土を統べる王座に就いた。
誰のおかげでもない。彼女が自身の力で手にした、栄光の玉座だった。
――実績はできた。これで皆は私のことを認めてくれるはずだ。今度こそ作ろう。理想の国家を。
そして謙信は正義のために戦った。
大国が小国へ侵略すれば援軍に駆け付け、国家間の争いに領民が巻き込まれれば武力介入で仲裁した。
諸国の領民たちは、誰もが謙信を正義の味方として褒め称え、彼女を愛し、彼女に感謝した。なのに、家臣たちは彼女に冷たかった。
『なんで他国のために俺らが命かけないといけないんですか?』
『そういう謙信様の自己満足のために俺らを巻き込むのやめてくれます?』
『なんで助けた見返りに土地とかお金を要求しないんですか? 俺らタダ働きですか?』
――何故だ。何故わかってくれない。人が死にそうになっているのだぞ!? 人が苦しみ嘆き悲しんでいるのだぞ!? 何故助けようと思わない!? 貴君らは金がなければ人助けもできないのか!? 人は善良なる魂の下に他者を助けるのではないのか!? 苦しむ者を前にして助けたいとは思わないのか!?
『助けてもらう他国には正義の味方でも、俺らからすりゃとんだ迷惑主だよな』
『正義の味方とか言われてチヤホヤされたいんだろ? やってらんねぇ』
『寺のなかで育って社会を知らないから、頭のなかが子供のまま成長してないんだろ』
誰もいない部屋で独り、いつも泣きながら絶望した。
――違う! 私は地位や名声のために戦っているのではない! 自己満足のためなどではない! 違う! 違う! 違う! 違うんだ! 違うんだ……私は、私はぁああああ‼
身も心もボロボロに擦り切れて、幾度も膝を屈した。屈するたびに立ち上がり、それでも、もう無理だと、倒れ込もうとしたとき、彼女のもとに一通の文が届いた。
差出人は織田信長。
近頃勢力を伸ばしている、自分と同じ若き当主だ。
文には、力強く、綺麗な字でこう書いてあった。
『貴方の行動は、素晴らしいことです。心無い者からの言葉に、負けないで下さい』
そのふたつの言葉に、謙信の心は震えた。
信長の手紙には、彼の生い立ちが簡潔に書いてあった。
信長が国内をその目で確かめ、領民の暮らしを肌で感じようとすれば、町で遊びまわる道楽息子だと言われたこと。
死人が出ないよう計略で戦に勝利すれば、真っ向勝負のできない腰抜だと言われたこと。
家を継げない次男三男以下の武士にも出世の機会を与えたいと思い直臣にすれば、付き合う相手が悪いと陰口を叩かれ、うつけ者と嘲笑われ、当主に相応しくないと謀反まで起こされたこと。
自分と同じだと、やはりこの世に正義を理解してくれる家臣などいないのかと、謙信は迷ったが、手紙には続けてこうあった。
『何度も心が折れそうになりましたが、貴方の噂を聞き、私も、貴方のようでありたいと思い、戦うことにしました。誰になんと言われようと、私は乱世を終わらせ、誰もが平和に暮らせる、理想の世界を作りたいのです。私はまず西日本を平定し、争いを止めます。それまでは、東日本のことは関東管領(関東の管理者)、上杉謙信に頼みました。胸を張って下さい。乱世は、貴方の誕生を待ち続けていたのです』
――あぁ、仲間はいたのだな。
涙が止まらなかった。生まれてはじめて、嬉しくて涙を流した。
それからも、謙信は戦い続けた。東日本のあらゆる争いに武力介入を行い、家臣たちが謀反を起こせば、その謀反を武力で鎮圧し続けた。
自分と同じく戦国最強と呼ばれる武田信玄が川中島へ何度も侵攻してきても、その度に退けた。
信長からの手紙も続いた。自分が戦をする前と後は、必ず激励やお祝いの手紙が届いた。
贈り物も頻繁に届き、信長はいつも、女性ものの煌びやかな着物、化粧道具や髪飾り、綺麗な扇や屏風絵、陶器などを送ってくれた。
他の人たちは、貢物があっても、武具や金銭ばかりだった。それは良いことだし嬉しいのだが、信長からの贈り物は、いちいち謙信の心を刺激した。
全身を映せる大鏡と着物が一緒に送られてきたときは、こっそりと女らしいその着物に袖を通し、鏡に自身を映してしまった。
鏡に映る自分の顔が赤らんでいることに気づいたときは、本当に驚いた。
そして信長が足利義昭を奉じて室町幕府を立て直し、京都に呼ばれたときは、喜びで胸が張り裂けそうだった。
信長とふたりで並び、将軍に謁見したときに思った。室町幕府の衰退ではじまったこの戦国乱世。
けれど、彼が成し遂げてくれた。信長は幕府を立て直してくれた。これで、きっと乱世は終わる。信長は、自分の思った通りの人だった。
『今日は来てくれてありがとうな謙信。お前がいてくれると心強いよ』
将軍の御所で彼に手を取られたときは、心臓が止まるかと思った。
『北条征伐に手間取っているみたいだけど安心しろ。西日本を統一したら、西軍の全戦力で協力するから。そのときは、一緒に北条をやっつけような』
彼の笑顔を、いつまでも見ていたいと思った……なのに……。
「…………信長」
昔の夢から覚め、観測者のような白銀の髪に真紅の瞳を持つ今世の謙信は、布団から身を起こした。悲しげな眼差しで自身の手の平を見つめ、その手に決意を握り、弱さを潰す。
一度目を閉じ、再び開いた瞳には、軍神然とした闘争心が宿っていた。
謙信は着替えると、大座敷へと姿を見せた。
部屋には一〇〇を超える家臣たちがひれ伏し、謙信に恭順の意を示していた。
謙信が上座に腰を下ろすと、重臣、直江兼続が表を上げた。
「謙信様。信濃国平定。執着至極に御座います」
白銀の髪に真紅の瞳という、常人離れした容姿を持って生まれた謙信は、今世では生き神様のように敬われている。
白蛇信仰しかり、アルビノというだけで後継者となった清寧天皇しかり、日本人は、生まれながらに白い生物個体に、霊威を感じる民族である。
「うむ。それではこれより、皆に今後の展望を伝える」
軍神の言葉に、家臣たちが身構えると、謙信は力強く、そして厳かに告げた。
「まずは信濃の南、三河国へと侵攻。今川家の属国とされている三河国を解放する。しかるのちに、その三河国の西、尾張へと攻め込む」
静かな言葉は重みをそのままに、徐々に熱量を膨張させていく。
「かの天魔は、必ずやこの乱世に災いをもたらすであろう。その前に、この軍神が尾張の天魔を討つ‼」
『おぉおおおおおおおおおおお‼‼』
謙信が立ち上がると、家臣の誰もが勇ましい声を上げた。
今世は、前世とは違う。
上杉の家臣たちは、誰もが謙信に心酔し、そして崇めている。
戦国最強。神の兵団上杉軍に死角はない。
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