第9話 信長の歴史

 その日の夜。上等な寝台が用意された執務室の机で、俺はろうそくの灯りに囲まれていた。勇者としての能力で、アガルタ世界の言葉と文字に不便はない。山と積まれた資料に目を通しながら、俺は今日一日に起こったことを思い返す。


 信頼する家臣に裏切られ、天下統一の野望は夢と消えた。だが、死んで目が覚めたら、この異世界に俺はいた。


 首を回せば、部屋の大鏡に俺自身の姿が映る。


 若い。おそらくは二十歳かそこらだろう。だが体の感じは、死ぬ前のソレだ。長年鍛えこんだ筋骨の性能をそのままに、若く健康になったように感じる。最高の組み合わせだ。


 そして運命は俺に言う。この肉体で、再び乱世を治めろと。


 ソフィアたちが求めるのは、コボルトたちから国を守ることだ。しかし、この戦国乱世で国を守り切るには、この人間の国が天下を統一する必要がある。コボルト国だけを倒しても、一時しのぎに過ぎない。


 この国を守る。それは、乱世を治めるのと同義だ。すると、ひとりの女を思い出す。


 俺はこの大陸と国の地形資料を机に置いて、代わりに歴史書を手に取った。


 ……生駒吉乃。それは俺がもっとも愛した女の名前だ……


 母親からも愛されない俺と向き合ってくれた女だった。織田家当主ではなく、うつけの悪若を愛してくれた女だった。


 幼い頃から、姉のように慕った。大人になると、すぐに初恋だと気づいた。


 最愛の姉で、最愛の妻で、吉乃は俺の全てだった。


 俺は歴史書を机に置いて、代わりに政治の資料を手に取った。


 ……生前、俺が天下を統一しようと思ったのは、吉乃に平和な世界を見せてやりたかったからだ。でも、俺は吉乃が死んだ後も戦を続けた。


 天下を統一して、全ての戦をなくして、全ての人が笑って暮らせる新世界を創造すれば、死んだ吉乃が喜ぶと思ったから。


 それだけじゃない……吉乃が死ぬ前と同じことを続ければ、吉乃が死んだ現実から逃げられる気がしたんだ。


 国を一つ平定するたびに思った。部屋のふすまが開いて、吉乃がひょっこり顔を出すんじゃないかと。そして、俺を褒めながら抱きしめてくれるのではないかと。


 俺は……現実逃避のために天下を統一しようとしたんだ…………そう、なんだ……


 政治の資料を机に置いて、俺は軍事の資料を手に取った。


 …………なのに。


 秀吉が幸せそうに笑った。

『信長様♪ このサルめが極上の天下餅を献上致します♪』


 家康が握り拳を作って宣言した。

『俺に任せな兄貴! ガキん時の約束通り、一緒に天下取ろうぜ天下!』


 勝家が力強く語った。

『畿内平定祝着至極にございます! このまま殿の天下を作りましょうぞ!』


 久秀がキザったらしく告げた。

『この俺から天下人の夢を奪ったんだ。なれよな、天下人に』


 長秀が温和な表情で言った。

『殿が苦しいことは全て私に話してください。天下取りの苦労は私が担いますので』


 利家が子供っぽくはしゃいだ。

『この忠犬利家、信長様の天下道をどこまでもお供いたします♪』


 そして光秀が涙を流した。

『私は他の誰でもない……貴方の作る新世界で生きたいのです!』


 俺が叫び、皆が応えた。

『よし行くぞてめぇら! 新世界を創りになぁ!』


『おおおおおおおおおおおお!!!!』


 俺は軍事の資料を机に置いて、代わりに農業の資料を手に取った。


 …………いつからだ。吉乃の夢が俺の夢になったのは。


 資料をめくる指に力が入らない。


 いつからだ。勝利の美酒に酔うようになったのは。

 いつからだ。家臣たちが上げる勝鬨の声に幸せを感じるようになったのは。

 いつからだ。自国の幸せを他国にも広めたいと思うようになったのは。

 いつからだ。乱世という病から、世界を救おうと決めたのは…………


 俺は農業の資料を机に置いて、代わりに商業の資料を手に取った。


 なのに、視界がゆがんで読めなかった。


 熱い眼(まなこ)をまぶたで覆い、俺は思い出す。


 俺の天下を望んで、腹を切った男がいた。

 俺の天下取りを叶えようと、俺の援軍を拒み戦に散った男がいた。

 俺の天下統一の夢を邪魔させまいと、五百の兵で三万の敵軍に挑んだ男がいた。そして命と引き換えに、俺を守りぬいた。


 …………いつからだ……俺が、吉乃の死を受け入れたのは…………


 まぶたの隙間から、とめられない雫があふれる。


 だが、俺が救い、夢を見せ、導いたことで狂わせてしまった男もいた。


「吉乃姉さん…………俺らの夢は、あいつを不幸にしたのかな…………」


 俺は、商業の資料を机に置いた。

   

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