第7話 カノジョのお父さんが会いたいそうです

 翌日の朝。朝食を食べ終わった信長は、帰蝶の部屋で素っ頓狂な声をあげた。


「道三が俺に会いたい!?」

「ええ。父上からの手紙で、大切な愛娘であるこのわたくしを娶った男の顔を見たいと」


 澄まし顔の帰蝶とは対照的に、信長は膝を笑わせている。


 ――帰蝶が飯終わったら部屋に来いって言うから来たけど。帰蝶のお父さんの斎藤道三ってあれだよな? 美濃の蝮って言われている。謀略させたら日の本一、背中を見せたら刺してくる人日の本一。信用しちゃいけない人日の本一の!


 信長が脳内で、これでもかという悪人ヅラを想像していると、


「ところで信長さん、なにか、遠くありませんか?」


 信長は、正座する帰蝶から五メートルほど離れたところで膝を震わせていた。


「と、遠くないよ」


 信長は両手を振って誤魔化した。

 帰蝶の表情が険しくなり、声にはこころなしか怒気が含まれる。


「とにかく、信長さんはわたくしの夫なのですから。当日は相応しい振る舞いをお願い致しますわ。くれぐれも、わたくしに恥をかかせないようにッ。もし、わたくしの夫にふさわしくないと父上が判断されたときは……覚悟してくださいまし」


 最後の方は、ややドスの利いた声だった。ただ、帰蝶としては父道三が大軍で尾張に攻め込み、この国を乗っ取る。という意味だったのだろうが、


「え!? う、うんわかった!」


 ――やべぇよ。道三に嫌われたら、き、帰蝶ちゃん連れて帰られちまう!


 道三が帰蝶の腕をつかんで帰っていく映像が、信長の脳裏にこびりついて離れない。


――いやだぁああああああああああああ!


 信長はあらためて、帰蝶を見つめた。サラサラの髪、いつまでも眺めていたい美貌、吸いこまれそうな胸のふくらみ。


 ――うぅ、帰蝶かわいいよ帰蝶! 帰蝶は俺の帰蝶ちゃんなんだ! いまはまだちょっと距離が遠いけど、いつかもっと仲良くなって、帰蝶に好きって言ってもらうんだからな!


 怯えていたかと思いきや、突如として両目を紅蓮の炎に燃やす信長。そのようすを、帰蝶は怪訝な眼差しで眺めていた。


「この人、ほんとうに大丈夫ですかしら」

「え? なんか言った」


 帰蝶は額に青筋を浮かべ、


「ッ……とっとと出て行きなさい!」

「お、おう、じゃあ俺は色々と準備すすめとくわ」


 帰蝶に怒鳴られ、信長は足早に退室。すると、廊下には多くの男性がつめかけていた。誰もかれもが知っている顔。というか、一応はこの那古野城勤務の家臣だったり、弟信行の末森城に勤務している家臣だ。彼らは当主である信長を無視して素通り。立派な箱を手に帰蝶の部屋へとなだれ込む。そんな家臣たちを、信長は止めようともしない。


 部屋のなかからは、帰蝶の高飛車な声が聞こえる。


「アラみなさん。今日はどのような御用向きかしら?」


 織田家の家臣たちは、競う様にまくしたてる。


「帰蝶様! ご尊顔拝謁たまわりまして、恐悦至極にございます!」

「このたびは帰蝶様に似合うと思いまして、このような着物を用意して参りました」

「いえいえ、帰蝶様にはこちらの着物のほうが」

「この京の都より取り寄せた紅など、帰蝶さまに映えるかと」


 いつも通り、帰蝶は気に入った貢物があると、貢主の名を聞いて、嫣然と笑う。


「貴方の名前、覚えてあげるわ」

「ありがたき幸せぇ!」


 そんないつもの光景に、信長は少しさびしいものを感じる。


 先代信秀の嫡男ということで、信長は当主の座を受け継いだ。けれど、信長は家臣たちからの人望がない。理由は単純、誰も、信長を理解できなかったからだ。


 自国の地形を、地図ではなく直接目で確認するべく、山野を馬で駆けまわり鷹狩りをするのも。織田家を支えてくれる領民たちとの交流を深めようと町へ繰り出すのも。家臣たちにとってはただの道楽息子にしか見えなかった。


 そのせいで、信長は幼いころからうつけ者と家臣たちに馬鹿にされてきた。


 そんな信長唯一の価値は帰蝶の存在だ。


 信長の妻である帰蝶は、大国美濃のお姫様だ。そのバックには、当然ながら父親である大国美濃の国主様、斎藤道三が控えている。


 美濃と尾張の軍事力は天地程も違う。斎藤道三という後ろ盾が、小国尾張の防衛に役だっていると言っても良い。故に、こうして連日、織田の家臣たちは帰蝶のご機嫌を取りにくる。そしてあわよくば、帰蝶の推挙を得て、出世しようと企んでいる。


 ――本当に、俺の価値って帰蝶だけなんだな……


 道三との会見が決まったからだろう。落ち込むと、いつもとは違う想いが芽生えた。


 ――織田家にとっては当主の俺よりも、帰蝶のほうが大事なんだよな……実際、今川の大軍が攻めてきたら帰蝶に実家へ手紙を出してもらって、道三に援軍を頼むんだろうし。


 いまの信長には、今川の大軍勢から尾張を守るすべがない。だからこそ早く尾張を統一しようと信長は焦っている。そして間に合わなければ、帰蝶の実家に援軍を頼むのは必然。


 妻に頼りきりの、ダメな夫。そんな結論が、信長の視線を床に落とす。


 ――俺に、帰蝶の夫の資格なんてあるのかな?


 信長は帰蝶が好きだ。信長がまだ十五歳のとき、十四歳だった帰蝶が織田家に嫁いできた。そのときのことはいまでも忘れない。


 信長は帰蝶を目にしたとき、この世にこんな可愛い子がいるのかと度肝を抜かれて、心を奪われた。


 帰蝶は本当に綺麗で、可愛くて、容姿だけでなく気品もあって、所作が優美で、彼女の一挙手一投足にドキドキさせられた。


 なんとか帰蝶と仲良くなりたくて色々がんばったけれど、上手くいった試しがない。でもそれは、全部信長の個人的願望だ。


 帰蝶のことを想うなら、こんな自分と一緒にいるより、実家に帰った方がいい気がした。


 柄にもなく、しょんぼりとした足取りで信長は自室に戻った。

 すると、部屋には政秀が正座して待っていた。


「あれ? どうしたんだよ政秀?」

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