第10話 カノジョのパパと会いました
応接間を目指し、道三は家臣たちと共に正徳寺の廊下を歩いていた。
道三は、いかにして信長をからかってやろうかと思案する。
あの身なりのことを注意すれば、とうぜん反論してくるだろう。さらにそれをこんこんと言いくるめてやるか。それとも奇抜な格好だとおだてて転がしてやろうか。
どのみち、あの程度の男なら、今回の会見は成功だ。
道三がそう胸をなでおろすと、応接間に到着した。
道三の家臣たちも、信長を嘲笑する気満々だ。家臣が応接間の襖を開けた。その瞬間、
「!?」
道三は再び度肝を抜かれることになる。心のなかで『なんだと!?』と叫んだ。
道三の家臣たちも言葉を失い、息を吞んだ。
はたして、大広間と言ってよい応接間には一人の若者が佇んでいた。その背後と庭には同じような若者たちが座している。
縁側から差し込む太陽光を一身に受けながらその若者、織田信長はゆっくりと首を回した。そして、斎藤道三と真っ向から対峙する。そのときの信長の姿は、先程までの傾奇者ではない。髪を結い直し、烏帽子に直垂(ひたたれ)姿、武士として一部の隙もない正装である。
信長公記によれば『生涯はじめてしっかりとマゲと結い。いつのまにか用意してあった長袴をはいて。これまたいつのまにか用意してあった小刀を挿していた』とある。
圧倒される道三たちのなかで、ようやく一人の家臣が口を開いた。
「こ、こちらが美濃国国主、斎藤道三殿である」
対する信長はひとこと。厳かに、
「で、あるか」
と告げた。そのとき、信長の両目に宿るのは光だった。
愚者の汚泥でなければ、策謀家特有の底が見えない闇でも、まして野心家が滾らせる炎でもない。かといって、敬虔な仏教徒のような空(くう)でもない。
道三は、その光を見た。
その正体は絶対の自信。しかと前を、希望を見つめながら、その瞳に映る道には一点の曇りもない。けれど自身にうぬぼれているわけでもない。
信長は道三と視線を交え、再び口を開く。
「織田信長に御座ります。本日は、道三殿の御尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます」
「う、うむ」
道三は、なんとか返事をすることができた。そこへさらに、
「いや、そういえば先ほど、外でお見かけしました。その時は挨拶もせずに失礼仕った」
道三の度肝は射抜かれた。
信長は、道三が盗み見てくることを予想し、確認していたのだ。そのうえで、あえて傾奇者としての姿を見せ、かと思えば一部の隙もない正装で会見に臨む。これで道三は信長に二度、いや、三度も驚かされたことになる。
道三と信長は、正面に相対して座した。
寺の坊主たちが湯漬けや香のもの、酒を運んでくると、会見ははじまった。
会見といっても、ただ義父と婿が顔を合わせるだけ。内容はただの世間話や雑談だ。
それでも、道三は完全に自分のペースを乱されていた。
巧みな弁舌も、気の利いた台詞も言えない。信長の問いかけに、ありきたりな言葉でしか返せなかった。
だが、もう道三の心には信長をからかう気持ちなど微塵もなかった。
信長の目に宿る、光の正体がわかったからだ。
信長の背後と、庭に控える家臣たち。彼らはみな、同じ光をもった目で信長をみつめていた。それで道三は気づいたのだ。そのありえない状況に。
――この男の家臣は、誰ひとりとして曇りがないのか……
忠勤を尽くすのが武士とはいえ、それはあくまで理想。武士とて欲を持った人間だ。忠誠はうわべだけ。じっさいは、ただ自分にとって得だから仕えているだけ、という武士も少なくない。
家が滅んだとき、お家再興のために尽くす家臣の数などたかがしれている。再就職先を目指してとっととよそへ行くのが普通だ。養う家族がいれば仕方ないのかもしれないが。 道三の家臣とて、道三が大国美濃の国主様だから従っているに過ぎない。
でも信長の家臣は違うのだ。利益で、利で信長に仕えている男がひとりもいない。誰もが、仕えたいから仕えている。道三は心中で首をふる。
否、そもそも仕えているのだろうか? この若者たちと信長はむしろ、まるで同じ釜の飯を食った仲間のような空気を感じる。
若者たちの眼差しを、意志を読み取れたのは、美濃勢のなかでは道三だけだった。謀略に長けた策士としての眼力、人を見る目が、若者たちの本音を暴いたのだ。
主君と家臣で、どうすればこれほどの絆が築けるのか。謀略家である道三にはわからなかった。わからないが、わかることがひとつだけある。
うらやましい。
「婿殿」
会話の途中、道三は、とっくりを手にすると信長に差し向ける。
信長は表情をやわらかくすると、うやうやしく頭を下げ、盃に酒を受けた。
道三は、謀略に生きた男だった。
信じられるのは、金と自分だけ。
それで正しいと疑わなかったし、それで成功をおさめてきた。
金と権力で家臣を束ねても、そも人間とは金と権力に群がるものだと思っていた。
でもいるのだ。目の前に。
道三ができなかったことを、この若さで成し得ている男がいるのだ。
武士なら憧れる、理想の絵物語。
家臣たちとの硬い確かな絆。利ではなく徳に集まった家臣と、家臣に愛される主君。
道三は自問した。
どうして自分は信長のように生きられなかったのだろう。
無論、信長と道三とでは生まれた環境が違い過ぎる。道三では、どうやっても信長のように生きることは望むべくもなかったろう。
それでも、道三には信長と、その家臣たちがあまりに眩しかった。
道三の息子たちは仲が悪く、誰が後継ぎになるかでよく仲違いをする。それどころか、いつ父である道三の寝首をかくともわからない連中だ。
ならむしろ、娘婿であるこの若者に。
そこまで考えて、道三はおしとどまった。
盃を傾ける信長を見つめ、道三は思いなおす。
確かに信長は、素晴らしい将だ。しかし、家臣との絆だけで生き残れるほど、戦国乱世は甘くない。信長の家臣は、並の家臣三人分の働きはするかもしれない。だが信長の敵対者今川義元は、信長の十倍もの兵力がある。
このままでは、信長は家臣もろとも大国に吞みこまれるだけだ。
道三は口のなかで下唇を噛んだ。
このままでいいのか? 予定通り、自分が尾張を支配したとしよう。自分が死ねば、あの親不孝な息子たちが利権を取り合って醜い争いをはじめるだろう。
自分が尾張を支配しなければ、尾張は今川義元に支配されるだろう。そして信長は死ぬ。
道三はどちらも嫌だった。
そして道三の脳裏に浮かんだ第三の未来。それは信長が美濃と尾張のすべてを治め、今川を倒す。それがとても魅力的な未来に見えた。
もはや理屈ではなかった。大国美濃の軍事力と、尾張の豊かな穀倉地帯と港があれば、信長は安泰。道三はこの若者の未来を、信長の行く末を見たくなった。
道三は一度、信長の家臣たちへ視線を回してから、
「家臣に好かれておるな。このように立派な跡取りがいて、信秀殿が羨ましいものだ」
「何を言われます。道三殿にも立派な御子息がいるではないですか」
「あいつらは駄目だ。家臣に利用されていることもわからぬ真正のうつけよ。器ではない。わしの死後、美濃はお主に継いでもらいたいものよ」
優しい声の蝮に、信長はとっくりを差し出した。
「死なれては困りますよ、父上」
道三は、信長の酒を盃で受け、頬をゆるめた。こうして会見はつつがなく終わった。
記録によれば、のちに道三は『自分の子らは、将来信長の家来になるだろう』と漏らしたという。主君殺しで国を盗った謀略家で、残酷な人だと思われていた美濃の蝮斎藤道三が、この会見で信長の実力を見抜き認めたのは、歴史的事実である。
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