第12話 弟の企み
そして信行は、腹のなかで邪悪に笑った。信行は知っていた。政秀は優秀だが、信長のことになると感情的になり、頭の冴えを失うことを。ふだんの信行ならば、事実関係の確認を怠らなかっただろうし、信行の嘘に騙されることもなかっただろう。
信行は深刻な顔を作った。
「悪いな政秀。本来ならば末期の酒と肴を用意したいが、こういうことは行動が早いほうがいい。理想としては、道三が居城に帰るまえに謝罪したい」
表情を硬くする政秀に、信行は休まない。
「兄上に最期の別れをしたいだろうが、その気があるのなら早くにしてくれ。オレは外で待っているからな」
言って、信行は足早に退室した。切腹した人間が苦しまないよう、首をはねてやる介錯が一般化するのは江戸時代になってからだ。
戦国時代の切腹は介錯がつく場合もあるが、基本はひとりで行う。小刀で腹を裂き、出血多量で死ぬまで激痛が続く、非常に苦しいものだった。
政秀は腰から脇差を抜くと、その場に座した。
「信長様…………」
政秀は思い出す。信長に仕えた日々を。教育係りとして仕えた頃、信長はまだ幼かった。
「あなたには、本当に苦労をさせられました」
幼い頃から政秀の言うことを聞かず、好き勝手に振るまってきた信長。このままでは他の家臣に見限られてしまう、と焦燥感が政秀の心を焼いた。なのにいつも、信長は無邪気な笑顔を見せた。
『政秀! 今日の狩りで、こんなにでかい獲物が獲れたぞ!』
『政秀、この瀬戸焼どうだ? 粋だろ?』
『政秀、いい茶葉が手に入った。これ飲んで長生きをしろっ』
そしてあるときに言った。
『政秀、俺はいいことを思いついたぞ! 俺が天下を統一すれば乱世が終わるぞ。他国なんてものがあるから戦争になるんだ。日の本を一つの国とし、尾張も美濃も駿河も甲斐もぜぇーんぶただの地名にするんだ。そうすれば吉乃姉ちゃんは悲しい顔をしなくて済むし、政秀も好きな和歌や茶道ができるぞ! 俺は天下人になるんだ!』
肺が重たい。政秀は短く息を吐いた。
「馬鹿な子ほど可愛い……ですか。まったく、手のかかる若様というのは……」
信行がくるまで胸を満たしていた不安は消えていた。
死を前にしているとは思えないほど穏やかな顔で、政秀は笑った。
「周囲からうつけと言われる貴方の尻ぬぐいに追われて……」
政秀は棚へと視線を回した。飾ってある一口の湯呑を見つめる。
ついこの前、信長が知多半島で買ってきた常滑焼の湯呑だ。
「本当に……楽しかったですよ」
鞘から脇差の刀身を引き抜いて、政秀の目がしらから嬉し涙があふれた。
政秀は武士で、いまは『人生生きてせいぜい五十』と言われている時代だ。
還暦まで主君に仕え、主君を助けるために切腹できるなんて、いい最期と言わずなんと言えばいいのか。怪我や病気で無駄死にするよりも、はるかに死に甲斐がある。
ただ唯一。惜しむらくは、信長が天下人になった姿を見られないことだ。
それでも、政秀は幸せだった。
「信長様。天下をお取りください。そして、どうか天下人に……」
白刃が、政秀の腹に吸い込まれる。
六〇年生きてきて、多くの切腹を見てきた。でも自分でやるのははじめてだった。
自身の腹を横一文字に切り裂いて、とめどなく溢れる血に手を染めて、政秀は呟いた。
「…………あたたかい」
視界が上昇し、天井しか見えなくなった。自分が仰向けに倒れていることに気がついてから知った。
――思った以上に痛いが、思ったほど辛くはないのだな。
痛みよりも、これで可愛い子を救えたという喜びのほうがはるかに上回っていた。
重みをましていく五体は、まるで石になっていくような感覚だった。
勢いよく襖が開いたのは、そのときだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます