第11話 キレる弟


 家臣の報告を聞いて、尾張の末森城城主、織田信行は声を荒立てる。


「道三がアイツを気に入っただと!」


 信行の自室で、家臣は平伏しながら、


「はい。本日昼ごろ、信長殿と会見した道三様はご機嫌うるわしく、信長様のことをいたく気に入られたと、正福寺の坊主が申しておりました」


 信行は歯を食いしばり、舌打ちをした。


「くっ、アイツが道三の機嫌を損ねればアイツの首を道三に差し出し許しをこい、オレが織田家当主になることもできたのに。まずい、まずいぞ」

「そうなのですか?」


 家臣の愚鈍ぶりに、信行は畳を殴りつける。


「あたりまえだろ! 確かに、いままでだって道三はアイツのうしろ盾だった。でも正確にはアイツの妻の帰蝶のうしろ盾だ! だからアイツは『妻にしか価値がないうつけ当主』として人望が薄かった。アイツは美濃との縁取り役にして、当主はオレ信行がやるべきだという声もあったんだ! なのに」


 歯ぎしりをしながら、信行は立ち上がる。


「道三がアイツ自身のうしろ盾になったら、みんなアイツ自身を支持するだろうが!」


 あー悔しい、とばかりに信行は唸った。そこでふと、


「ん? 待てよ。おいお前。アイツはまだ那古野城には戻っていないんだよな?」


 家臣はまばたきをする。


「は、はい……私もことのしだいを密偵の坊主から聞き、早馬でこちらへ参りさきほど着いたばかりです。信長殿はまだ道三殿と一緒か、帰城するにしてもあの大行列。那古野城へ着くのは夕方過ぎかと……」


 信行の顔が、汚く歪んだ。

 喉の奥から狡猾な笑いを漏らしながら、信行は部屋を出る。


「馬だ、オレの馬を準備しろ。これから那古野へ向かうぞ!」


 信行の大声に嫌な予感を覚えながらも、家臣は返事をして走り去った。


   ◆


 空が赤く染まる頃、那古野城では平手政秀が留守を預かっていた。


 自身の執務室で机に向かう政秀。しかし書類は真っ白だ。筆をとるそぶりもない。


 人生経験豊富な年寄りの身とはいえ、岩の心をもっているわけではない。


 もう何時間も正座を崩さず、信長のことを想い続けている。


 信長のことは信頼している。けれど、ものごとの成否は信頼だけでは決まらない。

それが人生だ。そして神仏には悪いが、祈って願いが叶うなら世界中の人の願いが叶っている。政秀は、祈ることに意味はなく、祈りとは、己の精神安定のために行うことだと悟っていた。それでもなお、心中で祈らずにはいられない。


 政秀自身の精神安定のためではない。無意味と知っていてなお、信長のために祈りたいと思ったのだ。


「信長様……」


 主の名を漏らしながら、政秀は信長の成功を祈る。

 政秀が信長を支持するのは、信長が織田家の嫡男だからではない。

 政秀は、信長の器を見抜いているのだ。


 領民たちと楽しく遊ぶ姿を見て、政秀は思った。『なんて領民想いのお方だろう。領民からの支持も厚い。きっと立派な当主になるだろう』


 山野を馬で駆けまわり、タカ狩りにうつつを抜かす姿を見て、政秀は思った。『国内を自身の目と肌で確認し覚えている。きっと国防戦では強い武器になるだろう』


 でも他の家臣、とりわけ重臣たちは、信長をうつけの道楽息子としか見なかった。


 マズイ。と政秀は思った。だから何度も信長に注意した。


 政秀としては、たとえ論理的に『間違っていない行為』だったとしても、周囲の価値感にそぐわない『空気の読めない言動』をすると不利益が生じる。と信長に伝えたかった。


 けれど、天才とはいえ若い信長は『俺間違ってないもん、悪くないもん』『自分の価値感に合わないからって俺を否定するやつがいたらそいつが馬鹿なだけだ』と、子供の頃から聞き入れなかった。


 間違っていなくても、悪くなくても、人間は価値感を共有できない人を支持しない。人望と味方を得るには、空気を読み、社交辞令や人づき合いを覚えなくてはならないのだ。


 信長にはなんとかそこを理解してもらわなければ。


 とそのとき、執務室の襖が開いた。

 深く目を閉じていた政秀は、信長かと思い顔をあげる。

 そこに立っていたのは、信長ではなく、信長の弟信行だった。


「こ、これはこれは信行様。連絡をいただければお迎え致しましたのに」


 頭を下げる政秀に、信行は沈鬱な声で語りかける。


「まずいことになったぞ」


 その一言で、政秀は信行を見上げた。政秀は額に、大粒の冷や汗が浮かんだ。


「俺はよく知らないが兄上、最初はへんな格好で行ってそれから着替えたんだって? どうもそれが道三の気に障ったらしくてね。道三は侮辱されたって、美濃に帰ったよ」


 政秀の体を、心臓が抜け落ちたような絶望感が通り抜ける。

 顔から血の気が引いていく異様な感触を味わう政秀に、信行は作為的な声で、


「きっと道三は兵をまとめたらすぐにも尾張に攻め込んでくるだろう。領民を守るためには、無条件降伏で織田家は斎藤家に臣下の礼をとり、国を差し出すか。でなければ、兄上の首を差し出すか……」

「そ、それはッ」


 政秀が固唾を吞んだのを確認してから、信行は続ける。


「だがオレとしても、実の兄上の首を差し出すのは忍びない……だが代わりの首なんて」


 政秀が立ち上がる。


「ッ、ならば、わたくしの首では!」


 計画通り過ぎて、信行は小躍りしたい気分だった。


「いや、確かにお前は信長の家老だ。若い殿である兄上の教育不足は家老の責任。というていにすれば筋も通るが……」


 言葉を濁し、じらしてから信行は息をついた。


「わかった。オレも頭を下げよう。約束だ政秀。お前が腹を切るならば、オレがお前の首を手に、兄上の名代として道三に謝罪しよう。お前が命を賭けるのだ、あとはオレがなんとしてでも道三の許しを得てみせるっ」

「なんとありがたい。信行様、感謝致します」


 政秀は手を合わせて信行を拝んだ。


 そして信行は、腹のなかで邪悪に笑った。信行は知っていた。政秀は優秀だが、信長のことになると感情的になり、頭の冴えを失うことを。ふだんの信行ならば、事実関係の確認を怠らなかっただろうし、信行の嘘に騙されることもなかっただろう。

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